1904(明治37)年
11月13日
『平民新聞1周年記念号』(第53号)発行
「共産党宣言」訳載(幸徳、堺訳)。
未明、即日発禁。発行兼編集人の西川、翻訳した堺と秋水の3人が起訴される。
滝野川紅葉寺での園遊会禁止処分。
園遊会は、予告記事によれば、会場の滝野川の紅葉寺に団子屋、おでん屋、甘酒屋などを設け、記念撮影を行い、弁当を食べながらさまざまな余興を楽しむ、と書かれている。余興は「人形ボンポコ踊」「仮装行列」など他愛のないものばかり。
4日後、社会主義協会も「安寧秩序に妨害あり」という理由で、治安警察法によって禁止を命じられる。
堺も秋水もドイツ語には通じていなかったため、この「共産党宣言」は英訳からの重訳。訳文の前につけた序文で「全篇の誤謬瑕疵、亦定めて多かるぺし」と断っている通り、訳語がおかしいところもあり、第三章は省略されている。
しかし、「一個の怪物欧州を徘徊す」と「ヨーロッパに幽霊が出る」とを比べると、堺らの訳のほうが力強く、読み手の心に響いてくる。
ただ、即日発行停止となったため、この「共産党宣言」は、ごく一部の人々の目に触れただけだった。
幸徳の後年の回想。
「我ながら其佶屈聱牙(きつくつごうが)なのに恥入った。此の失敗は、斯(かか)る世界のクラシックとあって社会問題、経済問題研究者のオーソリチーとする歴史的文書は、成可く厳密に訳さねはならぬといふ考へで、非常に字句に拘泥したのと、荘重の趣きを保ちたい為めに多く漢文調を混じた故である。」(『文章世界』(明治41年3月号)
冒頭は、・・・
「一個の怪物欧州を徘徊(はいかい)す、何ぞや、共産主義の怪物是れ也、今や古欧州の権力者は、此の怪物を退治せんが為めに、挙(こぞ)って神聖同盟に加盟せり、羅馬法王も露国皇帝も、メテルニヒもギゾーも、仏国の急進党も独逸の探偵も
見よ、在野の政党にして、曾て在朝の政敵の為めに、共産主義的なりとして毀傷(きしよう)せられざる者ある乎、又見よ、在野の政党にして、骨て他の急進的在野諸党派に対して、並に保守的政敵に対して、共産主義てふ詬罵(こうば)を投返さゞる者ある乎」
訳語には、たとえば「ブルジョアジー」を「紳士閥」、「プロレタリアート」を「平民階級」と訳している。
「共産主義者」をすべて「共産党」とし、「剰余価値」を「剰余価格」、「交換価値」を「交換の価格」とするのに反して、「商品の価格」は「商品の価値」となっている。
「工場制手工業」は「工場制度の製造業」、「生産要具」は「生産機関」、「第三身分」は「第三級団」、「小市民」は「小町人」((一)紳士と平民)と訳されている。
「(二)平民と共産党」では、「亡命者」が「移民」、「資本は共同の産物」というべきを「資本は生産物の集積」とされ、「労働者は祖国を有せず」とあるべきを「労働者は国家を有せず」とし、「全生産様式を変革」が「全生産方法を革命」などと誤って訳されている。
当初の計画では、紙面を12ページに増して、『宣言』全文を訳載する予定であったが、前号の発禁事件やなにかで編集事務が阻害され、やむなく紙面を10ページにとめ、かつ原文(三)の「社会主義及び共産主義文献」の一項を省略することにした。この一項はエンゲルスの序文中にもあるごとく、1848年当時現存していた諸潮流を批評したものなので、ヨーロッパの形勢が当時とまったく変化した今日において大して有用でないからという見地に立って省略した。
堺利彦「日本社会運動史話」
「『共産党宣言』と『資本論』との名は、幾度も平民新聞で紹介されたが、実を云へば、誰もまだ本当に読んでは居なかった。然るにー周年記念号の材料が問題になっている中、小島龍太郎君が『共産党宣言』を推薦してくれた。小島君は自由党左翼系の、『前期の運動者』であったといふばかりでなく、又平民社時代の財政的援助者であったと言ふばかりでなく、現に我が実際の運動史上に於ける思想的発展の一指導者であったと言ふ事もできるわけである。従って平民社の運動は、その一周年において、『共産党宣言』の日本訳を発表した事に依って、初めて棺や本物になったわけである。
反訳は幸徳と堺が担任した。『予等倶(とも)に独逸文に通ぜざるを以て、英訳に依りて重訳し』た。『思ふに共産党宣言の如き貴重の経典は、之を訳する、一字一句決して荀くもすべからず』『予等の浅学不才、任務の光栄を感ずると同時に、窃かに僭越の罪過るる所なきを知る、全篇の誤謬瑕疵、亦定めて多かるべし』
とは二人が『和訳序』に記した言葉である。
「実際、誤謬は少なからずあった。又第三章を欠いて居た。そして発行の即日、禁止となったので幾許可(いくばく)の人の目にも触れなかったわけである。
然し明治三十九年三月十五日発行された月刊雑誌『社会主義研究』第一号には、幸徳、堺合訳の『共産党宣言」が全文チャント載っている。それは、『古の文吉は如何に其の記載事項が不穏の文字なりとするも、単に歴史上の事実とし、又は学術研究の資料として新聞雑誌に掲載』するのは差支ないと言ふ理由からである。そしてこの時には、第三章も(幸徳米国行不在の為、堺一人の手で)反訳された。然しそれが間もなく、他の多くの社会主義的出版物と共に、一切禁止されてしまい、今日でも『宣言』だけはやはり厳重な禁止である。尤も、その後、幾回も、何人かの手に依り、それの秘密出版が行はれている。……」
11月13日
評論家剣南(角田勤一郎 1869~1916)、大町桂月の与謝野晶子攻撃(「太陽」)読んで反論。
剣南は、晶子が桂月に対して反論した「ひらきぶみ」(「明星」12月号)を「言ひ得て好し」と晶子の肩をもっている(「読売新聞」11月13日)。
桂月は「ひらきぶみ」に対して何も答えていないのに、剣南には12月号の「太陽」誌上で答え、それに対し剣南は「理情の弁」(「読売新聞」12月11日)として答えている。
「理情の弁」(「大町桂月子に与ふ」)による剣南の結論は、晶子詩は理性を加えない刹那詠嘆の情を表白したもの、というもの。
この詩に表現されているものは、偏に、弟に死ぬなという詠嘆の情を痛切に寄せているにすぎない。だから理性の調摂がなく、ために思想とみることはできない。国家的観念があるかないかを連想する必要がなく、あえて危険な思想とも感じる理がないと信じる。情理の調摂がどうかによって、思想ができ、思想ができて後に見解があり、見解があってその後に是非の論がある、という。
剣南は、桂月がすぐれた判断力や広い知識を持ちながらも、往々に国家対個人の問題にたいし、このような説諭のみえるのは、偏に「国家主義に密着する思想のしからしむるところ」であろうか、と評している。
「理情の弁」は論理的で熱っぽく、迫力がありしかも普遍性がある。晶子の作詩精神をみごとに分析もしている。
11月13日
ポーランド人民連合成立。ワルシャワ、ポーランド社会党(パリ)、最初の武装デモ組織。
11月14日
午前、御前会議。桂首相・寺内陸相・山本海相・山県参謀総長・伊集院次長。旅順艦隊を砲撃できる203高地攻略の必要性結論。大山総司令官に打電。
16日、大山総司令官より、203高地占領に全力尽くす旨返電。203高地論争は満州軍総司令部が押し切る。
11月14日
(漱石)
「十一月十四日(月)、東京帝国大学文科大学で午前十時から十二時まで King Lear を講義する。
十一月十五日(火)、東京帝国大学文科大学で午前十時から十二時まで King Lear を講義する。午後一時から三時まで「英文学概説」を講義する。」(荒正人、前掲書)
11月14日
(露暦11/1)ロシア、綜合技術高専、ペテルブルク学生統一民主団呼掛け学生集会。戦争即時停止、憲法制定会議即時召集。
17日、電機技術高専、女子医専でも。
18日、レスガフト医専門でも。
つづく

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