2024年2月9日金曜日

大杉栄とその時代年表(35) 1889(明治22)年10月 鴎外『しがらみ草子』創刊 緑雨「小説八宗」 中江兆民・幸徳伝次郎、東京で活動再開 子規「水戸紀行」 大隈襲撃・重症(玄洋社社員来島恒喜がダイナマイト投擲) 黒田清隆首相辞任 条約改正延期  

 


大杉栄とその時代年表(34) 1889(明治22)年9月 志賀直哉(6)、学習院予備科6級(のち初等科1年)入学 子規「啼血始末」執筆 幸田露伴『風流仏』 漱石(22)、房総旅行の漢詩文紀行『木屑録』脱稿し、松山の子規に送る  子規は跋文を書きこれを絶賛  漱石・子規、第一高等中学校本科一部二年(三之組)に進級 子規上京 より続く

1889(明治22)年

10月
朝鮮、大阪の商人佐竹甚造・土井亀太郎、作柄をみて朝鮮米の投機を計画、翌年3月まで平安道・黄海道で大量に買付ける。穀物価格が騰貴し、黄海道監察使呉俊泳は防穀令を発し穀物の移動を禁止。日本公使の抗議により11日目に解除。佐竹らはこれにより8万円余の損害が出たと主張。

10月
森鴎外、雑誌『しがらみ草子』創刊。明治27年8月廃刊。

10月
広津柳浪「女子参政蜃中楼」(金泉堂)

10月
『文庫』と改題した『我楽多文庫』廃刊。

10月
田口卯吉「条約改正論」(経済雑誌社)。多な人々が集まって国家を構成すると雑居反対を退ける。多民族国家〈日本〉を含意。

10月
江木衷(農商務大臣秘書官)「民法草案財産編批判」。民法延期派。磯部四郎、「法理精華ヲ読ム」(「法政誌叢」明治法律学校機関誌)で反論。江木の無学・誤謬・的外れを批判。

10月
南方熊楠、スイスの大博学者「コンラ-ド・フォン・ゲスネル伝」を読み、「日本のゲスネルとなろう」と誓う。このことがあり、生涯隠花植物の道を歩み続けることになる。

10月初旬
子規、養生のため、常盤会寄宿舎より下谷黒門町無極庵となり木村方(上野不忍弁天境内)に仮寓。

斎藤緑雨(正直正太夫)「小説八宗」(『東西新聞』)

「紅葉や露伴が『新著百種』に作品を発表し話題となった年、明治二十二年秋、緑雨は初めて、正直正太夫の名で『東西新聞』に「小説八宗」を発表する。坪内逍遥(「おぼろ宗」)や饗庭篁村(「篁村宗」)、二葉亭四迷(「二葉宗」)ら当時の人気作家たちの作風を徹底的におちょくった戯文である。」

「この緑雨のパロディ文「小説八宗」は、文学関係者の問で、大きな話題となった(怒りをおぼえた人も多くいた)。正直正太夫という批評家の名が多くの人びとに印象づけられた。その一人、「驚くべき奇才」現わると感じた一人に、のちに緑雨の友人となる、やはり皮肉家の内田魯庵がいた。(『七人の旋毛曲り』)

この年のの秋あたりから、子規、常盤会寄宿舎で同室の新海非風や五百木飄亭らと俳句や小説作りに熱中する。

10月1日
山形県鶴岡町の仏教団体、困窮家庭児童就学促進のための小学校「忠愛尋常小学校」創設、学校給食を始める(学校給食の初め)

10月2日
帰朝する山県内相への工作。
松方蔵相・西郷海相・大山陸相、帰朝する山県内相を条約反対派に組み込むため、前日より横浜富貴楼に泊り込み、この日帰国の山県を待つ。この日、観音崎から連絡を受け新橋駅に着いた大山は黒田に出会う。大山は黒田に先に電報で確認してから横浜に向うほうがよいと進言し、松方・西郷が先に山県と会えるようにする。
夜、条約反対派の品川弥二郎が山県邸を訪れ未明まで説得。山県は大きく反対派に傾く。

4日、黒田が山県に経過説明。7日、山県が伊藤を訪問、何事か打合せ。

10月2日
ワシントン、ラテン・アメリカ諸国のための第1回パン・アメリカ会議開催。ジェームス・ブレイン国務長官の呼掛け。
後インディアナ州サウスベンドに移り半年にわたる会議。18ヶ国参加。本部ワシントンの米州諸国国際本部結成。米国務長官が理事長就任、事務総長ポストも米人独占。以後5年に1回開催。

10月5日
東京退去命令を解かれた中江兆民は東京で活動、家族・幸徳伝次郎ら5名もこの日東京に移るべく神戸を出港。翌6日着。伝次郎も追放後2年ぶりの東京。

10月5日
高野房太郎(20)「ヤンキー」(「読売新聞」)。

10月5日
フランス、ムーラン・ルージュ(「赤い風車」)、エッフェル塔完成に合わせて、パリ・モンマルトルの丘の麓に開店。踊り子、道化師、歌手等、パリで一流の芸人たちを集め、店内の設計や装飾にも大金を使い、店内は贅沢な雰囲気にあふれる。ロートレックは開店当時からの常連客。
10月9日
黒田首相、条約改正問題で閣議開催に応じ、西郷らの忠告により事前に伊藤と協議する事になる。

10月10日
元田永孚、伊藤に書簡。黒田との会談時は「御一言にて・・・一刀両断」、大隈案に決定的ダメージを与えるよう説く。

10月10日
西郷従道、伊藤を訪問。黒田は極めて強硬で、伊藤の対応次第では政変の張本人とされかねない状況。これを知り、伊藤は辞意を固める。

11日、伊藤博文枢密院議長、大隈外相の条約改正案に反対して辞表提出。黒田へ奇襲。

10月10日
杉田定一の南越倶楽部臨時総会、改正条約中止建白書提出を決定、永田定右衛門・山田穣が捧呈委員総代となり県庁へ出頭、建白書を元老院へ差し出す手続を行う。

建白書署名者は、足羽郡12、吉田郡6、坂井郡30、大野郡7、丹生郡46、今立郡17、南条郡29の計147人、倶楽部員以外からの署名調印は得られていない。

10月13日
魚津で米騒動。以後米の暴騰による騒動が全国に広がる。

10月13日
子規、漱石の『木屑録』の巻末にその「評」を記す。

10月15日
閣議に天皇が臨席しての御前会議。伊藤は欠席。後藤逓相が黒田を論詰するが、黒田は敢然反論。決着つかず。

10月16日
黒田首相、小田原に伊藤を訪問、辞表を返す。同日、徳大寺侍従長も伊藤を訪問、辞意撤回を求めるが、伊藤は譲らず。またこの日、山口の井上馨も辞意を伝えるが、黒田には織り込み済みの事態。

10月17日
夜、後藤逓相、再度の御前会議開催要求の意見書作成、翌18日提出。

10月17日
子規「水戸紀行」執筆。

「この紀行を子規が執筆し始めたのは明治二十二年十月十七日、そして書き終えたのは同二十日午後二時三十七分のことであるという。実際に子規が水戸を訪れたのはその半年前、つまりこの年四月のことだ。何で半年も経ってから執筆する気になったかといえば、「此旅行は帰京後一箇月にして病気を引き起し、其病気は余の一身に非常の変化を来し大切の関係を有する者なれば」だからである。大切も大切、子規のこののちの生涯を決定づける出来事だ。
だが、「水戸紀行」には、そういう暗さはみじんもない。」(『七人の旋毛曲り』)
10月18日
大隈襲撃。
大隈重信、閣議終了後、官邸に戻るため馬車で外務省正門を通過する際、玄洋社社員来島恒喜にダイナマイトで襲われ、馬車は大破、大隈は隻脚を失う重傷、執務不能となる。来島はその場で自刃。この日、閣議で内務大臣山県有朋が明確に条約改正中止を主張。黒田・大隈はこれにも動じる気配なし。

大隈は、井上が一括交渉で失敗したので、各国毎の個別交渉方式による。改正案は外国人判事を大審院に限るなど、井上案よりは多少改善しているが、国権派を納得させられるものではない。政府は改正案の機密保持に努めるが、ロンドンの「タイムズ」紙上に掲載され、内容が明らかになり、国権派の新聞「日本」が、この記事を翻訳、掲載し、再び激しい条約改正反対論が起こる。

10月20日
劇作家ゲルハルト・ハウプトマン「日の出前」、自由舞台で初演。

ウプトマン:
1862年11月15日生まれ。ドイツの劇作家。イプセンと並ぶ近代演劇創始者。有名な「織工」(1892年)は1843年にドイツで起こった織工の反乱を題材にした貧しい労働者の生活を描いた作品。1912年にノーベル文学賞受賞。

10月22日
黒田清隆、首相辞任の辞表提出。24日受理。大隈襲撃により、挫ける。

元老制の萌芽。この時、黒田・伊藤に、「待ツニ特二大臣ノ礼ヲ以テシ玆ニ元勲優遇ノ意ヲ昭ニス」という詔勅が下り、以後山県(明治24年)、松方、桂に同文詔勅が下る。これが後の元老制の法的根拠と云われる。のちに元老と呼ばれる黒田、伊藤、山県、松方、井上、西郷従道、大山巌らが、既にこの時点で「黒幕」と呼ばれ、「黒幕会議」開催が云々される。後進が内閣にひき入れられ、先進が同じ内閣に列しなくなるとともに、重要事項の決定、天皇に代位して最終的な政策決定の場として「黒幕」間の協議ないし「黒幕会議」が登場し始める

「条約改正論が沸騰点に遷した二十二年十月十八日、大隈重信は外務省の正門を馬車で出ようとする時、福岡玄洋社の壮士来島恒喜に爆弾を投げつけられて片脚を失った。来島はその場で自殺した。この直後、薩摩系の黒田内閣は終り、条約改正は延期され、長州系の山県有朋が次の総理大臣となった。薩長の内閣交替は以後この形で繰り返された。大隈の襲撃は、前年の森有礼の殺害と同じく、国家主義思想に取りつかれて熱狂的になった刺客が、国を売る拝外主義者と見なす政治家を襲ったのであって、この系統の思想は、当時次第に力を得ていた復古思想の一つの現われとして、右翼的民族主義の典型的な考え方であった。長谷川二葉亭が筆を折り、紅葉や露伴の元禄風の文学読者に喜び迎えられるに至ることと、この種の政治思想の横行とはたがいに表裏をなしていた。(伊藤整『日本文壇史』第2巻)

「ここで伊藤整が述べているように、文学世界でも、わずか一年の間に、時代は、二葉亭四迷や山田美妙の言文一致から、尾崎紅葉や幸田露伴の井原西鶴に影響を受けた雅俗折衷体の文体へと、その主流が変わって行く。つまり、いわゆる紅露時代の到来である。」(『七人の旋毛曲り』)
10月22日
南多摩郡の町村長20名が参加する建白書、元老院に提出(総代は南村村長井上光治と鶴川村村長井上吉之助)。鶴川村でも独自の建白運動が組織。

10月24日
朝鮮、東北部咸鏡道知事の趙、凶作を理由に穀物の道外搬出禁止命令を発する。

10月24日
条約改正交渉無期延期

10月24日
植木枝盛、東北遊説出発。盛岡まで足を伸ばし大同倶楽部のてこ入れ。12月1日帰京。

10月29日
イギリス、セシル・ローズの南アフリカ会社、トランスヴァール北部とモザンビーク西部の行政権・司法権獲得。

セシル・ローズ:
1853年ロンドン北方ハートフォード州で牧師の子として誕生。1870年(17歳)南アフリカに渡り、ボーア人経営農場内のダイヤモンド鉱区で働く。ダイヤモンド探しに行詰るが、地下水対策ポンプ賃貸し商売が当たり、ダイヤモンド鉱区買収を続ける。大学進学の為4年間英に滞在。南アフリカに戻り10年間でキンバリー最大のダイヤモンド鉱山所有者となる。1880年ロンドンのユダヤ人財閥ロスチャイルドの融資を取りつける。
1889年英政府の特許を得て、採掘のため英国南アフリカ会社を設立。1890年ケープ植民地首相となる。1888年ヌデベレ族ローベングラ王と協定を結び、ジンバブウェ鉱物資源採掘権のみならず全地域支配権をも王に要求。現地部族はセシル・ローズの国内支配に反対し蜂起。1893年ヌデベレ族が、1896~97年ヌデベレ族とショナ族が合同し反乱、鎮圧され大英帝国の支配化に組込まれる。現地議会は、ローズに因んでジンバブウェを「ローデシア(セシル・ローズの国)」と命名。1895年ボーア人のトランスバールの金鉱入手を画策するが、指弾され翌1996年首相辞任。以後南アフリカ会社経営に打ちこむ。1899年~1902年ボーア戦争により、英国はオレンジ自由国とトランスバール共和国を併呑。この年1902年、没。
1922年南アフリカ会社は経営不振を理由にローデシア統治権を放棄。英国はローデシアの南アフリカ連邦への併合を望んむが、現地白人社会は自立を選ぶ。ローデシアは、1923年英国の自治植民地南ローデシア(現ジンバブウェ)、1924年英国の直轄植民地北ローデシア(現ザンビア)とに分れる(いずれも現地の白人支配で、現地議会の人種差別法により土着のアフリカ人は政治・経済的に従属)。
第2次大戦後、世界的に民族独立機運が高まり、1953年南北ローデシアとニヤサランド(現マラウイ)がローデシア・ニヤサランド連邦を形成。しかし、この連邦は、南ローデシアが北ローデシアの銅資源とニヤサランドの安くて豊富なアフリカ人労働者を利用したもの。やがて、民族主義運動と連邦離脱運動が起こり、1963年連邦は10年で解体。翌1964年北ローデシアはザンビア、ニヤサランドはマラウイとして独立。

10月末
伊藤博文(48)、小田原に建築中の別荘が落成、「滄浪閣」と名づけ、横浜金沢の夏島の別荘もここに移す。

つづく

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