より続く
尹東柱の生涯(5)
1935年9月
尹東柱、平壌の崇実スンジル中学校3学年に転入学。
そのころの中学校は「五年制」が正規の学制だったので、四年制中学校を出ると、高等学校や専門学校、または大学予科などの上級学校へ進学するのには不利だった。その五年制中学校では四学年時までに編入生を受け入れることになっていた。だから三学年を修了した時点で、四学年の最初の学期がはじまる前に五年制の新しい中学校へ移ってゆく手続きをすましておかねばならなかった。
当時、龍井では親日系の光明学園中学部が唯一の正規の五年制中学校だった。そのため民族意識のある家庭、とりわけキリスト教系の家では光明に子どもたちを行かせるのを嫌い、かなりの経済的負担をしのんでも平壌のミッション系崇実中学校(五年制)に転校させた。尹東柱も崇実中学校に転校したかったが、一家の大人たちが許してくれなくて、恩真中学校で四年生に進級し、そこに通いながらひきつづきせがんで、四年生の秋の学期には転校することに同意を得た。当時は九月一日に秋の学期が始まった。
ところが、いざ転校するという過程で、尹東柱は生まれてはじめての大きな挫折を味わった。崇実の編入試験に失敗した。崇実では尹東柱の試験の結果をみて、四年生ではなく三年生への編入資格しか認めなかった。一学年下に入れというのだ。それは「落第」したのと同じ結果になることを意味した。
尹東柱は崇実中学校で3学年の2学期と3学期を過した。その7ヵ月の間、詩は「空想」「蒼空」「南の空」「鳩」「離別」「食券」「牡丹峰にて」「黄昏」「胸Ⅰ」「ひばり」の10篇、童詩は「貝殻」「故郷の家」「雛」「寝小便小僧の地図」「瓦職人夫婦」の5篇、合計15篇を書いた。詩「空想」は、尹東柱が書いた詩の中で初めて活字になったもの。
1935年10月
崇実中学校のYMCA交友誌、『崇実活泉』第15号に尹東柱の詩「空想」が掲載される。これにより上本正夫は尹東柱を知り、『緑地帯』創刊に誘う。尹東柱は『崇実活泉』の編集もした。
「空想」 (多胡吉郎訳)
空想 -
わが心の 塔
わたしは だまって この塔をつみあげている。
名誉と虚栄の 天空にだ。
くずれることを しらず
ひと重 ふた重 と高くつみあげる。
無限なる わたしの空想 -
それは わが心の海。
わたしは両の腕を ひろげ
わが海で
自由に およぐ。
黄金 知慾の 水平線に向かって。
*最終行は当初「金銭 知識の水平線」となっていたものを1936年5、6月頃の清書で「黄金 知慾」となった。
1935年秋
釜山中学4年生上本正夫、満州を訪ねる修学旅行の途次、平壌駅で尹東柱と会い、2時間ほど話をかわす。
早くから詩に目覚め、高名な詩人金素雲キムソウンにも私淑した上本氏は、全朝鮮の中学生詩人たちを集めて、『緑地帯』という超現実主義、モダニズムの同人詩誌を始めたいと計画した。日本語による詩誌ではあっても、日本人だけでなく、朝鮮人学生にも加わってもらいたいと願った。
詩に造詣が深く、上本氏の才能を買っていた釜山中学の森亨教諭(1936年からは教頭)は、計画に賛同、ある日「素晴らしい詩がある」と、朝鮮人学生がつづったという詩を見せた。
平壌で出されたYMCAの誌に載った詩だったが、上本氏はその詩を日本語で読んだ。たしか「空想」というようなタイトルだったと記憶する。その詩の作者が、尹東柱だった。
上本氏は計画中の詩誌『緑地帯』にぜひとも参加をうながすべく、ちょうど修学旅行で満州まで行く機会があったので、途中平壌駅で尹東柱と会った。
2時間ほど続いた会話は日本語で行なわれ、上本氏は熱心に詩誌参加を呼びかけたが、尹東柱は「自分はハングルで詩を書きたい」として、『緑地帯』への参加を固辞した。「ハングルをちゃんと勉強しなければいけない」とも語って、民族の言語への強いこだわりを見せた。
多いときには日に4、5篇も詩作をすると尹東柱は言い、ボードレールや西脇順三郎の詩が好きだとも語った。また、「(尹東柱の)父が自分を医者にしたがっているが、自分にはその気がない」という話や、具体的な内容は忘れたが、弟のことも話題にのぼった・・・・・。
本人に文学志向が強いにもかかわらず、父の尹永錫ユンヨンスクが医者になることを望み、対立を生じることになるのも、尹東柱の伝記にはしばしば登場する逸話だった。
平壌の崇実中学校で出された『崇実活泉』に載った尹東柱の詩が、どうして釜山中学校の日本人教諭の目に触れることになったのか、この点が最大の疑問点として残った"
平壌駅で別れた後、尹東柱と長く会うことはなかった。しかし、上本氏の実家がある釜山近郊の金海キメと、尹東柱の龍井の家と、互いの家を通して、たまさかの郵便による連絡は続いたという。
童詩『貝殻』
ちらほら見える 貝殻
ねえさんが海辺で
ひろってきた 貝殻
ここは ここは 北の国
貝は愛らしい贈り物
おもちゃのような 貝殻
ころころと転がし遊ぶ
片割れをなくした 貝殻
見えない一片を恋しがる
ちらほら見える 貝殻
ぼくのように 恋しがるよ
水の音 波のひびき
(1935・12)
尹東柱の最初の童詩。これ以後、つづけざまに童詩を書く。やさしい言葉で、具体的で、真率に感情を練り上げる、われわれが現在知っている尹東柱の詩の特色と独得な香気が現われはじめた。
当代でもっとも著名な詩人の一人であった鄭芝溶の第一詩集『鄭芝溶詩集』が、1935年10月27日にソウルの詩文学社から出版された。尹東柱の遺品の中に『鄭芝溶詩集』が残っていて、いたるところに赤い線が引かれてあり、ところどころに適切な寸評が書き加えられてある。『鄭芝溶詩集』では「童詩」が大きな位置を占めている。
つづく
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