2024年2月22日木曜日

大杉栄とその時代年表(48) 1891(明治24)年3月 子規と虚子の文通始まる  河東碧梧桐上京 尾崎紅葉の結婚 川上音二郎(27)、横浜伊勢崎町の蔦座で「オッペケペ」上演 ニコライ堂開堂 立憲自由党、自由党と改称 子規の房総旅行      

 


大杉栄とその時代年表(47) 1891(明治24)年1月~2月 鴎外『文づかひ』 博文館「少年文学」叢書 内村鑑三不敬事件 帝国議会議事堂全焼 子規、帝国大学文科大学哲学科から国文科に転科 土佐派の裏切り(立憲自由党脱党) 中江兆民議員辞職(「無血虫の陳列場」) より続く

1891(明治24)年

3月

子規(24)、高浜虚子と文通始まる。

3月

河東碧梧桐、東京で勉強するため、松山中学を4年で中退し上京。東京には既に兄がいて、碧梧桐も、兄と子規が住む常盤会寄宿舎に身を寄せた。

3月

尾崎紅葉の結婚。


「本郷森川町にいた尾崎紅葉が、明治二十四年一月、祖父母の暮す牛込北町に再び戻ったあと、同年三月、彼らを連れて同じ牛込区の横寺四十七に移り住んだのは、一家を構えるため、つまり結婚のためである。」(坪内祐三『慶応三年生まれ七人の旋毛曲り』(新潮文庫))


「(*紅葉の妻、樺島)喜久子は漢法医樺島玄周の一人娘で、その時十九歳であった。樺島玄周は、新見藩(岡山県)の藩医樺島玄菴の子で「外科・婦人科・産科三術極精妙」と言われた名医で、芝浜松町一丁目十五番地の新見藩関氏の広大な邸の中の一角に住んでいた。これは、紅葉が幼少の頃住んでいた神明町の荒木舜庵の家とすぐ近所であった。」(巌谷大四『尾崎紅葉』)


喜久子夫人自身の思い出(『明治文豪伝之内 尾崎紅葉』)。


「さやう、明治二十四年の三月でした。恰(ちよう)ど妾が十九の時横寺町へ参りましたのです。」


3月

大西祝「悲哀の快感」(「国民之友」)

3月

法治協会、結成。明治法律学校卒業生中心に民法断行派が延期派に対抗して組織。会長大木喬任・副会長名村泰蔵。

3月

与謝野晶子(13)、堺市立堺女学校を卒業。

3月

チャイコフスキー、ニューヨークに向けてカーネギーホールのこけら落しのための演奏旅行に出発。

3月1日

東京手形交換所、設立。

3月1日

川上音二郎(27)、横浜・伊勢崎町の蔦座で「経国美談」・「オッペケペ」を上演。6日上演差止め。

8日~15日「板垣退助君岐阜遭難実記」を上演。21日より小田原・桐座で「板垣退助君岐阜遭難実記」ほかを上演。25日、上演差止め。

27日~30日「大井憲太郎氏国事犯顛末」などを上演。

4月2日より鶴座で「西郷隆盛誉勢力」ほかを上演。7日、見物の壮士と乱闘になり中止、翌日、警察に拘留。

3月2日

政府同意の修正予算案、可決。自由倶楽部(旧立憲自由党土佐派)賛成。

3月8日

第1議会、閉会。

3月8日

東京駿河台のニコライ堂、開堂式。1884年に着工。原設計はミハイル・シチュールポフ、実施設計はジョサイア・コンドル。

3月14日

マフィア、ニューオーリンズ上陸。

3月18日

ロンドン~パリ間、電話開通。

3月19日

立憲自由党、大阪で党大会開催(4月予定を繰上げ)。自由党と改称、板垣退助を総理に推す。この大会を境に大井の勢力が衰え、星の勢力が台頭。

①星の提案で党名変更。前年9月の結党時、立憲改進党を含めた大合同を予定して決められた党名だが、改進党は合同せず「立憲」の意味はなくなる。また、脱党した土佐派が自由党を名乗ることを阻止する意味もある(彼らが板垣を戴き「自由党」を結成した場合、立憲自由党は民党主流の地位を失う危険がある)。

②星は党の迅速柔軟な行動の確保の為、党総理1名による総理制を提案。板垣や星と亀裂を深めている大井は、総務5名による集団指導体制を提唱。激論の末、星派が勝利し、党総理が幹事の任免権を持つ中央集権体制が採用される。星は総理に板垣を推薦、圧倒的多数で支持される。これには、土佐派が板垣を党首に仰いで新党結成することを防ぐ意味や、民党統一の象徴としての板垣を推戴する事で自派の伸長を期す狙い。

③大会は、議決機関であった常議員会を参務会という諮問機関に格下げし、参務会では、代議士に議決権が与えられ、議員の一般党員に対する優位を認める。

3月23日

ゴーギャン(43)、パリのカフェ・ヴォルテールにてマラルメモ等のゴーギャンのための歓送会。

3月25日

子規、房総地方を旅行(~4月2日)。

市川、船橋、佐倉、馬渡、千葉、小湊、館山、鋸山をめぐる旅行。そして、ただちに紀行文『隠れみの』(「かくれみの」「隠蓑日記」「かくれみの句集」)を執筆して、漱石にも回覧。

〈旅の行程〉

25日、常盤会寄宿舎を出発、朝食は芋、昼飯は市川でとり、菅笠を買う。これが、この旅の紀行文「かくれ蓑」となる。八幡神社、船橋神社に参詣し、そこから馬で大和田に着き、「榊屋」に泊まる。

26日朝7時に宿を出て、白井~佐倉へ、佐倉宗吾の社に詣でる。次に成田に向かい成田山新勝寺に参詣。昼食後成田を出発。酒々井~馬渡へ向かい、馬渡の「上総屋」に入る。この日、11里(約41キロ)も歩いたもで足に豆ができて肩がひどく凝った。

27日朝7時半に宿を発ち、正午に千葉に着き、笠を持って記念撮影。昼飯に鰻飯としゃもを食べる。その後、寒川から海岸に出て、浜伝いに浜野、潤井戸を経て、長柄山に向かい、夜7時に「大黒屋」に入る。

28日朝7時に宿を出るが、曇り空のあと雨。路傍の穴で雨宿りし、句をいくつも詠む。長南に着いても小雨が降っていたので蓑を買う。この蓑は終生、子規のお気に入りとなる。雨が激しくなるばかりなので、大多喜の蕎麦屋を兼ねた大きい旅館「酒井屋」に泊まる。

29日朝8時に宿を発ち、台宿から小湊の誕生寺に向かう。町はずれで寿司を食べ、トンネルを通って天津に出る。宿は木賃宿「野村」。

30日朝8時に宿を発つ。道沿いに、今年初めてのレンゲの花を見る。和田の茶屋の昼食は飯が硬く、魚が臭くて食べられない。そこで海に臨む茶店で寿司と生卵を食べる。朝夷で日が暮れ、平磯の「山口屋」に泊まる。

31日朝8時に宿を発つ。野島崎灯台は修理中。滝口で菓子を買い、北条へ向かう山中で1時間ほど寝てしまう。5時前に館山の宿に入る。

4月1日8時過ぎに宿を発つ。那古の観音に行くが左甚五郎の彫刻はこれも修理中。諏訪神社で菓子を食べ、市部に向かう途中にトンネルで昼食をとる。加知山から保田に着き宿に入る。

2日、羅漢寺から鋸山に登り、五百羅漢を見て、山頂から武蔵、相模、房総を望んだのち、船で帰京して常盤会宿舎に着く。

3月26日

グスタフ・マーラー、ハンブルグ市立歌劇場の音楽監督に就任。チャイコフスキーの歌劇「オネーギン」ドイツ初演。 


つづく

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