2022年10月4日火曜日

〈藤原定家の時代138〉寿永2(1183)年4月 義仲討伐の北陸道追討軍進発 琵琶湖の東西から北陸に進軍 大将軍・侍大将のこと 杣工動員のこと 緒戦(義仲側の燧城陥落)   

 


〈藤原定家の時代137〉寿永2(1183)年3月~4月 頼朝・義仲の和議(義高・大姫の婚約) 〈4月~7月、源平両軍戦線の新たな動き~平氏都落ちの概観〉 頼盛(37、清盛弟)正二位・権大納言 より続く

寿永2(1183)年

4月9日

・大江広元、従五位上に叙任。

4月17日

・北陸道追討軍(4万余(「玉葉」)、10万余(「平家物語」))、義仲討伐に出発。17日~28日、順次出陣。

大将軍に右近衛中将平維盛、越前三位平通盛、薩摩守平忠度、左馬頭平行盛、三河守平知度、但馬守平経正(18日、琵琶湖竹生島弁財天で戦勝祈願。琵琶を演奏)、淡路守平清房、讃岐守平維時、刑部大輔平広盛9名。

侍大将には越中前司平盛俊・息子の越中判官平盛綱・同じく次郎兵衛平盛次、上総守(介)藤原忠清・息子の五郎兵衛藤原忠光、七郎兵衛藤原景清、飛騨守平景家・息子の大夫判官平景高、上総判官忠経、河内判官秀国、高橋判官長綱、武蔵三郎左衛門有国11名。

この他、平氏与党の諸国の受領、検非違使平忠綱など340人余が加わる。

山城国和束杣(わづかそま)の杣工(そまく、きこり)動員。逆茂木などによる「城郭」(交通遮断施設)を戦場でつくったり、敵が構えた逆茂木を伐り落としたりするための工兵。

大将軍は家単位に形成された部隊を率いる家の当主で、侍大将は大将軍のもとで兵を預かり、実戦の指揮をする武将たち。結果的に、平家軍が大軍化するとき、一門を構成する各家を単位とする連合という形をとらざるを得ず、全軍を統率する最高司令官はいない。大将軍であっても、他家に所属する御家人への直接指揮はない。

侍大将に宗盛・知盛の有力御家人多数が含まれ、実質的には平家の総力を結集した戦い。しかし、大将軍に重衡・知盛の名前は見えず、維盛を筆頭とする顔ぶれは、富士川戦メンバーと変わらない。これは、遠方僻地への征戦は生死を賭ける苦役であり、一門の傍流や権力中枢から距離のある人びとが、まずあたるようになっていたからと思われる。大将軍の顔ぶれは一門内の力関係を、その固定は人材の払底を表現している。

清盛の嫡子は重盛であったが、重盛の母は身分が低くしかも早くに亡くなった。1170年代になると、清盛の後妻で正妻の時子(二位の尼)の一男宗盛の存在が大きくなり、嫡子の地位に迫ってくる(重盛の家系を小松家、時子とその子どもたちを一門主流と呼ぶ)。

安元3年(1177)5月の鹿ケ谷事件以降、平家と院が対立を深めると、小松家は勢いを失った

重盛は院近臣の一人であり、院近臣筆頭の藤原成親の妹経子(けいし)を妻としており、成親が処分されると、重盛の平家内の立場も苦しくなり、治承3年(1179)の重盛の死によって、小松家は嫡流の位置から滑り落ちた。小松家の嫡子は、重盛と経子の間の三男清経であったが、事件の影響で一男の維盛に移った。維盛も成親の娘を娶っていた。

経正は経盛、通盛は教盛と、どちらも清盛の弟の子で、惣領宗盛の従弟にあたり、これも傍流となる。

清盛の末弟の忠度、清盛の庶子である知度・清房、父基盛を早くに亡くした行盛などは、早くから傍系とみなされた人びと。

侍大将の上総介忠清は維盛の、飛騨守景家は宗盛の乳父(乳母の夫)。彼らの子供たちは、維盛・宗盛とともに育った乳兄弟。乳母は社会的地位の称であり、授乳の女性とは限らないが、その場合でもそういう擬制をとる。彼らはただの主従関係ではなく、養親(やしないおや)と養君(やしないきみ)というミウチ関係にあった。

追討軍の遠征準備は3月に開始された。この時期は、養和飢饉の惨害から立ち直る負担軽減の施策が、積極的に打ち出されるべき時期であった。その大切な時に、平家の軍政下にあった畿内と周辺諸国では、根こそぎ動員が行なわれた。

興福寺などは、宗盛側近の名前で、同寺領山城国相楽郡天山(あまやま)・和束(わづか)両杣(そま、建築用材を切りだす山、現笠置町・和束町)の杣工(そまく、きこり)のうち、兵士として動員できる者は誰々か、リストを出せ、と命じられている。そしてその後、近隣の武士がたびたび現地に足を運び、提出のリストにもとづいて兵士と兵糧米を徴発している。大和国でも、荘園・公領(国衙の支配下にある公の土地)の別を問わず兵士が徴発された。春日社のある荘園で催促にあたったのは、郡内の武士的存在であり、さらにその背後には同じ宗盛の側近がいた。

兵士の徴発台帳はずさんなものだったらしい。動員にあたった大和の荘園の荘官たちは、「与えられたリストどおりに兵士の挑発を行ったので、そのなかに戦闘に堪えうるものがいるかどうかは、我々のあずかり知らぬところ」と開き直っている。和束杣でも杣工らは「我々は日ごろ「弓矢刀兵」を帯びるものではない。しかも36人の杣工のうち27人までを徴発するとは「言語道断」」と抗議する(『平安遺文』4079・4080・4085号)。杣工は工兵として使えるにしても、こんな強引な徴発によってかき集められた民衆兵士が、戦闘意欲を持っているはずもなく、行軍や宿営のすきをねらって、脱走する者が続出したであろうことは、想像に難くない。

和束杣では兵士のほかに兵糧米の徴発を行なっているが、近代以前の遠征軍の食糧・馬糧は基本的には現地調達である。当時「駆武者(かりむしゃ)」という言葉があった。平家と日常的な主従関係を結んでいる武士ではなく、国衙や荘園の力により駆り集められた地方の武士たちである。戦闘部隊のうち、直属軍以外の軍事力というのがこれにあたる。徴発動員された民衆兵士同様、平家に格別の忠誠心を持たず、参戦の必然性もない。彼らにとって、戦さは稼ぎの機会でしかなかった。それは源氏軍の場合も同じである。これら武士は、すでに進発以前から、京都内外で目につく路上の「人馬雑物(ぞうもつ)」を、手当たりしだい強奪し、宗盛に訴えても、とても取り締まれる状態ではなかったという(『玉葉』4月14日条)。軍紀厳正ならざる寄せ集め集団であった。

征討軍は、「かた道を給はッてンければ」とあるように、往きの費用・必需品を道中で徴発するのを許されていた。だから途中で出合う都向けの租税・年貢を、ことごとく奪いとり、琵琶湖岸の村々を略奪しながら北上した。

「平家」覚一本は、「人民こらへずして、山野にみな逃散す」と記す(巻7「北国下向」)。「平家」延慶本ではその記述に続けて、逃げ隠れた人びとが略奪を遠くから眺めながら、大声で一斉に「昔ヨリシテ朝敵ヲシズメ(鎮め)ムガ為ニ、東国北国ニ下り、西海南海ニ赴ク事、其例多シトイヘドモ、此ノ如ク人民ヲ費(ついや)シ、国土ヲ損ズル事ナシ」と叫んだとある(巻7の8)。

富士川の戦いの時にも、戦さを恐れた伊豆・駿河の人民・百姓らが、野に入り山に隠れ、舟に乗って海河に浮かんで、夜ともなると至るところに炊事などする火が見えた、という短いくだりがある(巻5「富士川」)。これは、民衆にとっての戦争というテーマに、ほとんど関心を示さなかった『平家物語』の中では、数少ない印象的な場面。


平家軍、琵琶湖の東西から北陸に進軍。

東路軍(別動隊)は、粟津が原・勢多の橋・野路の宿・野洲の河原・鏡山・山田矢走の渡し・志那今浜・片山・春の浦・塩津の宿・能美(野宇美)越・中河(中河内)・虎杖(板取)崩を経由し還山に至る(この能美越えルートは近世の北国街道で栃ノ木峠を越える道)。

西路軍(主力)は、大津・三井寺・片田(堅田)の浦・比良・高島・木津の宿・今津・海津・荒乳の中山・天熊・国境・匹壇(疋田)・三口(道口)・敦賀津・井河(井川)・坂原(葉原)・木辺山(木ノ芽山)・新道を経由し還山に至り、ここで東西路両軍が合流し義仲軍と対峙。

義仲の勢力圏である信濃国・上野南部・北武蔵と北陸道諸国は飢饉の影響が少ないので、追討使との合戦を長引かせることは不利にならない。義仲は追討使と戦う際、頼朝がその留守を突いて信濃国に攻め込んでくることを警戒していた。

この状態を回避するため、義仲は嫡子義高と頼朝の長女大姫の婚姻を成立させ、頼朝との間に和平を成立させた。この合意が保障となって、義仲は北陸道に軍勢を進めた。

義仲軍は北陸道武士6千余(守備の主力は、稲津実澄・平泉寺の長吏斉命らや、林六郎光明・富樫入道仏誓・斎藤太らなど、越前・加賀の利仁流藤原氏勢力)、「越前の国府、大塩・脇本・鯖波の宿・柚尾(湯尾)坂・今城(今庄)まで」連なり、陣は湯尾峠に、城は藤倉山東端の燧(火打)に構え、能美川・新道川の合流地の大木で堰き止めて人造湖を作り、平氏軍10万余を防ぐ(「源平盛衰記」)。

燧城には、義仲の命令で平泉寺の長吏斎明威儀師、義仲本隊から信濃住人仁科太郎守弘、加賀住人林六郎光明・息子の今城寺光平、冨樫入道仏誓、倉光三郎成澄、疋田二郎俊平・息子の小太郎俊弘、ほか都幡、井家らの諸武士、能登の土田氏、越中の野尻、河上、石黒、宮崎、佐美の諸氏、越前の稲津新介、斎藤太らが続々と集結。

北国下向(「平家物語」巻7):

義仲が東山北陸両道を従え5万余で京へ攻め登る話が聞こえ、平家は、来年、馬に若草を食わせる頃に戦があるだろう、と公に言っていたので、山陰、山陽、南海、西海の兵達が急ぎ平家の許に集まる。東山道は、近江・美濃・飛騨の兵は集まるが、東海道は遠江以東の兵は集まらじ、以西の兵は皆集まる。北陸道は若狭以北の兵は1人も集まらず。義仲追討の後、頼朝追討するということで、北陸道に討手を送る。大将軍に小松三位中将維盛、越前三位通盛、但馬守経正、薩摩守忠度、三河守知度、淡路守清房。

4月21日

・追討使の先陣が燧城を攻撃。しかし、急峻な地形で強襲はできず、大軍を展開できる開けた地形でもないので、追討使は数にものをいわせた力攻めができなかった。合戦は、燧城の向かいの山に付城を構える陣地戦となった。

4月27日

・燧城守備総大将の平泉寺(へいせんじ)の長吏(ちようり)斉明(さいみよう)法師、平家の大軍の前に内応、陥落。敗れた林氏・富樫氏は加賀国の本領の城へ退く。

追討使は、長吏斉明を先陣の案内者として、越前を席巻、加賀と能登の南半部を奪還、義仲の前進部隊を撃破し、加賀・越中国境に迫る。"


つづく


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