2025年7月6日日曜日

大杉栄とその時代年表(547) 1904(明治37)年11月30日~12月3日 「十一月末から十二月初旬の間(日不詳)、高浜虚子、「山会」に提出することを約束した原稿を受け取りに来る。家にあがり、朗読して貰う。聞きながら笑い興じる。気のついた欠点を云って欲しいというと、数か所を指摘するので改める。原稿紙二枚分を除いた箇所もある。高浜虚子、「山会」の時刻に大分遅れて出席する。」 「『ホトゝギス』第八巻第三号(明治三十七年十二月十日刊)には、『吾輩は猫である』(漱石)の次号予告として、と掲げられている。『吾輩は猫である』と題名が決定したのは、十二月十日(土)より一週間前後のことであり、それより数日溯った時に、「山会」が開かれたものと推定される。」(荒正人)

高浜虚子

大杉栄とその時代年表(546) 1904(明治37)年11月27日~29日 「「西川はまた十一月二十八日、足尾銅山に労働同志会を作る運動をしている永岡鶴造の請を容れて、松崎源吉とともに遊説におもむいた。(略)会は聴衆一千余を超ゆる盛会で、松崎の演説中、一人の壮士が演壇に登って妨害したため聴衆から袋叩きに会ったほかは、予想された騒動もなく終了した。二十九日の夜は本山のいろは座に演説会を開き、前夜と同じく満場立錐の余地もない盛況を呈した。」(荒畑寒村『平民社時代』)」 より続く

1904(明治37)年

11月30日 

乃木大将次男保典少尉、戦死。

乃木希典の第二子、陸軍少尉保典(やすすけ)は、203高地の攻撃軍の右翼隊長友安少将の副官をしていたが、この日、第一線への命令を伝えるために山の斜面の塹壕を進む途中で戦死した。

この夜、乃木の第3軍第1師団と、補充部隊として到着した第7師団の混成軍なる攻撃隊が203高地を占領した。乃木は戦線後方の高崎山にある第1師団司令部でそれを見届け、その旨を内地の大本営に打電させてから、日暮頃、馬に乗り、伝騎を先に立てて一人で3里ほど離れた第3軍司令部の宿舎に帰った。途中、1人の兵卒が、死んだ将校を背負い、野戦病院への道を乃木に尋ねた。夕闇の中で人の姿がおぼろに見えるときであった。兵卒はその死骸が乃木保典少尉であることを説明したが、乃木は病院の方角を指示したのみで通り過ぎた。

11月30日 

午前6時、満州軍総参謀長児玉大将、遼陽発。

午前10時、第1・7師団による203高地・老虎溝山攻撃開始。

夜襲により、203高地西南・東北部に進出。西南部では第26連隊第2大隊長静田一郎少佐・後備第15連隊第1大隊長林昭正少佐ら負傷。東北部では第7師団第28連隊第10中隊と第27連隊第11中隊が山頂に到達。

11月30日

政府、一般経費を削減して軍事費を歳出の35.5%とする1995年度予算案を衆議院に提出。

11月30日

第21議会、開会。1905年2月27日閉会。

11月末頃

漱石、虚子の勧めにより虚子主宰の文章会「山会」で朗読する文章「猫伝」を執筆。虚子が朗読して好評で、改題補筆。


「十一月中旬から下旬(日不詳)、高浜虚子に勧められ、「山会」に提出するため『吾輩は猫である』(独立した短篇である。題名は決っていない。後に付けられる)を書き始める。(初めは、一回切りの短篇であったが、後に好評なので続編を書く。長篇『吾輩は猫である』の第一回分である)」

「正岡子規の旧居で行われた「山会」(寒川鼠骨・伊藤左千夫・長塚節・河東碧梧桐・高浜虚子・坂本四方太らの文章会)の席上、『吾輩は猫である』の最初の章を虚子がやって来て朗読し、虚子の勧めで少し削除し、後に虚子が持ち帰ってかなり削除する。(高浜虚子は、漱石の許に立ち寄って、『吾誰は猫である』の第一回分を朗読していたので、「山会」への出席に大分遅刻する。(高浜虚子))また、『吾輩は猫である』を執筆する前及び執筆中の漱石の家庭生活の一端について、こう伝えられている。「私達のおやつは、大体、お茶の間にめいめい木のお皿に揃えてありまして、その中におセンべ五枚に、ミカン二つとか、焼芋三つ等という程のものしか入つて居なかつたもので、バナナとか洋菓子とがの到来物は、”ハイカラなお父様しか召し上れないもの”と決つて居りました。」(松岡筆子「夏目漱石の『猫』の娘」『文芸春秋』第四十四巻三号 昭和四十一年三月号)」

「十一月末から十二月初旬の間(日不詳)、高浜虚子、「山会」に提出することを約束した原稿を受け取りに来る。家にあがり、朗読して貰う。聞きながら笑い興じる。気のついた欠点を云って欲しいというと、数か所を指摘するので改める。原稿紙二枚分を除いた箇所もある。高浜虚子、「山会」の時刻に大分遅れて出席する。」

「『ホトゝギス』第八巻第三号(明治三十七年十二月十日刊)には、『吾輩は猫である』(漱石)の次号予告として、と掲げられている。『吾輩は猫である』と題名が決定したのは、十二月十日(土)より一週間前後のことであり、それより数日溯った時に、「山会」が開かれたものと推定される。」(荒正人、前掲書)

12月

日本、韓国在外公館廃止を要求。

12月

松岡文子、平民社賄方「平民社の主婦」として入社。

12月

岩野泡鳴「夕潮」(「有倫堂」)

12月

石阪昌孝、家産を整理(家屋敷を売却)。

12月

孫文、再度日本亡命。

12月

トロツキー、翌年に『1月9日以前』として出版される一連の評論を書き、自由主義を厳しく批判し、ゼネラル・ストライキ論を展開。

12月1日

午前1時過ぎ、203高地東北部山頂にロシア軍の逆襲。第28連隊第2大隊長真崎友吉少佐ら山頂の日本軍は殆ど死傷。ロシア軍が東北部を奪回

午前8時頃、後備第1旅団長友安少将、第7師団長に辞任申し出。大迫中将は、第14旅団長斉藤太郎少将を203高地攻撃指導官に変更。

12月1日

満州軍総参謀長児玉源太郎大将、参謀田中国重中佐、柳樹房の第3軍司令部到着。乃木大将、203高地作戦指揮交代承諾

12月1日

山陽鉄道会社、讃岐鉄道会社を合併。

12月1日

(漱石)

「十二月一日(木)、東京帝国大学文科大学で午前九時から十一時まで「英文学概説」を講義する。片手を出さぬ学生がいたので”君、手を出し給え”と二度叱貰する。講義がすんだ時、その学生の傍らに行き、面責しようとしたら、片手がないと分り黙って退出する。(金子健二)」

「夏目漱石は、薩摩絣の袷の上に羊羹色の紋付羽織を着込んだ髭面の学生が片手を袖口から出さないで、にやにや笑っている姿を日頃から不快に思っていた。この日、急に癇癪を起し、”君、手を出し給え”と叫んだが、指摘された学生はにやにや笑ってばかりいて、手を出さなかった。漱石は、二度”君、手を出し給え”と言って講義を続けたが、他の学生たちは、漱石の額に癇癪筋が太く張っていたことを認める。講義が終った時、その生徒の側に叱賞するつもりで近寄ると、もう一人の学生が「この君は実は少年時代に大きな負傷をして気の毒にも片手を失ったのです。どうか、その点を御諒解下さいまして失礼の段何卒御兜憩をお願いします」と釈明したので、漱石はだまって教室を出て行ったという出来事である。(金子健二)瀬沼茂樹は、この人物が魚住影雄であるという。(出所は、安倍能成)行徳二郎の遺族の語るところでは、魚住影雄は指を切断していたのだという。これには、余分な挿話も加わる。漱石は、つきのような悲痛な冗談で自分の不明を謝したというのである。漱石は、講義を中断し、その学生に近づいて、無礼を答める。傍らの学生が事情を説明する。「それを聞くと、先生の顔色がさつと變つた。忸怩としてその儘教壇に戻られたが、しばらくして顔を上げながら、『僕も實は無い智慧を出して講義してゐるのだから、君もまあ無い手でも出したら好からう』と云はれた。學生一同は思はず笑つた。そして、先生はその儘講義をつゞけて行かれた。」(森田草平「夏目漱石」

『古今名人達人大文豪』昭和三年一月号附録、大日本雄弁会講談社刊)これは、漱石が ""Hamlet"" (『ハムレット』)の講義をしている時となっていろ。その点では、金子健二の「日記」と異なる。その他の記述も異なっている。金子健二の「日記」には、漱石の弁明はない。金子健二の方が事実に近いと推定される。森田草平は、漱石が教壇から弁明したといっているが、他から聞いたうわさが混入していると想像される。」(荒正人、前掲書)

12月1日

米国ライト機に同乗者を搭載飛翔、操縦者以外の同乗者記録ここに始まる

12月3日

平民新聞第53号(「共産党宣言」掲載)第1審公判。裁判長は「鳴呼増税」事件以来の判事今村恭太郎、検事は第52号事件の担当と同じ安住検事。弁護士今村力三郎・卜部喜太郎・板倉中・花井卓蔵・木下尚江。第1回は事実調べのみ。

13日、第2回。

20日、判決。西川・幸徳・堺夫々罰金80円。翻訳頒布禁止は撤回(判決文はマルクスを「ドイツの偉人」と称する)。

12月3日

(露暦11/20)ロシア、ペテルブルク、解放同盟主催司法制度改革40周年記念バンケット、676人、憲法制定会議即時招集。


つづく

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