2024年2月29日木曜日

大杉栄とその時代年表(55) 1891(明治24)年9月 田中正造の日記に「鉱毒」が出始める 上野・青森間鉄道全通 硫黄島を日本領とする 子規、ようやく追試に及第 一葉日記「蓮生日記」と改題 津田三蔵(38)獄死   

 


大杉栄とその時代年表(54) 1891(明治24)年8月 「職工義友会」(アメリカ、高野房太郎ら) 漱石の子規宛て8月3日付け手紙(嫂登勢「悼亡」の句13句 日本文学研究の決意を吐露) 鴎外(29)医学博士 より続く

1891(明治24)年

9月

坪内逍遙「春廼舎漫筆」(春陽堂)

9月

この頃、田中正造の日記に鉱毒関係記事現れる(重大な関心を持ち始める)

9月16日、「鉱毒」という文字が初めて現れる。この年、正造は、7月に東京専門学校を卒業したばかりの左部彦次郎を群馬県邑楽郡に派遣、被害地を調査させる。左部は、調査とともに邑楽郡渡瀬・大島・西谷田・海老瀬4村農民を援助し、4村長連名の鉱毒除外・採鉱事業停止の請願書を農商務大臣に出させる。

9月

一葉(19)、この頃書いた「筆すさび」

「おのれ十四ばかりのとしまでは、病ひといふもの更に覚えず、親もはらからもみな脳の病ひにくるしむなるを、我は一人かしらいたきなどいふことふつになく、・・・やや大人び行くままに、ここにかしこに病ひ出来て、こと更にかしらいたみ、肩などのいたくはれなどすれば、物覚ゆる力とみにうせて、耐えしのぶなどは更にできうべくもあらず」


少女時代は健康であったが、成長とともに体力が弱ってきたことが述懐されている。

「少し大人びていくにつれて、あちこちに病気が出て来て、その中でも殊に頭痛や肩などの大そう腫れるなどのことが現れると、物を記憶する力が急になくなってきて、忍耐するなどということは一向できそうにもない。」

9月

混迷打開の為の黒田・井上会談。井上は薩長調和問題と今後について述べる。

①藩閥政府は「未だ曾て一度も外部から破れたる事なく、皆内部の猜疑より由来」しており、猜疑の起因は「互に胸襟を開きて国事を相談せざる」からである。

②「薩長共に先輩の偉功に依り今日迄王室の御為に尽し来りたるも、相互の猜疑により遂に互に調和する能はずして国家を誤り候様の事有之候ては、実に地下の先輩に対し漸塊の限り、且我々は国家の罪人たるを免るゝを不得」という薩長間調和を重視。

③薩長調和重視と関連し、内閣首班・閣僚の交代方式が慎重考慮される。

9月1日

日本鉄道会社線盛岡・青森間開通。上野・青森間全通(後に東北本線となる)。1日1往復。約26時間半。

9月2日

文部省の委嘱で井上哲次郎『勅語衍義』を著す。

9月4日

西園寺公望、前月ドイツ公使から帰国し、この日、勲章授与実務を担当する賞勲局の総裁に任命(閑職)

9月10日

政府、小笠原南方の無人島を硫黄島と命名、日本領土とする。

9月12日

群馬県、公娼を禁止する旨の布告。

9月12日

漱石、午前、帝国大学文科大学書記小林忠謨を訪ね、子規の追試験について尋ねる。1週間位の間に受験すればよい。少々遅れてもよいとの回答を得る。夜、子規に手紙を書く。

9月13日

この日から15日の間、漱石、氷川公園万松楼(埼玉県大宮町、現・大宮市)の高島方に、保養と追試験準備をしていた子規を訪ねる。鶉か何かの焼いたものを生れて初めて食べる。子規から「俳句分類」という計画を聞かされ、即座に賛成する。書道についても大いに論じる。

9月15日

この日か又は17日、漱石、子規と共に万松楼から東京に帰る。

「明治二十四年九月の追試験には、正岡は大宮公園内の旗亭方松庵の奥座敷を借りて、集中して試験準備をするつもりで金之助の応援をあおいだ。ある日突然呼び出しの手紙が届いたので、金之助が大宮まで出かけて行くと正岡は上等の部屋におさまりかえって威張っている。そして、

「どうだ、この鶉はいけるだろう」

などといって、凝った鶉料理を出させて気焔をあげていた。しかし、表面上の印象とは逆に、正岡は経済的・心理的にますます窮迫しつつあった。追試験には「やうようの事にて及第」することができたが、学業を嫌う気持ちがつのり、寄宿舎にいづらくなりはじめた。」(江藤淳『漱石とその時代1』)

「九月には出京して残る試験を受けなくてはならぬので準備をしようと思ふても書生のむらがつて居るやかましい処ではとても出来さうもないから今度は国から特別養生費を支出してもらふて大宮の公園へ出掛けた。万松楼といふ宿屋へ往てここに泊つて見たが松林の中にあつて静かな涼しい処で意外に善い。それにうまいものは食べるし丁度萩の盛りといふのだから愉快で愉快でたまらない。松林を徘徊したり野逕(のみち)を逍遥したり、くたびれると帰つて来て頻りに発句を考へる。試験の準備などは手もつけない有様だ。この愉快を一人で貪るのは惜しい事だと思ふて手紙で竹村黄塔を呼びにやつた。黄塔も来て一、二泊して去つた。それから夏目漱石を呼びにやつた。漱石も来て一、二泊して余も共に帰京した。大宮に居た間が十日ばかりで試験の準備は少しも出来なかつたが頭の保養には非常に効験があつた。しかしこの時の試験もごまかして済んだ。」(『墨汁一滴』)

9月15日

この日より一葉(19)の日記は「蓮生日記」と改題

9月18日

フィリピン、リサール「エル・フィリブステリスモ」出版。

9月26日

一葉(19)の妹くに、関場悦子より桃水の女性関係の派手な事や影の多い生活などの、悪い噂をきいてくる。

7月に桃水宅に同居していた鶴田たみ子が出産したが、その相手が桃水だというスキャンダルが拡がっている。事実は桃水の弟浩がその相手で、桃水は若い二人をかばっていただけだが、一葉は最後までその噂を信じていたらしい。

9月30日

大津事件犯人の津田三蔵(38)、肺炎で獄死


つづく

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