2024年2月15日木曜日

大杉栄とその時代年表(41) 1890(明治23)年5月~6月 郡制・府県制公布 欧米各地で世界初のメーデー 愛国公党組織大会 雑誌『江戸むらさき』創刊 鴎外(28)陸軍二等軍医正 佐渡相川暴動    

 


大杉栄とその時代年表(40) 1890(明治23)年4月 「新作十二番」(春陽堂) 第三回内国勧業博覧会 『博覧会他所見の記』(読売新聞 逍遥・紅葉・露伴) 皇紀2550年を記念して橿原神宮が創建 民事訴訟法・商法公布 より続く

1890(明治23)年

5月

一葉、中島歌子が女学校教師に推薦しようとするが、学歴がない為果たせず、「萩の舎」内弟子となる。 

5月

「郡制」「府県制」公布。郡制が、郡の分合問題などから施行できず、この年中に郡制、府県制の施行をみたのは9県。

山県は、内相時代の明治21年4月に市制、町村制を定め、総理大臣時代の明治23年5月に府県制、郡制を制定、三新法体制に代わる新しい地方自治制を導入。

市制、町村制により、市の執行機関に市長と市参事会、議決機関の市会、町村には町村長と町村会を置く。だが、市会議員は地租など直接国税3円以上、町村会議員は2円以上を納めた男子による制限選挙によるもの。府県会議員は、従来は地租5円以上納めた男子の直接選挙で選ばれていたが、府県制により、市参事会、市会、郡参事会、郡会によって選出されることになる。府県会への間接選挙導入で、国民の参加は制限される。

このような官治的地方自治体制は山県系内務官僚を中心として制度化される。これは国庫金下付による利益誘導とともに、地主・豪農層を政府の下部組織として再編成し、自治体統制を図るのが目的。

松方財政以来、中小農民の窮乏化と地主、小作人の分離が進行しているが、地主制度成立と官治的地方自治体制の確立で、農村はしだいに政府の権力構造の末端に組み込まれてゆく。

5月1日

前年の第2インタナショナル創立大会決議に基づき、欧米各地で世界初のメーデー開催。ハンガリー、初のメーデー、参加6万人。フランスではルイズ・ミシュールなど社会主義者・無政府主義者を検束。

5月3日

清国、朝鮮への外債導入阻止を露・英・米・日に伝える

5月5日

愛国公党組織大会。

植木枝盛執筆の「政綱」:①施政はなるべく干渉を省くべき、②内治は地方分権を主とする、③外交は各国と対等の権義を保全、④兵備は防禦を主とする、⑤財政は節約を旨とし経費は民力と適応すべき。

旧自由党系民権派は、明治22年5月以来、大同倶楽部・大同協和会2派に分裂。板垣は帰郷、後藤は閣内にある。分裂は政府を利するのみで、民権派全体の勢力拡大の為には運動再統合が必要。しかし僚袖たちは、自ら運動の主導権掌握を目指し、板垣出馬を望まず。22年12月、板垣は自ら愛国公党を組織しようとするが、倶楽部・協和会両派とも板垣主導の統合には応じず、逆に、協和会は、翌23年1月、「自由党」を結成、自由党(再興)中心のイニシアチブ確立を目論む。しかし、板垣も統合を諦めず、この月、愛国公党を結成。統合を目指した筈の民権派は三派鼎立となる。愛国公党は倶楽部から脱退した土佐派を吸収するが、板垣はあくまで民権派全体の統合を目指し他派に働きかけ、倶楽部・協和会両派もようやくこれに応じ、三派連合の庚寅倶楽部結成が決まる。しかし、総選挙はいよいよ目前に切迫し、三派は選挙運動に専念し、民権派合同の動きは一時中断。

5月6日

福澤諭吉、「時事新報」に「朝廷を離れたる日本国の社会に於いて、大臣等の末流に居るを好まず」と書く。学者の集まりである工学大会に招待され、皇族・大臣が特別席であることに反発して出席を断った理由。

5月7日

上野公園のパノラマ館が開場。戊辰戦争を描いたもので大評判。

5月10日

利根川と江戸川を結ぶ全長約8Kmの利根運河が完成

5月13日

ニーチェ、母に伴われてナウムブルクの家に帰る。

5月14日

大同倶楽部・再興自由党・愛国公党の所属者が庚寅倶楽部結成

5月15日

田口卯吉(35)、横浜港から天祐丸(う91トンの小汽船)で、南島商会の事業のため南洋に向かう。12月2日横浜港帰着。

5月16日

ゴッホ、サン・レミ療養院を出る。17日パリ着。テオ宅に数日滞在。20日オーヴェールの村(オーヴェール・シュル・オワーズ)着。精神科医師ポール・ガッシュを訪問。ラヴー夫妻のレストランに下宿。風景画を中心に制作も順調。

5月31日

高野房太郎(21)、「読売新聞」に「北米合衆国の労役社会の有様を叙す」を寄稿(5月31日~6月27日掲載)。


6月

川上音二郎、京都で出演停止処分。

6月

宮崎湖処子「帰省」(民友社)

6月

尾崎紅葉、硯友社同人仲間と雑誌『江戸むらさき』を創刊。

6月(推定) 

漱石、英語教師ジェイムズ・マードックに提出のレポート”Japan and England in the Sixteenth Century"を書く。この「あとがき」の部分が雑誌「みゅーぜあむ」(7月)に掲載される。

6月2日

松平慶永(春嶽、61)、没。

6月4日

選挙戦報道。「酒池肉林以て選挙人の歓心を買ふもあるべく、例の日当車賃以て投票の労に酬ふるもあるべく、甚だしきは一票何円以て之を買占むるもあるべし」(「大阪朝日」)。

6月6日

森鴎外(28)、陸軍二等軍医正(少佐クラス?)に任命され、軍医学校教官に就任。

6月8日

テオ一家、オーヴェールにゴッホを訪れる。

6月12日

植木枝盛、帰郷。選挙運動。

6月28日

5代目古今亭志ん生・美濃部孝蔵、神田に誕生。

6月30日

佐渡相川暴動。佐渡・相川町で2千数百人が米商人など66戸を襲う。新潟県知事が軍隊出動を要請。

この月、1889年産米が前年比85%減収で、米価がピークとなり約2倍に暴騰、全国で60件余の米騒動が発生。富山(12件)、新潟(11件)、石川(6件)等の北陸地方に多い。米の移出に伴う在米の減少→高値・売り惜しみに起因する場合が多い。

この月は暴動・打毀しが5件(佐渡相川暴動が最も大規模)。

相川暴動

「明治二十三年(一八九○)の六月末に起こった、全国最大規模の米騒動。相川から始まったので、新聞は相川暴動と報じた。打ち壊しなどの被害を受けた町村は、全島で一五、被害戸数は七七戸におよび、鎮圧のため新発田から一箇中隊が海を渡った。発端は米価騰貴で、二十二年九月からほぼ全国規模で起った。佐渡では、同月二十八日に夷町で貧民四百余人が、廻船問屋と米商人五軒に乱入して、米の積出しをやめさせる「津止め」の証書をとるなどの騒ぎになり、翌二十九日に相川に波及した。一升七、八銭の米価が、十二銭に騰貴したためで、町内の米屋・廻船問屋・質屋・金貸業・酒造業・四十物商・精米業など、一八戸が壊される。相川がもっとも被害が大きかった。翌三十日は、二見・沢根・河原田・金沢、また八幡から新町を経て畑野へ向う一隊があり、第一回衆院選が行なわれた七月一日は、南片辺から小田村まで、海府一帯の地主層が襲われ、島中がパニック状態におちいった。『北溟雑誌』によると、このころ小木港でも「細民頻りに動揺し、頗ル不穏の景况」で、重立ち衆が二千円を三か月無利子で細民に貸しつけることで、「鎮静」に向った。真野町では、新町浜からの米の津出しをやめさせたほか、重立ちが都合千二百円を供出し、「右金ニテ相当値段ヲ以テ米穀ヲ買入シ、買値段ヨリ三割引ヲ以テ町内ノ人民ニ売渡スベク実施」するなどの救済策がとられ、暴動をまぬがれたとある。相川ではそのような事前の救援策がなかったことが、暴動拡大のひきがねにもなっていた。相川湾から、度津丸で新潟に連行された検挙者は二○○人を超えた。新潟地方裁判所の判決によると、沢根の港から大坂へ米を積み出していた九百石積の和船「万徳丸」に、石油で放火した三五歳の坑夫が、重禁錮一二年でいちばん重い判決を受け、指揮者とみなされた二二歳の鉱山坑夫小川久蔵は、軽懲役七年。服役中に獄死した。」
(『佐渡相川の歴史』別冊 佐渡相川郷土史事典)


つづく

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