1889(明治22)年
12月
坪内逍遥(30)、「読売新聞社」に文学上の主筆として入社。
尾崎紅葉・幸田露伴も入社。
「実は、紅葉と露伴は、この時、同僚となっていたのである。
筑摩書房の「明治文学全集」の、紅葉の年譜を見ると、明治二十二年、「十二月、高田早苗の紹介で饗庭篁村の後をうげ、読売新聞社に入社」と、そして露伴の年譜を見ると、やはりその年十二月、「二十四日、読売新聞の客員となる」とある。・・・・・
(略)
・・・・・、露伴と紅葉は、読売新聞社に同期入社した。ただし露伴は客員だったから、給料は社から呈示された半分の十五円。露伴はそういう職種を自ら申し出た。なぜならその方が身も軽く、勉強の余裕もあったから、と柳田(*『幸田露伴』)は述べている。
露伴と紅葉の、この職業意識の違い(?)は二人の個性を良く物語っている。紅葉はいまだ東京帝国大学に在学中だったから、客員という身分は、彼の方こそ好都合だったはずなのに。まだまだ勉強することがあったはずなのに。しかし彼は、大学に在学中のまま、読売新聞社に正社員として入社し、職業作家の道を選んだ。」(『七人の旋毛曲り』)
12月
子規、常磐会寄宿舎の寄宿生を糾合して「ボール会」を設立、上野公園や隅田川河畔でベースボール大会を催す。
常磐会は旧藩士子弟在京者のために旧主久松家が設けた育英会で、寄宿舎は本郷真砂町にあった。
子規が組織したのは2チームで20人ほど。全寄稿生が40数人であったから、その半数近くを組織したことになる。
12月
饗庭篁村(35)、読売新聞社長本野盛亨と衝突し、読売新聞社を退社。東京朝日新聞社に入社する。
「二十二年の十二月、饗庭篁村が東京朝日に入社した。(中略)読売の軟派主任として連載小説に、劇評に、雑報に特異な文才を発揮したが、幹部と意見が合わず、東京朝日に転じたもの。このとき三十五歳であった。東京朝日は十七日付第一面のトップで篁村の入社を社告、また同面末尾に入社の辞「手前口上」をのせた。(中略)給料は破格の百円、読売のそれの倍であった。これよりさき十一月二十一日、木挽町に洋風三層の歌舞伎座が開場した。このころすでに篁村の入社が内定していたらしく、かれは十三日の東京朝日に歌舞伎座開場の雑報を寄せ、その末尾で劇評の掲載を予告、十二月一日付から「歌舞伎座評」を四回連載した。」(『朝日新聞社史 明治編』)
12月
12月の休み 漱石、カーライルの論文とアーノルド『リテラチュア・アンド・ドラマ』を読む。後者は、中村是公がポート競争のレースに勝ち、賞品として学校から賞った原書を『ハムレツト』と共に漱石に贈ったもの。
予備門へ行く途中両国橋の上で、貴様の読んでゐる西洋の小説のなかには美人が出てくるかと中村が聞いた事がある。自分はうん出て来ると答へた。然し其の小説は何の小説で、どんな美人が出て来たのか、今では一向覚えない。中村は其の時から小説杯を読まない男であった。
(略)
中村が端艇(ボート)競争のチヤンピヨンになって、勝つた時、学校から若干の金を呉れて、その金で書籍を買つて、其の書籍へある教授が、これこれの記念に贈ると云ふ文句を書き添へた事がある。中村は其の時おれは書物なんか入らないから、何でも貴様の好なものを買つてやると云った。さうして、アーノルドの論文と沙翁のハムレツトを買つて呉れた。其の本は未だに持ってゐる。自分は其の時始めてハムレツトと云ふものを読んで見た。些とも分らなかった。(『永日小品』)
12月~翌年
漱石、「オリジナルの思想」「文章」をめぐって子規と手紙で論争。
「漱石が「文章の妙は胸中の思想を飾り気なく」直叙する点にあり、思想もなく「只文字のみを弄する輩」はもちろん、「思想あるも彼らに章句の末に拘泥して」いては、読者を感動させることはできない。「文字の美章句の法」は末の末であり、ideaを中心にしなければならない、と説き、「御前(ごぜん)」のように書きまくっていてはイデアを養う暇もないだろう、少しは「手習」を休んで読書に励んではどうか、と忠告したのに始まる。
子規は Rhetoric の語によってこれを攻撃したらしい。彼はそのレトリックによってアイデアが現われると考えたのであろう。漱石にふたたび長文の手紙を書き、レトリックが必要なのは、アイデアが言葉で紙の上に表現され、読者にそれを正確に感じさせるときであって、自分のいわゆる「文章」は、レトリックのみを指すのではないと断わった。
この経過は、そのころはほとんど誰にも知られなかったが、二葉亭四迷が坪内逍遥に持参した「小説総論」(逍遥が「中央学術雑誌」に発表した)なる短文を思い出させる。周知のように、それは「意」(アイデア)と「形」(フォーム)の関係を論じたもので、「実相を仮りて虚相を写し出す」という定義で知られる。つまり現世の「形」を借りて、其の目的たる「意」を写すのが小説の目的であり、「言葉の言廻し、脚色の模様によりて」現実界の「偶然の形の中に明白に自然の意を写し出さんこと」が大切だと主張するのである。当時一ツ橋にあった東京外国語学校でロシア語を学んだ二葉亭は、べリンスキーの評論からこの理論を知ったのだが、漱石は英文学を通じて、もちろんこの理論を知っていたはずである。」(岩波新書『夏目漱石』)
12月
条約改正問題が収束し、大同倶楽部・大同協和会の両派対立再燃。板垣は調停の意向が強いが、両派とも代表を高知に送り板垣に決断迫る。板垣は第3の道(愛国公党結成)で両派統一を試みる。
12月
ドイツ保護領東アフリカ、パンガニ首長アブシリの反乱鎮圧。1888年、反乱、ドイツ人殺害、幾つかの町を包囲(アブシリはアラブ系、商業に従事。キャラバン通商ルートをドイツ人が奪い、土地収奪の危機に晒される)。ビスマルクは軍人探検家ビスマンを派遣。イギリス・ポルトガル(ドイツ領の南、モザンビークを支配)もドイツに協力、アブシリ軍(最大時8千)を撃破。アブシリはドイツ軍に逮捕され、この月、絞首刑。ドイツは、植民会社の活動を通商のみに限定、現地を帝国直接統治下に置く決定。1990年末、ザンジバルのスルタンから400万マルクで沿岸地域を買収し、現在の「タンザニア」の領域がほぼ確定。抵抗はその後も続く。
12月19日
板垣退助、旧友懇親会を大阪桃山産湯楼に開き、愛国公党組織の方針を発表。旧友懇親会・大同両派合同して愛国公党設立の予定であったが、結果、三派鼎立(大同協和会主導の再興自由党、大同倶楽部、愛国公党の三派分裂状態)の形となる。
この日、大同協和会系の懇親会が開催され、自由党結成を決定。石阪昌孝、自由党組織委員3人の内の1人に選出。
中江兆民、自由党再興派・愛国公党のどちらの集まりにも参加せず、この日上京。これをもって「東雲新聞」時代は終る(新聞は愛国公党派のものとなる)。
12月20日
植木枝盛、大同倶楽部脱退。大同倶楽部が愛国公党に参加しない為。
12月22日
板垣退助・片岡健吉・植木枝盛、愛国公党設立決定。
12月24日
内閣官制、公布。内閣制度の体制が整う。第7条「帷幄上奏権」(対象は軍機軍令)。陸軍は軍令機関(参謀本部)の長である参謀総長が持つが、海軍は軍令・軍政分離がなく、海軍大臣が双方を管掌しており、この権利も海軍大臣が持つ。のち、軍令機関としての海軍軍令部が設立されても、帷幄上奏権をもたない海軍大臣が内閣を飛び越えて所轄事項の裁可を天皇に求める慣習となる。また、陸軍もこれにならう。本来分離すべき軍政・軍令が混合される。
12月24日
第1次山県有朋内閣、成立(第3代内閣)。
主要閣僚は薩長閥。大隈の後任外相には青木周蔵。民権派の懐柔・分断の為、引き続き後藤象二郎を通信相として入閣させる。内閣発足半年後に、駐米公使から帰任した陸奥を農商務相に起用。山県は民権派に影響力を有する後藤・陸奥の2人を閣内に抱え込む。課題は、総選挙と議会開設前に、藩閥政府による揺るぎない支配体制固め。この為、民権派、とりわけ自由党支持基盤の地主・豪農層の切り崩しに努め、名望家を中心とする地方制度の確立をめざす。
12月24日
子規、帰省のため藤野古白と新橋を出発。
12月29日
海南倶楽部、大同倶楽部脱退
12月31日
この日付けの漱石の子規宛手紙。子規の文章や文学の方法を厳しく批判。漱石の文章論で、漱石はアイデアとレトリックとの軽重を説いて、前者の方が後者より遥かに重いとする。
「その交友が深まるにつれて、さまざまな対立をはらんだそれぞれの個性のありようが、交友の深まりに吸い寄せられるようにして立ち現われてくる。この年の十二月三十一日付けの手紙においてすでに、漱石は子規に手さびしい批判を加えるのである。彼は、子規の文章が「なよなよとして婦人流の習気を脱せず」と言う。文学においてまず第一に必要なのは思想であって、「文字の美、章句の法などは次の次のその次に考ふべき事」 であるにもかかわらず、子規にはその認識が欠けている、と言う。そして、このことに気付かずに、朝から晩まで書き続けていても、それは「小供の手習」のようなものだ、「御前少しく手習をやめて余暇を以て読書に力を質し給へよ」と直言するのである。」(粟津則雄、前掲書)
「帰省後は如何、病軀は如何、読書は如何、執筆は如何。如何にしてこの長き月日を短く暮しめさるるや。けふは大三十日(おおみそか)なりとて家内中大さわきなるに引きかへ、貧生のありがたさは何の用事もなくただ昼は書に向ひ膳に向ひ夜は床の中にもぐりこむのみ。気取りて申さば閑中の閑、静中の静を領する也。俗に申せば銭のなきためやむをえず握り睾玉(きんたま)をしてデレリと陋巷にたれこめて御坐る也。この休みには「カーライル」の論文一冊を読みたり。二、三日前より「アルノルド」の『リテレチュア・エンド・ドクマ』と申者を読みかけたり。
御前兼て御趣向の小説は巳に筆を下し給ひしや。今度は如何なる文体を用ひ給う御意見なりや。委細は拝見の上逐一批評を試むる積りに候へども、とかく大兄の文はなよなよとして婦人流の習気を脱せず、近頃は篁村流に変化せられ旧来の面目を一変せられたるやうなりといども未だ真率の元気に乏しく、従ふて人をして案(あん)を拍(うつ)て快と呼ばしむる箇処少きやと存候。総(すべ)て文章の妙は胸中の思想を飾り気なく平たく造作なく直叙スルが妙味と被存候。・・・・・今、世の小説家を以て自称する輩は少しも「オリヂナル」の思想なく、ただ文字の末をのみ研鑽批評して自ら大家なりと自負する者にて、北海道の土人に都人の衣裳をきせたる心地のせられ候。なるほど頭の飾り衣の模様仕立の具合寸分の隙間なきかは知らねど、その人の価値はと問はば三文にも当せず、その思想はと問はば一顧の価なきのみならず鼻をつまんで却走せざるを得ざる者のみのやうに被思(おもわれ)候。・・・・・
小生の考にては文壇に立て赤幟を万世に翻さんと欲せば首(しゆ)として思想を涵養せざるべからず。・・・・・文字の美、章句の法などは次の次のその次に考ふべき事にて Idea itself の価値を増減スル程の事は無之やうに被存候御。御前も多分此点に御気がつかれをるねるべけれど去りとて御前の如く朝から晩まで書き続けにては此 Idea を養ふ余地なからんかと掛念仕る也。勿論書くのが楽(たのしみ)なら無理によせと申訳にはあらねど毎日毎晩書て書て書き続けたりとて小供の手習と同じことにて、この original idea が草紙の内から霊現する訳にもあるまじ。この Idea を得るの楽は手習にまさること万々なること小生の保証仕る処なり(余りあてにならねど)。伏して願はくは(雑談(じようだん)にあらず)御前少しく手習をやめて余暇を以て読書に力を質し給へよ。
御前は病人也。病人に責むるに病人の好まぬことを以てするは苛酷のやうなりといヘども手習をして生きてゐても別段馨(かんば)しきことはなし。 knowledge を得て死ぬ方がましならずや。塵の世にはかなき命ながらへて今日と過ぎ昨日と暮すも人世に knowledge あるがため也。されど十倍の happiness をすてて十分の一の happiness を貪りそかにて事足り給ふと思ひ給ふや。しかしこの Idea を得るより予習するが面白しと御意(ぎよい)遊ばさばそれまでなり。一言の御答もなし。ただ一片の赤心を吐露して歳暮年始の礼に代る事しかり。穴賢。
御前この書を読み冷笑しなから「馬鹿な奴だ」といはんかね。とかく御前の coldness には恐入りやす。
十二月三十一日 漱石
子規御前」
つづく
0 件のコメント:
コメントを投稿