2024年2月18日日曜日

大杉栄とその時代年表(44) 1890(明治23)年9月 坪内逍遥(31)、東京専門学校の文学科新設に尽力 尾崎紅葉、東京帝国大学退学 漱石、東京帝国大学文科大学英文科に入学 子規は哲学科に入学 立憲自由党結党大会          

 


大杉栄とその時代年表(43) 1890(明治23)年8月 鴎外『うたかたの記』 子規と虚子の出会い 子規、大津に旅行 再興自由党・愛国公党・九州同志会・大同倶楽部解散 厭世的な気分に陥る漱石 子規の励ます手紙に傷つく漱石(のち子規はこれを謝罪) 箱根に滞在する漱石 渡良瀬川沿岸大洪水 より続く

1890(明治23)年

9月

日本演劇協会、設立

9月

東京専門学校(のちの早稲田大学)、文学科(翌年文学部)を開設。坪内逍遥ら講師になる。

慶応義塾も文学部を設け文学科を開設。

「もし専門学校時代における「拡充」の最大なるものと言えば、文学科の創設に如くはない。しかもこれは修飾して言えば、まさに「嵐に咲く花」と呼ぶのがふさわしいであろう。明治二十三年五月三十日の臨時評議員会においてその議を決し、秋の九月から始まる新学期から文学科は開講した。」(『早稲田大学百年史』第一巻第三章文学科の誕生)

坪内逍遥(31)、東京専門学校の文学科新設に尽力し、この月に開講。英文学史やシェークスピヤ等を講ずる。一方、学生による回覧雑誌や文学研究会を指導。近松の研究もはじめ、「読売新聞」を舞台に本格的な文学活動を再開。

9月

尾崎紅葉、「大学(*東京帝国大学)の学年試験に落第、これを契機に退学して文学に専念」(岩波書店『紅葉全集』第12巻「年譜」)。

紅葉は既に『読売新聞』記者として大流行作家になっている。

9月

一葉(18)、本郷菊坂町70番地の借家へ母妹と転居。明治25年5月5日、西隣69番地の1間多い借家に移る。

9月

この頃、二葉亭四迷(26)、実家を出て四谷荒木町に下宿。下層民と接し下層民を救済する志を持つ。

9月

ラフカディオ・ヘルン、松江中学校の教師になる。

(4月4日、横浜港着。8月、松江に赴く。12月、小泉セツと結婚。)

9月

与謝野鉄幹(17)、「邦光社歌会」第3集に「礼譲」の名で和歌2首掲載。同月、「善のみちびき」1号に「鉄幹生」、12月の同誌2号に「鉄幹居士」の署名で短歌・長歌を発表。

9月1日

海南倶楽部を解散し海南社を結成

9月2日

三重県知事、県内でのツバメ捕獲を禁止(鳥類保護の始り)。

9月2日

立憲自由党、議会での運動方針・政務調査・相互親交のため弥生倶楽部を設立。

9月8日

森鴎外(28)長男於菟、誕生。

9月10日

漱石、東京帝国大学文科大学英文科に入学。この日、入学式。2年上に立花政樹がいるだけの2人目の英文科学生(英文科の3年後輩には土井晩翠)。主任教師はジェイムス・メーン・ディクソン。文部省貸費生となる(年85円貸与)。ディクソン教授に依頼され「方丈記」を英訳。明治26(1893)年来日したケーベルの講義を聴講。

子規、東京帝国大学文科大学哲学科に入学。同学年に米山保三郎がいる。


「彼は僕などより早熟でいやに哲学などを振り廻すものだから僕などは恐れを為してゐた。僕はさういふ方に少しも発達せずまるでわからん処へ持つて来て、彼はハルトマンの哲学書か何かを持込み大分振り廻してゐた。尤も厚い独逸書で、外国にゐる加藤恒忠氏に送つて貰つたものでろくに読めもせぬものを頻りにひつくりかへしてゐた。」(漱石『正岡子規』)


「九月、狩野亨吉(二十五歳。哲学科第三年)・米山保三郎(二十一蔵。哲学科第一年)と特に密接な交際をするようになる。

小屋(大塚)保治(哲学科第三年)・立花銑三郎(哲学科第二年)・松本亦太郎(哲学科第一年)・松本文三郎(哲学科第一年)・正岡常規(子規)(哲学科第一年)・坂巻善辰(哲学科第一年)・芳賀矢一(国文学科第二年)・菊池謙二郎(仙湖)(国文学科第一年)・斎藤阿具(史学科第一年)藤代禎輔(素人)(独文学科第三年)・菅虎雄(独文学科第三年)ら加わり紀元会を組織する。」(荒正人、前掲書)

9月12日

英、南アフリカ会社、マショナランド地方にソールズベリー建設。

9月13日

横浜旧公道倶楽部で貴族院議員・衆議院議員を招いての有志大懇親会開催。石阪昌孝、中島信行らと共に出席。

9月15日

立憲自由党結党大会

党総理を置かず、常議員会と幹事5名を設け、有力者により派閥連合的に運営。幹事には大井、河野、林らが選出(大井は直ちに辞任して杉田定一がこれに代わる)。執行部は派閥を代表する論客の集まりで、党意統一を図り、政府の施策に迅速に対応する体制からは程遠い。

民権各派の連合体のため党名決定すら紛糾。立憲改進党の参加を呼びかける為、自由党の前に「立憲」を付ける。大会で採択された趣意書にも、「自由の大義により、改進の方策に従い」の1節が挿入され、旧自由党と改進党の合同を目指す事が明らかにされる。しかし改進党は、大隈の条約改正案により国民の支持を失い選挙で惨敗しており、自由党系の主導による立憲自由党には参加せず。

9月15日

英、アガサ・クリスティー、誕生。

9月16日

オスマン帝国の訪日使節が乗った軍艦エルトグロール号が、和歌山県樫野崎沖で座礁し沈没

9月18日

土屋文明、誕生。

9月20日

大野伴睦、誕生。

9月21日

日本法律学校(のちの日本大学)、開校。

9月26日

鉱業条例、公布。

1873年制定の「日本坑法」を改めた鉱夫の保護を加える。’92年6月施行。条例の鉱夫保護規定は、高島炭礦問題で坑夫待遇の劣悪さへの批判を受けた官僚が、’65年プロシア鉱山法の鉱夫保護規定部分を直輸入的に導入。他産業で労働保護法が成立していない当時としては先駆的な意義をもつ。

9月27日

「東京朝日新聞」第1面、仏国製マリノニ輪転印刷機購入を社告。

これ迄の最良印刷機では1時間1500枚のところ、マリノニ機では1万5千枚を印刷でき、鉛版を倍にすれば3万枚も可能という。既に「大朝」は1日5万部を突破し全国一の発行部数を誇り、「東朝」も2万部に近づきつつある。官報に国会議事録を掲載する為、高橋健三政府官報局長らがマリノニ機を買うのに渡仏した機会に、「大朝」庶務課員も同行し、1万円近い高額で購入。

9月27日

ロンドン、ベルンシュタイン編集ドイツ社会主義労働党機関紙「ゾツィアール・デモクラート」発行停止。役割を終る。

1879(明治12)年09月28日チューリッヒで発行。

ベルンシュタインは、1890年代中頃よりイギリス・フェビアン社会主義の影響の下にマルクス主義の根本的修正の方向に向う。1899年「社会主義の諸前提と社会民主主義の諸任務」を著し、議会主義的方法による漸進的社会主義実現を説き、「修正主義論争」の旗手となる。1901年ベルリンに戻り、国会議員になり(1902~06、1912~18)、「社会主義月報」に論陣を張る。第一次大戦勃発に際し、政府に協力、後、批判的立場をとる。1917年独立社会民主党に属す。戦後、社会民主党に復帰、国会議員となり(1920~28)マルクス・レーニン主義に対抗する文筆活動に携わる。

9月30日

独、ビスマルク失脚により社会主義者鎮圧法廃止。

9月30日

高野房太郎、ワシントン州タコマよりサンフランシスコへ。10月3日着。

9月末

一葉(18)、本郷区本郷菊坂町70番地(姉久保木ふじの住居の近く。現、本郷4-32)を借りて母と妹を住まわせ、仕立てや洗い張、蟬表製造などを内職にするかたわら、中嶋家に泊まる日々が続く。歌子は一葉をゆくゆくは女学校に入れてやると約束した。


つづく

0 件のコメント: