大杉栄とその時代年表(48) 1891(明治24)年3月 子規と虚子の文通始まる 河東碧梧桐上京 尾崎紅葉の結婚 川上音二郎(27)、横浜伊勢崎町の蔦座で「オッペケペ」上演 ニコライ堂開堂 立憲自由党、自由党と改称 子規の房総旅行 より続く
1891(明治24)年
4月
韓国、日本漁船の操業停止求めて騒擾。
6月、日本漁船数十隻、済州島に上陸、蛮行。
7月、外務督弁閔種黙、日本公使に「日韓通商規則」「日韓通漁規則」(明治22年11月調印)の改定要求。
9月、韓国政府、内務協弁ル・ジャンドルを日本に派遣、日本漁船の済州島近海での操業禁止と「日韓通漁規則」改定交渉させる。
ル・ジャンドル:前年3月、井上馨・李鴻章の推薦でデニーの後任となったフランス系アメリカ人。厦門のアメリカ領事。日本にも滞在し外務卿副島種臣などに助言。日本女性と結婚し、その間に生れたのが歌舞伎俳優15世市村羽左衛門。
4月
山県首相、予算削減の責任をとり首相を辞任。
4月
足利郡吾妻村・毛野村・梁田郡梁田村有志集会。銅山調査を東京帝大農科大学へ土壌分析依頼。
6月、農科大学助教授古在由直、被害は銅化合物と回答。
4月
児島惟謙、大審院長就任。先任西成度、没。
4月
福田友作「同人社入社の辞」(「刀水新報」)、帝国議会に失望の感想。「何ぞ海外的精神を奮起せざる」、日本資本主義発展のための海外市場・原料確保主張。この頃、有作は「刀水新報」事務主任と、中村敬宇「同人社」社員(講師・幹事)を勤める。後、中村敬宇が没し帰郷。
4月
漱石の兄和三郎の妻登世の悪阻は重く、病床に臥すようになり、次第に重症になる。
4月
内藤鳴雪が子規の寄宿舎監督に着任。
4月
大杉栄(6)、新潟県北蒲原郡村立新発田本村の尋常科三之丸小学校に入学
4月
ランボー、担架でハラルを出発。アデンで取引を精算後、船でマルセイユに到着。コンセプシオン病院入院。右足切断。
4月
グスタフ・マーラー(31)、ブダペスト王立歌劇場を去り、ハンブルク市立歌劇場首席指揮者に就任。
4月
南方熊楠、フロリダで地衣類を蒐集する退役大佐カルキンスよりフロリダには学者の知らない植物が多いと聞き、アナーバーから汽車でフロリダに向かい、3日後同州ジャクソンビルに着。ここで中国人江聖聡の面倒見により、3ヵ月余、植物・動物などの採集活動を行う。キーウエストで採集を行った後、9月中旬キューバ島ハバナに向う。ハバナで外人サーカス団曲馬師川村駒治郎他サーカス団の日本人3人と出会い、共にハイチのポルト-プランス、ベネズエラのカラカス、バレンシア、ジャマイカ島など移動。その間、各種の生物、特に菌類・地衣類を採集。翌1892(明治25)年1月ジャクソンビルに戻る。
4月1日
福井県で「郡制」施行。郡の分合がない為、全国的に最も早く郡制施行。8月1日より「府県制」施行。
郡に郡会・郡参事会が置かれ地方公共団体の性格が付与される。郡会は、町村会で選出された議員と大地主互選による議員(前者の1/3以下)により構成、議長は郡長。議員任期は前者が6年で3年毎に半数改選、後者は3年。大地主は、郡内で町村税賦課をうける所有地地価総計が1万円超の者とされ、福井県の若狭3郡には大地主選出の郡会議員はおらず、また越前8郡でも大地主有権者42人が郡会議員35人(大地主の8割)を選出。郡会議員には坂井郡雄島村大針徳兵衛や今立郡上池田村岡研磨や遠敷郡鳥羽村沢本常治郎のように、村長と県会議員を兼ねるものが多い。
以上のように郡会は、県会・町村会以上に地方有力者(地主)中心となり、郡長が議長であり議員に兼職者が多く、独自の「自治」施策が議論される可能性は極めて少ない。
郡参事会は、郡会議員互選による3人、知事選任の1人、議長である郡長の5人で構成され、郡会提出議案の事前審査、郡会委任事項や臨時急施事項の議決、町村監督事務への参与など広範な権限を有す。また郡長は、郡会議長・議案発議者・郡参事会議長として、郡会と郡参事会を主宰し、それらの議決を執行する立場にあり、その権限は強大。県下11郡総計の財政規模は大正末年の郡役所廃止まで福井市一市とほぼ雁行し、県・町村と比較すれば遥かに小規模。県・町村と異なり郡が独自に主体となって行う事業が少なく、また郡の最大の任務が町村の監督であったため。しかし、日清戦争以後、中等学校の普及や鉄道・電気事業の誘致などが盛んになると、町村を越えた地域の利害調整に郡長(郡会)の果たした機能は小さくない。
4月1日
ブラジル、新憲法により連邦共和国となる
4月2日
藤田五郎(元新撰組斎藤一)、警視庁警部補を退職、東京高等師範学校に勤務。
4月4日
ゴーギャン(43)、タヒチへ出発。
4月6日
この日付け子規の叔父大原恒徳宛て手紙。子規は強度の神経衰弱に悩みはじめている。
「私も先月末頃脳病(憂鬱病の類)に罹り、学科も何も手につかず候故、十日の閑を愉(ぬす)んで(尤も学校は大方休みなり)、房総地方へ行脚と出掛申候。菅笠に日避け、蓑に雨を凌ぎて旅行致候処、意外に興多く、去る二日帰京仕(つかまつり)候ひしが、病気も大分宜敷様に感申候・・・・・」
4月7日
大田實、千葉県長生郡水上村高山の農家の次男に誕生。
4月11日
一葉日記(「若葉かげ」)始まる。
吉田家の歌会を兼ねて墨田堤に遊んだ日(4月11日)から本格的に日記を付け始め、最初の1冊を「若葉かげ」と題す。~6月24日
3月又は4月初めまで中嶋家に居ることが多い生活であった。一葉は女学校入学が絶望的とみて菊坂の家に戻り、内職の洗濯や仕立ての裁縫を手伝った。
(前文)
「花にあくがれ月にうかぶ折々のこゝろをかしきもまれにはあり おもふこといはざらむは腹ふくるゝてふたとへも侍れば、おのが心にうれしともかなしともおもひあまりたるをもらすになん・・・
卯のはなのうきよの中のうれたさに おのれ若葉のかげにこそすめ
・・・」
(*うれたさ:嘆かわしさ、いまいましいさま)。
この日、本所向島小梅村の邸宅に住む実業家夫人の吉田かとり子が夏子を含む萩の舎の中心メンバを花見の宴に招く。しかし、他の人々は萩の舎に集まり、師匠とともに出かけるが、夏子はそれに加わらず、家の中で内職仕事ばかりに追われている妹のくに子を誘って、かつては(明治14年~21年、下谷御徒町及び黒門町に住んでいた頃))父に連れられて出かけた上野東叡山の山に行き、花見をして父を偲ぶ。明治22年に父則義が没してからは、一家は窮乏生活に陥り、縫い物や洗濯の賃仕事でようやく凌いでいる状況である。
姉妹は、上野から人力車に乗り、隅田川を吾妻橋で渡り、枕橋で降りる。秋葉神社、白髭神社、梅若塚まで散策して墨田堤の桜を楽しみ、帰りに長命寺門前で桜餅を買い母への土産にくに子に持たせて、夏子は一人で吉田家に向かう。
「「上野の岡はさかり過ぬとか聞つれど、花は盛りに月はくまなきをのみ愛るものかは。いでやその散がたの木かげこそをかしからめ」といへば、「ならびが岡の法師(兼好法師)のまねびにや」といもうとなる人は打ゑみぬ。さすがに面(オモ)なくて得いわず成ぬるもをかし。我すむ家より上野の岡は遠きほどにてもなかりければ、まだ朝露のしげきほどに来にけり。・・・
澄田川にも心のいそげば、をしき木かげたちはなれて車坂下るほど、こゝは父君の世にい給ひし頃、花の折としなれば、いつもいつもおのれらともなひ給ひて朝夕立ならし給し所よ、とゆくりなく妹のかたるをきけば、むかしの春もおもかげにうかぶ心地して、
山桜ことしもにほふ花かげにちりてかへらぬ君をこそ恩へ
心細しやなどいふまゝに、朝露ならねど二人のそではぬれ渡りぬ。山下といふ所よぎりて、むかし住けん宿のわたり過るほど、よの移り行さまこそいとしるけれ。まだ八とせ計(バカリ)のほどに下寺(シタデラ)といひつるおきつち所は、鉄の道引つらねて汽車の通ふ道とは成ぬ。其車とゞむる所を始め、区の役所、郵便局など其頃思ひもかけざりしものあまた所出来にたり。わがはらから難波津ならふ頃、その師のがり行とて常にこのあたり行かよふほど、「やがてはかくならん」など人の語りてきかせつれど、「そはいつのよの事なるべき。蜃気楼のたぐひにこそ」と打笑み艸(グサ)にしたりしも、よの事業の俄(ニハ)かなる、早くも聞けんやうに成にたるを、「我其折に露たがはず、何仕(ナニシ)いでたる事はなくて徒(イタヅラ)にとしのみ重ねたるよ」と打なげかれぬ。」
山下という所を過ぎて、むかし住んでいた家のあたりを通ると、様子はすっかり変わっていた。まだ8年しかたっていないのに、下寺といっていた台地には鉄道が敷かれ汽車が通っている。駅、区役所、郵便局など、思いもしないものが沢山できている。妹と習字を習っていた頃、いつもこのあたりを通っていた。いつかはこんなになるだろうと、人々が話して聞かせてくれたが、それはいつのことだろうか、蜃気楼のようなものだろうと笑っていたのに、世の中の事業はどんどん進み、早くも、聞いた通りになってしまっている。それなのに、私たちは昔のままで何一つ為しとげたこともなく、ただ歳をとるばかりだと嘆かれた。
吉田かとり子の家は、三囲(ミメグリ)神社の近くにある。隅田川での大学のボートレースを見物したり、打ち上げられた花火に、師の中島歌子が、
花にはな火をそへてみるかな
と吟じると、一葉の親友伊東夏子は、
思ふどちまどゐするさへうれしきを
と付けて興じたりする。
4月12日
景山英子「婦女の本分」(「立憲自由新聞」~16日)。9月創刊「女権」にも転載。
4月15日
一葉(19)、妹の友人の紹介で朝日新聞小説記者半井桃水(30)を訪問、教えを受けることとし以後頻繁に訪問。
歌子との女学校入学の約束の実現を待ち続けて空しく日を過ごす間にも生活は困難を極めた。一葉は小説家になる決意をし、妹くにの友人、野々宮起久の助言で「東京朝日新聞社」の小説および雑報担当記者半井桃水を教えられて4月15日、芝区南佐久間町1丁目(現、港区西新橋1丁目)の半井家を訪問。一葉の強い希望を受入れ、半井桃水は小説の指導を承諾した。
桃水は、妻と死別し独身。芝区南佐久間町の借家に弟の浩や茂太、妹の幸子を養い、幸子の友人鶴田たみ子を同居させている。幸子は東京府高等女学校に在学し、菊子やたみ子と同級。
野々宮起久(夏子より3歳上):妹くに子が本郷の木村裁縫伝習所で知りあう。この頃、起久は京橋区(現中央区)の東京府高等女学校で教員をめざして勉強をしている。同じ学校に学ぶ半井幸子の家に女手の足りないことから、くに子に縫物や洗濯などの賃仕事の口をきいてくれるが、幸子の兄が小説記者であることから紹介の労をとってくれる。半井家には、同じ高等女学校の友人である福井県出身の鶴田たみ子が寄宿している。起久は、くに子と夏子に、桃水を「心やさしき小説家」と紹介する。
日記には初回から好感を持ち慕っている様が語られる。
「色いと白く面おだやかに少し笑み給えるさま、誠に三才の童子もなつくべくこそ覚ゆれ。丈は世の人にすぐれて高く、肉豊かにこえ給へば、まことに見上る様になん」。21日、新聞小説の清書草稿を持参して桃水を訪問。桃水は初対面の時一葉が置いていった小説について「新聞にのせんには少し長文なるが上に、余り和文めかしき所多かり。今少し俗調に」と感想と助言を与える。
(緊張する一葉)
「十五日雨少しふる。今日は野々宮きく子ぬしがかねて紹介の労を取たまはりたる半井うしに初てまみえ参らする日也」
「初見の挨拶などねんごろにし給ふ。おのれまだかゝることならはねば、耳ほてり唇かわきて、いふべき言もおぼへずのぶべき詞もなくて、ひたぶるに礼をなすのみ成き。「よそめいか斗(バカリ)おこなりけん」と思ふもはづかし。」
(桃水の印象)
「色いと白く面(オモ)ておだやかに少し笑み給へるさま、誠に三歳の童子もなつくべくこそ覚ゆれ。丈(タケ)ハ世の人にすぐれて高く、肉(シシ)豊かにこえ給へば、まことに見上る様になん。」(日記「若葉かげ」)
(桃水は小説についての見方や、自身の作品について自嘲的に語る)
「我今著す幾多の小説いつも我心に屑(イサギヨ)しとしてかきたる物はあらざる也。されば世の学者といわれ識者の名ある人々には批難攻撃面ても向ケがたけれどいかにせん。我は名誉の為著作するにあらず、弟妹父母に衣食させんが故也。其父母弟妹の為に受くるや批難もとより辞せざるのみ。もし時ありて我れわが心を持て小説をあらはすの日あらんか、甘んじて其批難は受ざる也との給ひ終って大笑し給ふさま誠にさこそと思はれ侍れ」
(桃水から見た一葉)
「恰(チョウ)ど時候も今頃で袷(アワセ)を着て居られましたが、縞がらと言ひ色合ひと言ひ、非常に年寄めいて帯も夫に適当な好み、頭の銀杏返しも余り濃くない地毛ばかりで、小さく根下りに結った上、飾といふものが更にないから大層淋しく見ました。どちらかと言へば低い身であるのに少しく背をかゞめ、色艶の好くない顔に出来るだけの愛嬌を作つて、静粛に進み入り、三指で畏つてろくろく顔も上ず、肩で二つ三つ呼吸をして低音ながら明晰した言葉使い、慇懃な挨拶も勿論遊ばせ尽し、昔の御殿女中がお使者に来たやうな有様で、万に一つも生意気と思はれますまいか、何うしたら女らしく見るかと、夫のみ心を砕かれるやうでありました」(回想「一葉女史」『中央公論』明治40年6月)
この時、桃水は一葉が作家の道を歩むことに必ずしも賛成ではなかったが、是非という懇願により小説の指導を引き受けた。また、桃水は夏子に夕食をもてなす。遠慮する夏子に、これが田舎ものの我が家の習慣なのだと、心をほぐし、帰りの俥の手配もする。持参した習作を預け、桃水の作品の掲載された本などを4、5冊借りて、夏子は降りしきる雨のなかを、感謝で胸をいっぱいにして帰途につく。一葉は、初対面の桃水に魅せられ、師弟関係とともに恋心をも抱くようになる。その後も一葉は、度々桃水宅を訪れるようになっていく(この日以来、6月17日までの2ヶ月間に、少なくとも8回は桃水を訪れ、面談による小説指導を受ける)
「我れ師とはいはれん能はあらねど、談合の相手には、いつにても成なん。遠慮なく来給へと、いとねんごろにに聞え給ふ」(「若葉かげ」同日条)
日記に見る、一葉が桃水に心魅かれた3点。
①色白でおだやかな表情、人並すぐれた長身の肉づきゆたかなその容姿、
②現在自分の書いている小説は、けっして納得のゆくものではなく、新聞の読者の好みに応じているので自分の名誉のための著述ではない。それは弟妹父母を養うための手段であり、時がくれば本心からの小説を書く日もあろうかと語る桃水の、侠気に満ちた人生観への共感。
③一葉の作家志望の理由に同情し、さぞつらいだろうがしばしの辛抱と語り、自分は師と言われるほどの能力はないが、相談の相手にはいつでもなるからという優しく温かなその態度。
半井桃水:
本名は洌(きよし)、『東京朝日新聞』専属になる前の名は泉太郎。万延元年(1860)12月2日対馬藩典医半井湛四郎、藤の長男として現・対馬市厳原町中村584番地で生まれた。桃水の生家跡には「半井桃水館」が新設されている。宗家最後の典医であった湛四郎は泉太郎にも医術を継がせようと厳しく教育したが、版籍奉還によって典医の身分を失うと息子に新しい学問を学ばせようと考えた。明治8年(1875)11歳の時、共立学舎に入れるため上京させ、桃水はそこで英会話を学ぶかたわら、新聞に興味を持つようになる。卒業後、三菱合資会社に勤めるが退社し、放浪の末に京都の『西京新聞』に勤める。
その後、『大阪魁新聞』創刊時に入社するが廃刊となり父のいた朝鮮の釜山に渡る。日本人米穀仲買商4人が韓国人100人に襲われる亀浦事件に巻きこまれ留置されましたが、この時の記事を弟の名で『大阪朝日新聞』に投稿したところ、認められて朝日新聞社の海外特派員第一号となる。明治16年、釜山で同郷の成瀬もと子と結婚するが、愛妻は1年後に病死。その臨終の枕辺で、独身を通すことを誓ったと伝えられる(明治40年大浦わか枝と再婚するまで妻を迎えていない)。
明治21年日本に戻った桃水は、父が甥の失敗のために背負った負債をひきうけ、妹と二人の弟を引きとって一家を構え、『朝日新聞』の東京支局に専属小説作家及び雑報記者として働く。新聞には、『胡砂吹く風』(明治25年12月刊)、『大石内蔵之助』など96作品を面に連載した。大正15年(1926)11月21日、福井県敦賀町で享年67歳で世を去った。桃水の墓は駒込の曹洞宗養昌寺にある。
つづく
0 件のコメント:
コメントを投稿