1889(明治22)年
9月
朝鮮、威鏡道で防穀令施行
9月
井上哲次郎「内地雑居論」(哲学書院)。「内地の人民は兎ても角ても農業上にも工業上にも将た商業上にも決して西人との競争に勝」てない。
9月
華族女学校講師アリス・ベーコン、帰国
9月
志賀直哉(6)、学習院予備科6級(のち初等科1年)入学。同級生19人中、士族は直哉を入れて2人、平民2人、皇族1人、華族14人。
9月
子規「啼血始末」執筆。
9月
幸田露伴『風流仏』(吉岡書籍店『新著百種』シリーズ)。
紅露時代の幕開け
9月
狩野亨吉、帝国大学文科大学哲学科第2学年に編入。9月14日に入学試験合格通知を受ける。
9月
アルゼンチン、アレムを中心に青年市民同盟結成。投票自由,選挙公正化,公務員綱紀粛正要求、影響力広げる。セルマン国民自治党(PAN)政権を相手に第1回目の蜂起。
9月初旬
植木枝盛「外交秘密論」(「土陽新聞」)。また、「目下之大問題 条約改正如何」刊行。反対運動マニュアル。
9月2日
一葉(17)一家、芝区西応寺町60番地の浄土宗西応寺裏の虎之助の借家に転居。この場合も虎之助の樋口家復籍の伏線となるはずであったが、職人肌の虎之助と士族肌の母・多喜のあいだに対立が絶えなかった。
このころ、渋谷三郎は婚約を一方的に破棄したという。
9月7日
井上馨農商務相、5週間の転地療養願いを出し、この日故郷山口に帰る。
9月8日
漱石(22)、房総旅行の時の漢詩文紀行『木屑録』(ぼくせつろく)を脱稿し、松山に療養のため帰省中の子規に送り批評を乞う。
子規は「頼みもしないのに跋を書いてよこし」(「正岡子規」)、「如吾兄者千萬年一人焉耳」と絶賛した。
漱石の『木屑録』は、子規の『七艸集』に触発されて書かれたものであり、何よりも「正岡子規に見せる事を目的として書かれ」(小宮豊隆「『木屑録』解説」)たものであった。
「子規はこれを読んですつかり漱石に感心してしまった。そうしてその感激を巻末に跋として書きつけたのである。いままで英語のできる一秀才としてみていた漱石に、こんなかくし藝のあったことに舌をまいて驚嘆してしまう。」(『漱石傳記篇』)
「余の経験によるに英学に長ずる者は漢学に短なり和学に長ずる者は数学に短なりといふが如く 必ず一短一長あるもの也 独り漱石は長ぜざる所なく達せざる所なし、然れ共其英学に長ずるは人皆之を知る、而して其漢文漢詩に巧なるは人恐らくは知らざるべし 故にこゝに附記するのみ」(『筆まかせ』明治22年)
「彼(*漱石)は、この年の八月七日から三十日まで、同じ年頃の四人の友人とともに房総を旅行したが、帰京後直ちに漢文によるその旅の紀行文を書き始め、九月九日に脱稿した。彼は、『木屑録』と題したこの文章を子規に見せたが、もちろんそこには子規の『七草集』に対する対抗意識があっただろう。そして子規にとってこれは、先の評文を上まわる驚くべき出来事だったようだ。
先に漱石が書いてくれた批評文に対するお返しのように子規も早速漢文で批評を書いて激賞した。漱石が「英文に長ずる」ことは以前から知っていたが、「西に長ぜる者は、おおむね東に短なれば、吾が兄もまたまさに和漢の学を知らざるべし」と思っていた、「しかるに今この詩文を見るに及び、すなわち吾が兄の天稟を知れり。・・・吾が兄のごとき者は、千万年に一人なるのみ」と彼は言う。そして漱石との交友について「余の初め東都に来るや、友を求むること数年、いまだ一人をも得ず、吾が兄を知るに及んで、すなわちひそかに期するところあり。しこうしてその知を辱(かたじけな)くするに至り、すでにして前日を憶えば、その吾が兄に得るところは、はなはだ前に期するところに過ぎたり。ここにおいてか、余は始めて一益友を得たり。その喜び、知るべきなり」と述べるのである。「何でも大将にならなけりゃ承知しない男であった」と漱石が回顧する子規であるだけに、ここで子規が示しているおよそ及び腰のところのない、率直で全身的な敬愛と感嘆はまことに快いのである。」(粟津則雄、前掲書)
9月10日
東京倶楽部臨時総会、石阪昌孝・天野政立が常議員に選出。
9月末、規則改正に際し、石阪、幹事8名の内の1人に選出。遊説委員34人の中に天野政立・中村克昌が入る。神奈川県の「顔」が、石阪―吉野から石阪―天野に代わる。この年11月の県会議員選挙で、森久保作蔵と村野常右衛門が初当選。世代交代が県議レベルに及ぶ。
9月11日
漱石・子規、第一高等中学校本科一部二年(三之組)に進級、米山保三郎、菊池寿人なども同じクラス。
9月12日
伊藤博文、幕僚伊東巳代治を松方蔵相のもとに派遣、対英交渉の状況を探らせるが、松方も詳細は不承知。
18日、松方は黒田首相と条約改正で意見交換。松方は閣議審議、最後は天皇の判断を求めることを主張。
9月14日
日本演芸協会、発足。会長宮内大臣土方久元、事務委員岡倉天心ら7人就任。
9月14日
大井憲太郎(46)、横浜・羽衣座の横浜政談演説会で演説。
9月15日
この日付けの漱石の子規宛ての手紙。
子規の快方を喜び、上京を「延頸」して待っていること、漱石も「房州より上下二総を経歴」して先月末帰京したこと、などを記し、再試験に間にあうよう帰京することを勧告。
「露冷残蛍痟風寒柳影疎なるの時節とはあまり長すぎてゴロが悪くは候へども、僕が創造の冒頭なればたまつて御読了被下たく候。さて右のやうな時節到来仕候処、貴兄漸々御快方の由何よりの事と存候。小生も房州より上下二総を経歴し、去月三十日始めて帰京仕候。その後早速一書を呈するつもりに御座候処、既に御出京に間もあるまじと存じ、日々廷頸して御待申上候処、御手紙の趣きにては今一ヶ月も御滞在の由随分御のんきの事と存候。しかし此に少々不都合の事有之。両三日前小生学校へ参り点数など取調べ候処、大兄三学期の和漢文の点及ビ同学期並に同学年の体操の点無之(これなき)がため試験未済の部に編入致(いたし)をり候が、右は如何なる儀にて欠点と相成をり候哉。もし欠点が至当なら始業後二週間中に受験願差出すはずニ御座候間、右の間に合ふやう御帰京可然(しかるべく)と存候。尤も学校の休暇は入学試験の都合にて来る二十日まで延期相成候間、右の御つもりにて御出発被成(なされ)候。なほまた受験不致候て別に点数を得べき道理有之候へば、その旨御申越可相成(あいなるべく)小生及ぶ限りは御尽力可申上候。・・・・・
(略)
帰京後は余り徒然のあまり一篇の紀行様な妙な書を製造仕候貴兄の斧正を乞はんと楽み居候。先は用事のみ。余は拝眉万々、可成(なるべく)はやく御帰りなさいよ。さよなら。
九月十五日夜 金之助
のぼる様」
子規は漱石の英学と漢学の才能に驚嘆し、その感想を600字からなる漢文で、「『木屑録』評」と題し、「獺祭魚夫常規謹識」の署名で漱石に書き送った。
漱石の回想。
僕が房州に行つた時の紀行文を漢文で書いて其中に下らない詩などを入れて置いた、其を見せた事がある。処が大将頼みもしないのに跋(ばつ)を書いてよこした。何でも其中に英書を読む者は漢籍が出来ず、漢籍の出来るものは英書は読めん、我見の如きは千万人中の一人なりとか何とか書いて居つた。(「正岡子規」漱石談)
漢文は僕の方に自信があつたが詩は彼の方が旨かつた。(同)
9月17日
北多摩郡の吉野泰三・比留間雄亮・内野杢左衛門ら、石阪昌孝らの自由派に対抗して「北多摩郡正義派」結成。石阪昌孝を領袖とする旧自由党系主流(自由派=石阪派)と、吉野泰三を領袖とする正義派(吉野派)の対抗本格化。
18日、吉野泰三、病気理由に神奈川県倶楽部に対し脱会宣言(正義派メンバー54名を引き連れ)。大同団結運動からの離脱、分派行動。但し、県会議員選挙区北多摩郡有志を結集したに止まり、国政参加レベルでは自立した対抗勢力としての力なし。吉野は、衆議院選挙の直前まで石阪昌孝主導の大同協和会から再興自由党結成という中央政界の流れと決別できず。
9月20日
この日付けの漱石の子規宛ての手紙。五経一首を送り批評を乞う)。
「〔前半部分欠〕五絶一首小生の近況に御座候御憫笑可被下候
抱剣聴龍鳴(剣を抱きて 龍嶋を聴き)、読書罵儒生(書を読んで 儒生を罵る)、如今空高逸(如今 空しく高逸)、入夢美人声(夢に入る 美人の声)
第一句は成童の折の事、二句は十六七の時、転結は即今の有様に御座候。字句はあひかはらず勝手次第、御正し被下たく候云々。」
9月22日
元田永孚、伊藤に書状。天皇が黒田首相に条約改正に関する内閣・枢密院合同会議開催を沙汰する方針を伝える(元田・井上毅が案をつくり、元田が天皇に進言)。
9月23日
早朝、伊藤は元田に返書。合同会議で条約改正中止となった場合は政変必至と考え、開催に否定的意見(伊藤は未だ黒田政権打倒の決意固まらず)。同日、伊藤は徳大寺実則侍従長にも同様に伝え、合同会議は沙汰止みとなる。この夜、後藤象二郎逓信相が伊藤を訪ね、前日22日に黒田首相に示した条約改正反対意見書を渡す。
同日、徳大寺侍従長が黒田首相を訪問、条約問題の閣議開催と閣議への天皇臨席の趣旨を伝える。しかし、黒田には閣議開催に応じる意志なし。
9月27日
西郷従道海相、伊藤を訪問、条約改正問題の意向打診。「熟慮候えども良案これなく、・・・」。まだ黒田政権打倒に踏切れず。この時期、伊藤は国府津海岸の老舗旅館「鷗盟館」に滞在(この地が気に入り、明治23年第1次滄浪閣を建てる)。
9月27日
この日付けの漱石の子規宛ての手紙。
上京しない子規に、この手紙が着くころは上京の途中と思うが、「若しも亦愚図々々して故郷にこびりついて居るなら此書拝見次第馳出して東京へ罷り出べき事」とある。子規の上京はこの手紙の直後のようだ。漱石が子規の進級など心配していることを、諧謔まじりに、女性につくす「郎君」に擬し宛名を「妾へ」とした。
「貴意の如く懐冷財布痟の候、大まい二銭の御散財をも顧み給はず四国下りまで御震翰下し賜はる段、御親切さぞかし感涙にむせびて郎君の大悲大慈をありがたがり奉るならんといやに恩に着せて御注進仕るは余の儀にあらず。先頃手紙を以て依頼されたる点数一条、おつと承知皆までいひ給ふな万事拙(せつ)の方寸にありやす、先づ江戸つ子の為す所を御覧(ごろう)じろとひま人のありがたさ、急に用事の持ち上りたるを嬉しがり、早速秘術をつくして久米の仙人を生捕り先づ安心はした者の、鉄砲ずれで(面ずれより脱化し来るに似たり)手の皮の厚さ一尺もあるといふひなた臭い兵隊を相手の談判は、都(みや)び男やさ男を以て高名なるやつがれには到底出来やせん引き下りやす、と反り身になつて断はるといふ所だが、そこがそれ君いや妾(しよう)のためでげす、掛(かかり)がへさへあれば命の二つや三は進呈仕りてよろしくといふ位な親切者だから、ちつともひるまず古今未曾有の勇気を鼓舞して二、三回戦争の後これも武運目出たく乃公(だいこう)の勝利と相成、令娘(れいじよう)の身体は一部一年三の組の室中を横行しても竪行しても御勝手次第なり。
定めて、
「あらまあほんとうに頼もしい事、ひよつとこの金さんは顔に似合ない実のある人だよ」といはれるだらふと乃公の高名手柄を特筆大書して吹聴する事あらあら如此(かくのごとし)。
九月二十七日夜 郎君より
妾へ
この手紙到着の頃は定めて東上の途中ならむ。もしもまた愚図々々して故郷にこびりついて居るならこの書拝見次第馳出して東京へ罷り出べき事。」
9月27日頃から月末までの間 漱石、菊池謙二郎と共に子規の許で聞かれた「小文学会」に赴く。
「菊池謙二郎は、其角から文隣に宛てた義士討入の手紙を読む。子規は、初めて知ったが、文章余り旨くできているので偽作だと思うと云う。子規は、友人十九名に短評を加えた表を示す。(漱石は「畏友 夏目金氏」として八番目に記されている。菊池謙二郎は「厳友」、山川信次郎は「賢友」、米山保三郎は「高友」である。後に、『筆まか勢』第一編の、「○交際」の項に記される)」(荒正人、前掲書)
つづく
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