1890(明治23)年
8月
川上音二郎、京都で伊勢崎町蔦座出演。好評。10月、東京芝開盛座進出。
8月
森鴎外『うたかたの記』発表
夏
子規と虚子の出会い。
「・・・明治二十三年の夏も子規は帰省した。彼が、やはり東京帰りの学生仲間たちと松山城の北にある練兵場へぶらぶら行くと、「バッチング」している中学生たちと出会った。一年前に子規が伝えたベースボールは、松山に根づいたのである。
「おいちょっとお貸しの」
子規は中学生のひとりにそういって、バットとボールを借り受けた。そうして自ら「バッチング」をはじめた。
東京帰りの学生たちはいっせいに数十間後退して広がり、子規の打つボールを受けようとした。つまりノックである。単衣の着物を肌脱ぎに、腰にはさんだ赤いタオルを揺らしながらの子規の打球は、なかなかに鋭かった。
子規の手元をはずれたボールが見学している中学生たちの前に転がってきたとき拾って投げ返したのが、一歳下なのに伊予尋常中学では河東秉五郎と同級の高浜清、のちの虚子であった。
其人は「失敬。」と軽く言って余から其球を受取った。此「失敬」という一語は何となく人の心を牽(ひ)きつけるような声であった。旋(やが)て其人々は一同に笑い興じ乍ら、練兵場を横切つて道後の温泉の方へ行つてしまった(高浜虚子「子規居士と余」)
子規と虚子のはじめての出会いである。」(関川夏央『子規、最後の八年』 (講談社文庫) )
夏
子規は松山から大津に旅行。
「飄然と琵琶湖畔に天下り、石山寺に参籠し、幻住庵の跡に錫(しやく)をとどめ」たりしていた。「詩歌的小説(世俗的小説に対しての)」を書くためには、「世俗を棄てて塵外に遊び、時候の善き処、景色のよき処を選ば」なければ「詩神(ミユーズ)」のインスピレーションは得られない。「式部、石山寺に籠りて山光水色を眉端(びたん)にながめざれは源語の妙辞を作る能はざりしなるべし」という、金之助宛の手紙で吹聴した創作理論を実行していた。
8月4日
再興自由党解党。愛国公党解散。7日、九州同志会解散。17日、大同倶楽部解散。
8月5日
英ザンジバル、仏マダガスカル領有の条約締結。
8月6日
アルゼンチン、市民同盟,再度蜂起、ファレス大統領退陣。暫定大統領ペジェグリーニ。
8月9日
この日付けの漱石の子規宛て手紙。眼病に悩み書籍も筆硯も一切放抛、浮世がいやになるも
自殺するほどの勇気なしと。
この頃、厭世的な気分に陥る。
「爾後眼病兎角よろしからず。其がため書籍も筆硯(ひつけん)も悉皆(しつかい)放抛(ほうほう)の有様にて長き夏の日を暮しかね、不得己くゝり枕同道にて華胥(かしよ)の国黒甜(こくてん)の郷と遊びあるき居候得共、未だ池塘(ちとう)に芳草を生ぜず、腹の上に松の木もはへずこれと申す珍聞も無之、この頃ではこの消閑法にも殆んど怠屈仕候。といつて坐禅観法はなほできず瀹茗(やくめい)漱水の風流気もなければ仕方なくただ「寐てくらす人もありけり夢の世に」などと吟じて独り洒落たつもりの処瘠我慢(やせがまん)より出た風雅心と御憫笑可被下候。しかシ小生の病はいはゆるずるずるべッたりにて善くもならねば悪くもならぬといふ有様故、風光と隔生を免かれたりと喜ぶ事もなきかはりには、韓家の後苑に花を看て分明ならずといふ嘆も無之、眼鏡ごしに簾外の秋海棠の哀れに咲きたるををかしと眺むる位の事は少しも差支無之候。・・・・・(略)
この頃は何となく浮世がいやになりどう考へても考へ直してもいやでいやで立ち切れず、去りとて自殺するほどの勇気もなきはやはり人間らしき所が幾分かあるせいならんか。「ファウスト」が自ら毒薬を調合しながら口の辺まで持ち行きて遂に飲み得なんだといふ「ゲーテ」の作を思ひ出して自ら苦笑ひ被致(いたされ)候。小生は今まで別に気兼苦労して生長したといふ訳でもなく、非常な災難に出合ふて南船北馬の間に日を送りしこともなく、ただ七、八年前より自炊の竈(かまど)に顔を焦し寄宿舎の米に胃病を起しあるいは下宿屋の二階にて飲食の決闘を試みたり、それはそれはのん気に月日を送りこの頃はそれにも倦(あ)きておのれの家に寐て暮す果報な身分でありながら、定業(じようごう)五十年の旅路をまだ半分も通りこさず、既に日竭(つ)き候段、貴君の手前はづかしく、われながら情なき奴と思へどこれも misanthropic 病なれば是非もなし。・・・・・
・・・・・これも心といふ正体の知れぬ奴が五尺の身に蟄居する故と思へば悪(にく)らしく、皮肉の間に潜むや骨髄の中に隠るるやと色々詮索すれども今に手掛りしれず。ただ煩悩の焔熾(さかん)にして甘露の法雨待てども来らず。慾海の波険にして何日彼岸に達すべしとも思はれず。已(や)みなん已みなんなん。目は盲になれよ耳は聾になれよ肉体は灰になれかし。・・・・・
(略)
小生箇様な愚痴ッぽい手紙君にあげたる事なし。かかる世迷言申すはこれが皮きり也。苦い顔せずと読み給へ。
漱石拝
子規 机下」
*華胥の国黒甜の郷 ; 「華胥」は中国古代の黄帝が昼寝の夢のなかで遊んだという平和な理想郷。「黒甜の郷」は、おなじく昼寝の夢であそぷ世界、の意。「黒甜」は昼寝をすること、うたたね。
*未だ池塘に芳草を生ぜず ; 「池塘」は池の堤。宋の朱熹「勧学詩」の句に「未だ覚めず池塘春草の夢」(池の堤に春草が萌えるころ、楽しくまどろんだ夢からまだ覚めない)とある。
*風光と隔生を免かれたり ; 張籍「忠眼」の詩の起承句に「三年眼を患いて今年ややよし、風光と生を隔つるを免かる」とある。
*韓家の後苑に花を看て分明ならず ; 前注の詩の転結句に「咋日韓家後園の裏、花を看てなお末だ分明ならず」とある。
この漱石の「煩悩」は、兄和三郎の妻登世に対する思慕が原因とするのが江藤淳であるが、大岡昇平は『小説家夏目漱石』の中でそれを批判している。
「兄嫁に対するかなわぬ恋の思いもあったのだろうが、私は、この漱石の憂鬱は、やはり、時代に対する違和感だったと思いたい。上の学校に進んで行った、七人男の四人の内、熊楠はすでに大学予備門でリタイアし、海外留学の道を選び、ひと足先に帝国大学に進学した紅葉もこの年夏に中退、手紙の相手である子規も、やがて大学を中退することになる。つまり彼らは皆、エリートとしての道を捨てる。その中で一人、漱石だけが、その道を突き進む。しかし彼は、(立身出世主義を含めて)固まりつつある日本の近代化に違和感を覚え始めていた。それが彼のふさぎの虫の原因だったのではないか。」(坪内祐三『慶応三年生まれ七人の旋毛曲り』(新潮文庫)
8月15日、子規は、弱音を吐いた漱石に宛てて手紙を書く。
詩人が「無垢清浄、人間以外の詩思を得る」時は、「詩人ハなほ詩神として存在する」と。
「弱音を吐いた漱石に対する子規の八月一五日の手紙は、「何だと女の崇りで眼がわろくなつたと、笑ハしやァがらァ、此頃の熱さでハのぼせがつよくてお気の毒だねへ」という、落語のような口調で始まっている。落ち込んでいる友人を励まそうとして、あえて挑発的かつ攻撃的な文章を子規は書いていく。
「此頃ハ何となく浮世がいやでいやで立ち切れず」ときたから又横に寝るのかと恩へバ今度ハ棺の中にくたばるとの事、あなおそろしあなをかし。最少し大きな考へをして天下不大瓢不細(天下は大ならず、瓢は細ならず)といふ量見にならでハかなハぬこと也
・・・・・それは常に子規の病状を気道う言葉を、漱石が滑稽化して書き送ってくれていたことに対する応答でもあった。「自殺」願望をめぐる手紙のやり取りは、子規と漱石の生涯を貫く関係性となる。
しかし漱石の方は、本気で傷ついてしまう。この子規の手紙への返信で、「女崇の攻撃昼寝の反対奇妙奇妙然し滑稽の暁を超えて悪口となりおどけの旨を損して冷評となつては面白からず」と書き送っている。」(小森陽一『子規と漱石 友情が育んだ写実の近代』(集英社新書))
8月15日付け子規の返信。
「何だと女の祟りで眼がわろくなったと、笑ハしやァがらァ、此頃の熱さでハのぼせがつよくてお気の毒だねへといハざるべからざる厳汗の時節、自称色男ハさぞさぞ御困却と存候。併(しか)シ眼病位ですみとなり、まだ顋(あご)蝿を逐ハぬ処がしんしようしんしよう。僕君の眼を気遣ふてこれを卜するに悲しや易の面、甚だよろしからず・・・・・
朝寐ハのら息子、昼寐ハ盗人と相場のきまりたるものを得意顔にゐばるとハ笑止の至り也。夢中の美人を画にかいた牡丹餅よりもはかないものとも知らでこれを楽むハ、君ら未だ色男の堂に上らざるが故ならん。まして美人を夢ミるの趣向ハ君の発明にハあらず。・・・・・
自作の西行の句を名吟とハさてもさても豆のやうな量見也。但シ、
西 行 も 笠 ぬ い で 見 る ふ じ の 山
と書バ意味合も変り富士を尊とむの事となる故一段の光栄あるべし。僕が近製に、
日 の 本 の 俳 諧 見 せ ふ ふ じ の 山
余り見識が大なから(ママ)君の咽喉へハ呑ミこめないこと疑なし。さりとてそねむなそねむな。
二度目の御手紙ハ打つて変つておやさしいこと、ああ眼病ハこんなにも人を変化するや物のあハれもこれよりぞ知り給ふべきといとゆかし、鬼の目に涙とハこの時ヨリいひならハしけるとなん。
(略)
「この頃ハ何となく浮世がいやでいやで立ち切れず」ときたからまた横に寐るのかと思へバ今度ハ棺の中にくたばるとの事、あなおそろしあなをかし。最少し大きな考へをして天下不大瓢不純〔天下は大ならず、瓢は細ならず〕といふ量見にならでハかなハぬこと也。けし粒ほどの世界に邪魔がられ、うぢ虫めいた人間に追放せらるるとハ、てもさても情なきことならずや。・・・・・」
8月12日
旧自由党3派・改進党・九州進歩党の初会合。
26日、旧大同倶楽部の改進党への反感強く、改進党除く4派連合「立憲自由党」結成。
8月15日
吉野泰三、正義派解散、政治からの撤退を考えるが、一か月後の立憲自由党の結党式に参加、入党。
8月中旬
漱石、箱根に滞在し、漢詩十数首を作る。
「八月十六日(土)から二十日(水)の間(不碓かな推定)、東京を出発、箱根に向う。新橋停車場から国府津停車場まで汽車で行き、その正面にある小田原馬車鉄道株式会社待合所で十分ほど待ち、小田原を経て早川を渡り、西岸を少し走り、再び東岸に出て、湯本温泉の福住橋際停車場に着く。二十日間ほど芦の湖南岸、旧箱根関所跡に遊ぶ。元箱根まで友人(不詳)を送る。(不確かな推定)漢詩十数首を作る。眼病よくない。」
「九月上旬、箱根町から東京に煽る。」(荒正人、前掲書)
8月21日
尾崎忠治大審院長、枢密院顧問就任。後任西成度東京控訴院長。
8月22日
斎藤緑雨「正直正太夫死す」(『読売新聞』)。『注戸むらさき』第6号(明治23年9月)に再録。
「さるにても頃ろ文壇声なく色なく、酔へるが如く眠れるが如し、正太夫敵手なきに倦きて、猛虎は伏肉を喰はずと称し、遁(のが)れて埴生の小屋にツクネンたり、一日天を仰いで歎(たん)じて曰く、俳諧論を誦せんか、新体詩を学ぽんか、寧ろ叡山に登つて腹かツさばかん・・・・・。」
8月23日
渡良瀬川沿岸大洪水(50年ぶりといわれる)。
冠水しただけで稲田は腐り、桑は8~9割枯れる。足尾銅山の鉱毒を明らかにした。これ以前では、明治18年梁田郡朝倉村「地誌編輯材料取調書」で明治15頃、足尾銅山開設以来渡良瀬川の魚類が減少したことを指摘。明治20年6月「渡良瀬川筋古今沿革調」では、銅山開設以来業類絶滅を指摘し、鉱毒が原因と指摘。梁田郡梁田村の長祐之によれば、安蘇・足利・梁田3郡漁民は明治14年に2,773名が21年には788名に減少、実際に漁を専業とするもの皆無と報告。
8月23日
東京電灯会社の電柱広告、警視庁から許可。
8月下旬
漱石の子規宛て書簡(「詩神は仏なり仏は詩神なりといふ議論斬新にして面白し」)。
「さすが詩神に乗り移られたと威張られる御手際、読み去り読み来つて河童の何とかの如くならず。天晴れ天晴れかつぽれかつぽれと手を拍(うち)て感じ入候。しかし時々は詩神の代りに悪魔に魅入られたかと思ふやうな悪口あり。・・・・・
(略)
女崇の攻撃昼寐の反対奇妙奇妙。しかし滑稽の境を超えて悪口となりおどけの旨を損して冷評となつては面白からず。それも貴様の手紙が癪に障るからだと言は〔る〕れば閉口仕候。悟道徹底の貴君が東方朔(とうほうさく)の囈語(げいご)に等しき狂人の大言を真面目に攻撃してはいけない。
(略)
詩神は仏なり仏は詩神なりといふ議論斬新にして面白し。君能く色声の外に遊んで清浄無漏の行に任し自己の境界を写し出されたとすれば敬服の外なし。今より朋友の交を絶ち師弟の礼を以て贄(し)を執り君の門に遊ばんかね。しかし例の臆測的瑞摩(しま)的の議論なら一切御免蒙る。(悟れ君)なんかと呶鳴つても駄目だ。(狐禅生悟り)などとおつにひやかしたつて無功とあきらむべし。また理窟詰め雪隠詰めの悟り論なら此方も大分言ひ草あり。反対したき点も沢山あれどこの頃の天気合ひ、とかくよろしからず。攫(つか)み合ひ取組合ひ果ては決闘でもしなければならぬやうになるとどつちが怪我をしても海内幾多の美人を愁殺せしむるといふ大事件だから、一先づここは中直りをして置きましよう。いづれ九月上旬には詩神にのりうつられたといふ顔色しみじみと拝見可仕候。
君が散々に僕をひやかしたから僕も左の一詩を咏じてひやかしかへす也。
(略)
君の説諭を受けても浮世はやはり面白くもならず。それ故明日より箱根の霊泉に浴しまたまた昼寐して美人でも可夢(ゆめむべく)候。
(略)」
8月29日 この日付け子規の漱石宛ての手紙。
子規の手紙で傷ついた漱石へ率直に謝罪する。
(「俗世界へ手紙を出すことハ先づこれにておしまひ」)。
「御手紙拝見寝耳に水の御譴責状ハ実ニ小生の肝をひやし候(ひやし也ひやかしにあらず)君を褒姒視(ほうじし)するにハあらざれど一笑を博せんと思ひて千辛万苦して書いた滑稽が君の万怒を買ふたとハ実に恐れ入つた事にて小生自ら我筆の拙なるに驚かざるを得ず何ハともあれ失礼之段万々奉恐入候。犬の糞のかたきのとそんな心得ハ毛頭も無御坐人がひやかしたからひやかしかへすの、ヤレ師弟の礼を執るのともうもう穴へでもはいりたき心地致し候。しかシしやれがこふじてつかみあひになるなどとハ君と小生との如き両大人の間に起るべきことにもあらず。かツまた狐禅生悟りが君をひやかしたなどとハよつぽどおかしい見様じやないかねへ。変てこてこへんだわい。
(略)」
「彼らの行きちがいの根は深い」
「だが、彼らのこういうやりとりには、単なる行きちかいとして片付けられないようなところがある。つねに生き生きとした生命感があふれた、ふしぎな明るさがしみとおった子規の精神には、漱石の暗い内面に入り込むことを拒む動きが見てとれる。喀血というそういう彼の生命感を奥深いところから蝕む出来事を経験しているだけに、いっそうその動きが強まったとも思われる。彼は漱石の言う厭世や自殺から身をひるかえし、滑稽めかして漱石をはげまそうとした。たしかにここには子規のエゴイズムがあるだろうが、喀血してまだ間もない子規に自殺願望を口にする漱石にもエゴイズムはある。そんなふうに考えると彼らの行きちがいの根は深いのである。こういうことは、手きびしい直言以上に人びとの仲を裂くことになりかねないのだが、彼らはよくそういう危機を乗りこえた。この危機をも糧としながら、その友情は深まるのである。」(粟津則雄(『漱石・子規往復書簡集』(岩波文庫)解説))
つづく
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