1891(明治24)年
1月
森鴎外『文づかひ』発表
1月
一葉(19)、小説「かれ尾花 一もと」を執筆、小説家として立つことを決意。
1月上旬
神奈川県1市12郡の有志2756名、4つの請願書「地租軽減」「集会及び結社法の改正」「衆議院議員選挙法の改正」「郡制改正の請願」を衆議院に提出。石阪昌孝ら、紹介議員となる。
1月1日
(光緒16年11月21日)醇親王(光緒帝の実父)、没。后党・帝党のパイプ役。
1月3日
博文館、「少年文学」叢書創刊。第1冊は厳谷小波「こがね丸」全32冊。
1月4日
高野房太郎、サンフランシスコ商業学校別科(昼間クラス)入学。コスモポリタン・ホテル客引き・移民局通訳などし乍ら英語・簿記・商法・速記術・算数・商業通信文など学ぶ。
1月7日
立憲自由党議員総会。軟派のボス大江卓・竹内綱より査定案への修正案提出されるが、査定案を党議とする決定。会議に壮士が乱入、植木枝盛襲われる。
30日、決定を再確認。しかし、立憲自由党は分裂状態。院外壮士は代議員に個別に党議服従の圧力をかけ、栗原亮一は「我党の諸士に訴ふ」(「国民新聞」)で議員の独立を主張。常議員会では非議員が多数で、この記事が問題化。栗原・板垣は「分立届」を出す有様。
1月8日
ロシア、女流舞踊家で振付け師ニジンスカ、キエフに誕生。
1月9日
松方蔵相、憲法67条に従い、議会の予算査定(予算委で10%削減査定)に対し本会議前に、政府は不同意に旨表明。
憲法67条問題:「憲法上の大権にもとづける既定の歳出…は、政府の同意なくして帝国議会はこれを排除し、または削減することを得ず」。⇒天皇の行政大権(第10条)と結べば、議会は予算審議権を通じて官庁統廃合・官僚俸給削減など行政日削減ができなくなる。第1議会300議席中171議席を占める「民党」の統一要求(「政費削減・民力休養」)とぶつかる。
1月9日
内村鑑三不敬事件。
第一高等中学校で教育勅語奉読式で,講師の内村がキリスト者の信念に従い,天皇の親署のある教育勅語に対する奉拝を拒む。内村と内村を弁護した教員1人が不敬として職を追われる。
1月11日
石阪昌孝らが中心となり大磯の濤龍館で板垣退助招待有志懇親会開催。14日、板垣、石阪に懇親会の礼状。
1月12日
東京・大阪商工会議所、設立。
1月15日
景山英子、実業女学校開校。通学生100・寄宿生50、婦人のための夜学生も募集。
1月19日
立憲自由党、臨時大会開催。議長星亨。
予算委員会査定案と党議の関係については、代議員は代議士が党の査定案に従うよう尽力すべきと決議(党議を再確認)。機関紙「自由新聞」(板垣に近い旧愛国公党系党員の運営)の予算に関する大会前日の社説が、歳出943万円削減の査定案に批判的で、党議を再議すべしと主張した事に、自由党(再興)系が反撥、社説取消しを求める談判委員派遣を提案、大会はこれを可決。これに対し、院外者圧力に批判的な板垣は、「自由新聞」記者と共に、分立届を提出。旧愛国公党系は、本来は左派の自由党(再興)系と右派の大同倶楽部系の中間に位置するが、予算問題では他の2派より穏健な態度をとり、党内で孤立しかけている。しかし、4派合同で結成した立憲自由党から板垣に分立されては、民党分立に逆戻りで、議会での主導権を失うことになりかねなく、星・河野・新井らが板垣慰留に努め、代議士の独立保障、代議士への脅迫中止、談判委員派遣中止を約束して一応事なきを得る。
1月20日
帝国議会議事堂、漏電により全焼。
1月25日
ゴッホ弟テオ、90年10月、精神錯乱。この日、ユトレヒトの病院で没。(1914年、テオ宛のヴィンセントの書簡集、テオ妻ヨーの手によって刊行)
1月29日
明治美術会で裸体の絵画彫刻は本邦の風俗に害ありや否やを論じ、議論百出する。
2月
自由党系言論雑誌「刀水新報」、創刊。
2月
アリス・ベーコン「日本の女性」出版。
2月1日
中江兆民「自由党万歳」(「立憲自由新聞」)。硬派勝利を確信。
2月5日
川上音二郎一座、堺の「卯の日座」で書生芝居の旗揚げ興行を行う。
2月6日
この日より、本会議で予算案審議開始。予算委員会査定案について各省所管別に決議が進む。
2月7日
子規、帝国大学文科大学哲学科から国文科に転科。
2月12日
直木三十五、誕生。
2月18日
内大臣三条実美(55)没。25日、国葬。
2月20日
「土佐派の裏切り」。大成会天野若円の動議、立憲自由党土佐派24人の寝返りで29票差(137対108)で可決。政府予算案は結局、減額651万円で2票差で成立、政府は解散を免れる。
予算委員会、780万円余の予算削減を含む予算査定案を本会議報告。松方蔵相不同意。予算削減権限が議会にあるか否かの憲法67条問題をめぐり対決。天皇―内閣―議会の権限をめぐる大問題が国会開設直後に噴出。
旧愛国公党系議員中心に24人、吏党(政府党)「大成会」提出の、政府の同意なしに予算削減権限は議会にないとの緊急動議に賛成、議会権限の拡大闘争壊滅。旧愛国公党系や土佐選出議員のみでなく神奈川県第6区(淘綾・大住・足柄下・足柄上の4郡)選出の山口佐七郎も賛成。
立憲自由党旧愛国公党系は予算に対し穏健な態度をとっているが、多くは土佐派で、後藤逓信相、陸奥農商務相と関係が深く、山県内閣は後藤・陸奥を通じて土佐派懐柔を図り、彼らを買収して天野動議への支持を取りつける。
動議可決により、政府は歳出削減への同意を求められ、これには応じず。そこで政府と予算修正案を審議する為、片岡ら9名が院内の特別委員に選出され、歳出約651万円を削減する修正案を作成、これを本会議に諮る。3月2日、本会議は、賛成157、反対125で修正案を可決、明治24年度予算が成立。
民党議員にとり、代議士の地位は藩閥政府との長く苦しい闘いの末につかんだ栄光の座で、解散を避けたい思いは代議士たちには共通。議会が943万円削減査定案を可決した場合、解散は必至であり、その意味では、削減額減少はやむを得ない妥協。
2月21日
中江兆民、議会を「無血虫の陳列場」(「立憲自由新聞」)と言い放ち激怒して議員辞職。中江辞職後、自由党最左派の影響力は弱まり、党内勢力は2勢力に分れる。①右派愛国公党型「官民調和論」、②中道派大同倶楽部型「地租軽減=2大政党論」。
二重三重に天皇権の枠を設けた明治憲法体制下での「主権在民」「君民同治」は不可能と見ての玉砕。旧大同協和会系(中江派)石坂昌孝は辞職賛成(死に花を咲かせる)。旧大同倶楽部鈴木万次郎は反対意見(有終の美を与えたくない)。2人の賛否両論のあと例外的に指名点呼のうえ採決。辞表受理すべき94、同でない93。
兆民辞任による補欠選挙で村山龍平が当選。
2月23日
ゴーギャン(43)、タヒチ行きの旅費調達のためドゥルオ館でゴーギャンの油絵30点の売立て、成功。 3月7日、コペンハーゲンの家族を訪れる。
2月24日
予算案審議に際し政府与党と妥協した土佐派と呼ばれる29名、立憲自由党を脱党、25日、その内28名、自由倶楽部結成。26日、板垣退助、立憲自由党を脱党。
2月24日
森鴎外(29)、東京美術学校解剖授業の嘱託となる。
つづく
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