2024年2月20日火曜日

大杉栄とその時代年表(46) 1890(明治23)年11月25日~12月 第1回帝国議会召集 山県首相は対外進出・軍拡の必要性を強調 「国会」創刊 犬養毅・尾崎行雄ら「朝野新聞」退社 ウンデッド・ニーの虐殺

 


大杉栄とその時代年表(45) 1890(明治23)年10月~11月23日 鴎外(28)離婚 星亨帰国、立憲自由党入党 初代貴族院議長伊藤博文 帝国ホテル開業 より続く

11月25日

・第1回帝国議会、召集。29日、開院式。

午前10時に開会。衆議院では、全国257小選挙区から選ばれた300名の議員のうち290名が登院し、一日かけて議長に中島信行が、副議長に津田真道が選出された。中江兆民は、自由民権運動の流れを汲む反政府側勢力を「民党」、政府寄りの政党勢力を「吏党」と呼んだが、これは一躍時代の流行語となった。議会では、「民党」が171名の絶対多数を占めていた。

議会では民党が予算案の大削減を求め、政府と激しく対立。政府は立憲自由党の一部の切崩しに成功、ようやく予算案を成立させる。

議会閉会後、切崩しをうけた立憲自由党の一部は、脱党して自由倶楽部を組織。立憲自由党は名称を自由党に改め、板垣を党総理に推戴、板垣を先頭に24年夏にかけて地方遊説を行う。

初期議会:藩閥政府と民党が激しい攻防。民党は「経費節減・民力休養」をスローガンに、政府は朝鮮への勢力扶植を目標に陸海軍拡張を推進。また、民党が責任内閣制から立憲政治確立を掲げ、政府は超然主義を唱え政党に左右されない官僚内閣の立場を固持。

11月25日

朝日新聞社社長村山龍平、新たな新聞『国会』を創刊(主筆は末広鉄腸)。幸田露伴が読売新聞から『国会』新聞に移る。


「露伴は、この頃可成り親しく交際してゐた先輩饗庭篁村と、小学校時代の師であつた宮崎三昧のすゝめで、この国会に入社することになった(月給六十円ともいふ)。篁村は、このごろは東京朝日の、三昧は大阪朝日の記者として勢力があった。露伴は、この後二十八年まで足掛け六年間国会を離れなかつたので、この間は、いはば国会時代とでもいふべきであらう。」(柳田泉『幸田露伴』)

11月27日

豊島与志雄、福井県朝倉郡福田村に誕生。

11月29日

「朝野新聞」、改進党系の論客、犬養毅、尾崎行雄、吉田嘉六、町田忠治ら9人の有力記者の「退社広告」を出す。

この月、東京五大新聞のひとつ、成島柳北の流れを汲む「朝野新聞」は「大阪毎日」社長渡辺治(台水)の手に移り、渡辺はこの日の「朝野」に「社主兼主筆に就任」との社告を出し、同時に記者9人の「退社広告」も出し、明治26年の廃刊に至る道を歩む。同日付「国民新聞」は、「今や新聞日に月に加わる。而して独り有力なる朝野新聞が此の憐れなる最後に接したるを聞く、豈痛惜せざるを得んや」と記す。

11月29日

憲法実施日。天皇のロシア公使館付近通過時、群集、館内外国人に投石。犯人、軽い処罰。


12月

足利郡吾妻村臨時村会、採鉱停止上申書を栃木県知事に提出。同月、栃木県会も建議を全会一致決議。

12月

首相山県有朋施政方針演説。

「国家独立自衛の道は、一に主権線を守禦し、二に利益線(朝鮮)を防護するにある」とし、その為には「陸海軍に巨大な金額をさかなくてはなりません」と演説、軍拡の必要を強調。

山県は、国策として対外進出を行う必要性を強調。外交の目的は主権線(国境)の防衛と利益線の擁護にある。国家独立の維持の為には主権線の防衛のみでは足りず、進んで利益線の擁護を行わなければならない。利益線擁護の為には、各国の行為のうち、わが国に不利なものは排除し、やむを得ないときは武力を行使してもわが国の意志を貫かなければならない。わが国の利益線は朝鮮にあるが、シベリア鉄道の建設とカナダ鉄道の完成により、英露対立の場になりつつある。わが国の課題は第一に軍備の充実、第二に教育による愛国心の高揚で、これにより国権を強大にし、利益線を守ることにある、というもの。

自由党内にも軍備拡張論が台頭。大石正巳は、シベリア鉄道は日「清韓を席巻し英国を太平洋岸に駆逐する武器」であるとし、完成後、ロシアは「一兵を弄せず」朝鮮を併呑し、日本の寿命は鉄道延長に反比例して短縮すると悲観(「日本の二大政策」)。栗原亮一は予算査定過程で変貌し「軍備論」を刊行、政府の軍拡を支持。

「東朝」は「好んで行はざることを言ふは不可なり」と民党の予算削減に非を鳴らし、「大朝」も「看す看す行はれざる議論をなすが如きことあらば、之れを冒して無謀の甚だしきものと謂はざるを得ず」と、予算削減案を「無謀」とする。


12月

立憲自由党常議員会開催。議長星亨。代議士と一般党員の調整の為、常設委員5名(板垣、星、大井ら)を置く。

党内矛盾調整は困難で、領袖間にも意見の隔たりがある。板垣は壮士の暴走を好まず、院外一般党員による代議士圧迫には批判的。大井は関東壮士指導者として党内に勢力を培い、院外者による代議士団の拘束を試る(党内派閥「二七会」を作り、地租改正案を巡り、党の院内団体弥生倶楽部を攻撃)。党は山林宅地を含め地租を2分とする改正案を党議とし、これにより地租総額約1千万円軽減する計画のところ、実際に弥生倶楽部から提出された改正案では軽減額は約800万円の為、二七会はこれを党議違反として代議士団を追及。追及は公の場に止まらず、壮士は代議士に1日中つきまとい、表敬訪問と称して集団で代議士宅に押しかけ、有無を云わさぬ圧力をかける。

12月

大西祝「詩歌論一班」(日本評論)

12月

坪内逍遙「小説三派」(読売新聞)

12月

ハンガリー社会民主党(SZDP)第1回大会。一般労働者党再編・改称。オーストリア社会民主党のハインフェルト綱領採択。

12月2日

「若越自由新聞」、発行。南越倶楽部機関紙。大橋松二郎を中心に吉田・坂井両郡の青年層がやや強引に刊行。

12月4日

ベルリン、北里柴三郎、ジフテリアと破傷風の血清療法を発見

12月6日

第1回帝国議会予算審議開始。1千万削減要求の過激派(硬派、改進党と一部自由党)と300万削減主張の穏和派(軟派、大部分の自由党と大成会)。硬派の査定案が委員会通過。

予算案歳入総額は約8067万円(うち租税収入6642万円、そのうち地租3877万円)。所得税(法人税を含む)は明治20年に創設されているが、まだ地租依存割合が高く、歳入全体の5割弱、税収の6割近くが地租。一方歳出総計は約064万円で、予算委員会はこのうち約943万円削減する修正案を可決し、立憲自由党党議はこれを支持。議会は憲法上の大権事項については、政府の同意なく廃除・削減できない為、削減対象は人件費などの政費に限られる。

12月6日

仁科芳雄、誕生。

12月13日

大井の立憲自由党機関紙「あづま新聞」発行。

12月15日

アメリカ、テトン・スー族族長指導者シティング・ブル、スタンディング・ロックで警官隊に襲撃され殺害 

12月16日

東京・横浜両市内と両市間で電話交換が始る。加入者数は東京155・横浜42。

12月23日

福田友作(23)、米国留学より帰国。

12月23日

東京盲唖学校教諭の石川倉次らが点字の50音表を完成する

12月29日

アメリカ、ウンデッド・ニーの虐殺。

インディアン聖地サウス・ダコダ州(パイン・リッジ保留地)ウンデッド・ニー。武装解除のスー族300余(酋長ビッグ・フットら)、ネルソン・マイルズ指揮の第7騎兵隊に大量虐殺。この事件をもってインディアンの組織的な抵抗は終わる(1763年以来、推定1千万のインディアンの95%が死に絶える。民族としてほぼ絶滅。1864年サンド・クリークの虐殺。600人)。(ネルソン・マイルズは1898年プエルトリコ軍事占領も指揮)

12月末

幸田露伴、谷中に転居。

「『国会』新聞に移った露伴は、同じ年の暮、住みなれた神田の父母の家を離れ、谷中天王寺町に一軒家を購った。

『国会』新聞での露伴の月給は六十円。読売時代が十五円だから、四倍のアップである。一軒家に移り住んだ露伴は、生活も落ちつき、時間的余裕も出来、この家で彼は、『いさなとり』、『五重塔』という傑作を次々執筆して行くことになる。さらに谷中天王寺町は、饗庭篁村や幸堂得知、森田思軒らの住居とも近かったから、彼ら、根岸派の文人たちとの交流も深めて行く。」(坪内祐三『慶応三年生まれ七人の旋毛曲り』(新潮文庫))


つづく


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