2024年2月16日金曜日

大杉栄とその時代年表(42) 1890(明治23)年7月 チェーホフのサハリン島調査 第1回衆議院議員選挙(民党が過半数なるも大合同ならず) 紅葉『伽羅枕』 漱石・子規、第一高等中学校本科及落 露伴「造化と文学」 東京でコレラ(~11月) 集会及政社法公布 ゴッホ(37)没        



1890(明治23)年

7月

市民同盟,陸海軍の一部の支援を受けブエノスアイレスで武装蜂起。3日後鎮圧。米軍,ブエノスアイレス上陸.

7月

ヴィンセントとテオとの間の不協和音。ヴィンセントは精神的・物質的にテオの支援が減ってゆくのを恐れる。

7月

アントン・チェーホフ(30)、サハリン島に流刑に処せられた囚人の生活に興味を持ち、サハリンで3ヶ月間流刑地の囚人の実態調査。長篇「サハリン島」となる。間宮林蔵の最初の発見を明記(シーボルト著作「日本」のロシア語訳では意識的に削除された事実)。サハリンでは日本領事館の久世原(げん)らと親交を結ぶ。

7月1日

第1回衆議院議員選挙

中江兆民、大阪4区(定員2)でトップ当選。田中正造、栃木3区(安蘇・足利・梁田)当選。植木枝盛、高知3区当選(圧勝、高知3選挙区とも旧自由党が独占)。石阪昌孝、当選(第3区は定員2;石阪昌孝1365票、瀬戸岡886票、吉野568票)。他に、島田三郎(27、以後大正14年まで連続14回当選)・高田早苗・渡辺治・尾崎行雄・犬養毅・大岡育造ら。福井県では、第1区青山庄兵衛・第2区杉田定一・第3区永田定右衛門・第4区藤田孫平(4人とも愛国公党所属)。

有権者は総人口の1.14%。旧自由党3派・改進党・九州進歩党3党で過半数上回る(大同倶楽部55・改進46・愛国公党35・九州同志会21・大同協和会17・保守22・他104)。

民党全体の議席は過半数を超え、旧自由党系では大同倶楽部が第1党となるが、単独過半数にははるかに及ばず、3派合計でも過半数には至らず。この為、板垣は改進党をも含めた民党大合同を呼びかける。これに応じ、旧自由党系三派と改進党系九州同志会は、統一政党を結成することとなるが、改進党は加わらず、民党全体の大合同はならず

選挙人資格は25歳以上の男子で、1年以上その府県内に本籍を定め居住し、直接国税15円以上(地租は1年以上、所得税は3年以上)を納めていること。地租15円は、ほぼ田地1町5反歩または畑地5町5反歩を所有する年所得額150円程度の地主であることを意味する。所得税の場合15円の納税者は年所得額が1千円以上。農村又は農民に有利な選挙資格要件。被選挙人は、30歳以上の男子で本籍・居住の制限なく、選挙権と同額の財産制限。

改進党:本来の改進党のイギリスモデルの二大政党制論は、大同団結運動により大同倶楽部に受継がれ、改進党は伊藤・黒田与党となったため、政党としての存在感を小さくする。

立憲自由党(翌8月結成):130議席。呉越同舟の寄合い所帯。

選挙報道。2、3日の開票を報道する4日の紙面。全国257選挙区中、「大朝」91区、「東朝」81区、「読売」81区、「朝野」54区、「報知」38区の当選・次点者を報道。

7月2日

米各州のトラスト禁止法を雛型にシャーマン法(「非合法な制限および独占に対して営業および通商を保護する法律」)、連邦議会下院で可決。

7月3日

米、アイダホ洲、合衆国加盟(43番目)

7月5日

尾崎紅葉『伽羅枕』(『読売新聞』連載~9月23日)


「紅葉初の長編小説『伽羅枕』は、彼の初期の代表作となった。紅葉の文学に対して批判的だった北村透谷もこの作品に描かれた「粋」を高く評価したし、辛口で知られた作家の正宗白鳥も愛好する紅葉の作品に『伽羅枕』をあげている。」(坪内祐三『慶応三年生まれ七人の旋毛曲り』(新潮文庫))

7月5日

第一高等中学校本科及落発表。夜、漱石、子規宛に葉書。

7月8日 漱石、第一高等中学校本科卒業。子規は松山で療養中のため、卒業証書を預かる。                          

7月5、9、20日 この日付けの漱石の子規宛て手紙。

子規のや友人の及第・落第・未定を報じ、9日付で卒業証書を預っていることを知らせる。「何の因果か女の崇りか此頃は持病の眼がよろしくない方で読書もできずといつて執筆は猶わるし」と知らせ、子規の句「西行の顔も見えけり富士の山」を引合にして、「西行も笠ぬいで見る富士の山」を作句している。


「早速御注進。

先生及第、乃公及第、山川落第、赤沼落第、米山未定。頓首敬白。

七月五日夜」

7月9日 漱石より子規宛ての書簡


「不順の折から、御病体如何、陳(のぶれ)ば昨八日如例(れいのごとく)卒業式有之、大兄卒業証書は小生当時御預上り申上條。差し当り御不都合なくば九月に拝眉の上可差上候。先はそのため口上。さやうなら。」

7月15日付け子規の漱石宛て手紙(7月5日付け漱石の手紙への返書)


「(略)

両度の御手紙拝見、小生ハ如何なる前生の悪業にや今度の試験にもとうとう及第せしよし、誠ニ有がた迷惑ニ存候。兼て御話申上候通り、今度の試験ニ落第したる暁ニハ高等中学は勿論やめてしまひ一年間ハ故山の風月に浩然の気を養ひ、其後事情によりてハ大学の撰科へはいるつもりニ御座候処、九仭(きうじん)の功を一簣(いつき)に破らず実ニ切歯扼腕致居候。もシ小生が落第せしならバ、古今独歩東西絶倫大極上々無類飛切といふ大学者になる処を、月にむら雲のたとへにもれず、天公の妬(と)によりて終に小学着通へ堕落致し候。今後小生が大事業をも成し得ず、区々として八十一年を経過し(そんなに長いきすれバよいが)、碌々(ろくろく)として三十六年を徒費(とひ)するとも、そハ小生それ自身の咎に非ず、天公の為す所と御思召被下度奉願候。・・・・・とこんなことでもいっておくのサ。

山川の落第ハ気の毒なり。同人が落第する位なら外にも落第すべき人はいくらも・・・・・

君が八日の卒業式にのぞまれ、卒業証書をまじめなる見えにて受け取り、すましこんで校門を出らるる際に時計台を一寸尻目にかけ、「ああながなが御厄介になつたが、これからハ他人だ、親類の資格を以てお目にかかるのハけふがおしまひだ、この世のおなごりだ」と口の中でいつて腹の中でせせら笑ひせられた状(さま)ハ、実に見るが如く覚えていとをかし。

当地のあつさハ実ニきびしく昼間ハ読書どころのさわざでハない、小生ハただ午眠と読経とに日をくらしをり候。消夏の良方ハ実ニこの二者に出でずと信じ候。君ハ昼寝の隊長故その味ハ先刻御承知ならん。読経の味に至てハさすがの君も御不案内と存候故申上候。・・・・・

(略)」(7月15日付漱石宛)

7月20日 この日付け漱石の子規宛て手紙。

子規からの手紙に応答し、「何の因果か女の崇(たた)りか此頃は持病の眼がよろしくない方で読書もできずといつて執筆は猶(なお)わるし 実二無聊閑散の極、試験で責めめらるゝよりは余程つらき位也」という近況を報告。


「御経づくめに抹香くさき御文盆すぎにてちと時候おくれながら面白をかしく拝見仕候。先以(まずもつ)て御病体日々仏くさく被相成候段、珍重奉存候。この頃の暑は松山の辺土のみならず花のお江戸も同様にて日中はさながら甑中(そうちゆう)の章魚(たこ)同然なかなか念仏廻向(えこう)などの騒ぎにあらず。ただ命に別条なきを頼りにて日々消光仕る仕儀なれば、愛国心ある小生もこの暑さをちっとこらへて蒼生(そうせい)のためじや百姓の為じやとすましこんでゐられたものにあらず(尤血液の少なき冷血動物に近き貴殿などはこの限りにあらず)。その上何の因果か女の崇りかこの頃は持病の眼がよろしくない方で読書もできずといつて執筆はなはわるし。実に無聊閑散の極、試験で責めらるるよりはよほどつらき位也。無事是貴人とは.如何なる馬鹿の言ひ草やら今に至つて始めてそのうそなる事を知れり。実はこの度非常の大奮発大勉強にて(呉服屋の引札にあらず)平生貯蓄せるポテンシャル、エナージーを化学的作用にてカイネチックに変じ、九月上旬には貴殿の目を驚かしてやらんと心待ちに待ちたる甲斐もなくあら悲しや、天わが才を妬み、そう今から大学者になられては困るといふ一件で卑怯にも二豎(にじゆ)を以てわが英気を挫折せり。狭くいへば国のため大きくいへば天下のため実に憎むべき事どもなり。しかし小生が眼病のため貴殿九月になつて小生に面会するも別段目を驚かすこともなく胆を寒からしむるほどの騒動は出来(しゆつたい)せずに済むからその点は安心すべしさ。

(略)貴意の如く山川を落第させる位なら落第させる人はいくらでもある。第一貴殿などは落第志願生だから同人と変つてやれば善いのに、そこが人事の不如意でやむをえざる

次第さ。

午眠の利益今知るとは愚か愚か小生などは朝一度昼過一度、二十四時間中都合三度の睡眠也。昼寐して夢に美人に邂逅したる時の興味などは言語につくされたものにあらず。昼寐もこの境に達せざればその極点に至らず。貴殿已に昼寐の堂に陟(のぼ)る。よろしく、その室に入るの工夫を用ゆべし。

かつて君が「西行の顔も見えけり富士の山」といふ句を自慢したが、僕が先頃富士を見てふと口を衝(つい)て出た名吟にはとても不及。かやうな手紙の後(し)りに書くのは勿体(もつたい)なけれども別懇の間柄だから拝読さすべし。その名吟に白く、

西 行 も 笠 ぬ い で 見 る 富 士 の 山

我ながら感々服々だ。しかしかやうの名吟を漫(みだ)りに人に示すは天機を漏らすの恐れあり。決して他言すべからず。またくだらぬ随筆中にたたき込むべからず。穴賢。

                                      漱石

子規 病牀下」

*甑中の章魚 ; 『通鑑漢順帝記』の「相聚りて生を偸(ぬす)むこと魚の釜中に游(およ)ぐがごとし」から出た「釜中の魚」(あまり長く生きながらえられないことのたとえ)をもじったもの。『吾輩は猫である』「十一」には「釜中の章魚」とある。なお、「甑(こしき)」は釜の上において穀物をむすためのおけ。極めて貧しいことを言う言葉に「甑中塵を生じ、釜中魚を生ず」がある。

*無事是貴人 ; 禅語。なにごともしない人こそが高貴の人である。絶対に計らいをしてはならない。ただあるがままであればよい。『臨済録』にある言葉。

*堂に陟る・・・ ; 『論語』「先進篇」に「由や堂に升(のぼ)れり、いまだ室に入らず」とあり、進歩向上の階梯を言う。ここではそれを諧謔的に用いている。

7月6日

ゴッホ、パリを訪れ、オーリエ、トゥールーズ=ロートレックに出会うが、意気消沈して、その日のうちにオーヴェールに戻る。

7月7日

若狭の困窮漁民、米価高騰により蜂起、米・酒屋襲撃。

7月10日

川島正次郎、誕生

7月10日

米、ワイオミング洲、合衆国加盟(44番目)

7月14日

浅草、人体解剖ろう細工の見世物・覗きからくりなどが話題を呼ぶ。


「七月十四日より、東京浅草公園三社裏にて、エ・ナフタリーの人体解剖蠟細工と覗眼鏡の見世物。」(「東京朝日」7月12日)


7月17日

前年英南アフリカ会社を設立した鉱山王セシル・ローズ、ケープ植民地首相となる

7月20日

南越倶楽部臨時総会、9月の定期総会の内容や同倶楽部の維持法などについて協議。

衆議院議員選挙を通じて、福井第3選挙区での永田定右衛門(愛国公党)と中島又五郎之(再興自由党)との抗争は、選挙後の第2次「福井新聞」や南越倶楽部に深刻な亀裂をもたらす。中島の選挙機関紙的役割を担った第2次「福井新聞」は、彼の敗北後、従来の立場変更を余儀なくされる。さらに、また中島帰京後、資金問題を生じ、再び「福井新報」を支えた藤井五郎兵衛ら福井市商工グループの資金力に頼らざるをえなくなり、その編集にも大きな変化がみられる。このことは南越倶楽部武生派の機関離脱を意味し、23日の第2次「福井新聞」は武生派への揶揄的記事を載せ、以後しばしば南越倶楽部を批判攻撃。24日の論説「福井県に政治思想の発起するを望むものは」において、「県下に政治思想の発起を希ふものは南越倶楽部に反対する政団の起らんことを望むなり」と書く。

この日の臨時総会出席は杉田以下36人、内25人は吉田・坂井両郡の人員で、増田・松下は出席したものの永田は欠席、倶楽部内の武生派・永田派対立は決定的様相。8月13日、坂井郡の同倶楽部幹事阿部精が杉田に書簡、倶楽部立直しの為に、定期総会での役員全廃、新組織を構築、増田・松下の退陣が必要であると訴える。

7月21日

幸田露伴「造化と文学」(『報知新聞』)

作家として自分の在り方にも疑問を持ち始めていた露伴が、旅先の上州赤城山から報知新聞にいる友人森田思軒に宛てた手紙(岩波版全集では坪内逍遥宛となっている)。

露伴は同じ頃、ついに剃髪してしまう。


「それ等の傑作が、いか一代に秀でた作品であつたにせよ、いかに高邁な理想を寓してゐるにせよ、いかに群作家を圧倒する長所美点を多く具へてゐたにせよ、一応は風流の文学であつたことは否み難い、つまり現実に背を向けてわれ面白ろの世界を打ち立てた風流文学であつた。だが、一年二年と次第に文学上の経験もつみ、天才が磨かれ、学問も深まり、殊に「新聞」といふ活社会密接な関係をもつに及んで、この現実に背を向けた我おもしろの独善的態度が、露伴にとつて大きな疑問になつて来た。」(柳田泉『幸田露伴』)

7月23日

この年の夏は記録的な猛暑。6月に長崎で発生したコレラが次第に東漸し、東京市中でも患者の数が激増しつつあった。


「七月二十三日(水)、京橋区木挽町一丁日にコレラ発生。フィリピン群島で流行したものが、清国から長崎・大阪を経て侵入し、八月下旬から猛威を振い、九月二十四日(水)、一日だげで百四十八人もの新患者を数え、十一月には消滅する。東京府の患者総数四千二十七人、死亡者三千三百七人。(全国の総患者数は四万六千十九人、死亡者三万五千二百二十七人である)」(荒正人、前掲書)

7月25日

「集会及政社法」、国会開設に先だって公布。集会条例を受け継いだ集会・結社規制法規。認可制を届出制に変えて規制をゆるめた反面、臨監警察官による集会の解散権、内務大臣の結社禁止権、他社との連絡の禁止などは残される。新たに未成年者・女子の政談集会・政社参加の禁止、屋外集会・多衆運動への規制が加わる。

7月27日

ゴッホ(37)、自らの胸部にピストル発射。翌朝パリからテオがかけつける。一たん様態は持ち直すが夜に入って悪化。29日午前1時半、 テオに看取られて死去。

7月29日

中江兆民、「国民新聞」に「進歩党の連合、是れ佳事なり」と述べる。この頃、兆民は5党派(旧自由党3派・改進党・九州進歩党)による「進歩党連合」結成に奔走。

7月30日

フランツ・ヨーゼフとエリザベトの末娘マリー・ヴァレリーとトスカナ大公フランツ・ザルヴァトーアと結婚。


つづく


0 件のコメント: