2025年7月5日土曜日

大杉栄とその時代年表(546) 1904(明治37)年11月27日~29日 「「西川はまた十一月二十八日、足尾銅山に労働同志会を作る運動をしている永岡鶴造の請を容れて、松崎源吉とともに遊説におもむいた。(略)会は聴衆一千余を超ゆる盛会で、松崎の演説中、一人の壮士が演壇に登って妨害したため聴衆から袋叩きに会ったほかは、予想された騒動もなく終了した。二十九日の夜は本山のいろは座に演説会を開き、前夜と同じく満場立錐の余地もない盛況を呈した。」(荒畑寒村『平民社時代』)」

 

荒畑寒村『平民社時代』

大杉栄とその時代年表(545) 1904(明治37)年11月21日~26日 第3回旅順総攻撃 1日目(11月26日) 攻撃目標;松樹山、二龍山、東鶏冠山 午前8時、砲撃開始。午後1時、総攻撃。正面攻撃失敗。決死隊「白襷隊」3千余進撃。大半死傷。 より続く

1904(明治37)年

11月27日

第3次旅順総攻撃

〈概況〉

新たな目標は、203高地占領であった。旅順港を一望する203高地を占領し、ここに観測点(砲撃の精度を高めるために砲弾の着弾点を観測する場所で、ここから送られた情報に従って砲撃の狙いを調整する)を設けることによって、旅順港内のロシア海軍第1太平洋艦隊(旅順艦隊)に対する攻撃を優位に進める、という方針は、以前から連合艦隊が主張していたが、第3次総攻撃開始時点では、 海軍・大本営・陸軍との間で意思統一がかなわず、目標が絞られていなかった。いま、第3軍の当初計画が頓挫したことで、ようやく一致して203高地の占領を第一の目標とするに至った。

203高地に向け、28センチ砲を始めとする大砲による砲撃や第1師団の突撃が開始されると、日露両軍は正に一進一退の状態となる。

11月30日、第7師団が203高地南西部の堡塁、ついで東北部の堡塁を占領するが、ロシア軍は即座に猛反撃を加え、このうち南西部を奪還。

12月5日、第7師団は再びこの南西部への突撃を中心とした攻撃を決行し、苦戦しながらもここを占領、これによって第3軍はついに203高地一帯を占領下に収めることとなる。

11月27日

午前2時、「白襷隊」を含む全攻撃部隊から、第1目標すら攻略できないで突撃中止の報告。

午前10時、第3軍司令官乃木大将、「正面攻撃中止、203高地攻撃」下命。

午前10時30分、203高地砲撃開始。

午後6時、第1師団(松村中将)第1旅団(馬場命英少将)第1連隊が203高地東北部(第3大隊)と老虎溝山(第1大隊)攻撃。

午後6時50分、第1大隊が老虎溝山西部山頂堡塁に突入。

午後7時40分、第1師団後備第1旅団(友安治延少将)後備第15連隊が203高地西南部に突撃。難渋。

午後10時、老虎溝山にロシア軍の逆襲。第1旅団の突撃隊は第1線散兵壕に後退。

11月27日

『平民新聞』第55号発行。

社説「社会党の鎮圧」。政府の社会主義運動取締を論難糾弾。

この頃、「政府の迫害が一段と苛察陰険を増し」ていた。

「巡査や探偵はいたるところの売捌店について『平民新聞』購読者の住所氏名を調べ、その家を訪うて威嚇妨害をこころみ、あるいは社会主義を信ずる青年の父兄に迫って干渉を加え、あるいは露探非国民の悪声を放って郷党の偏見を煽動して憚からなかった。小田、山口の伝道行商に関しても、陸軍次官石本新六の名で「近ごろ平民新聞社員と称する小田某、山口某なる者、社会主義を鼓吹するため地方を遊説して不穏の言論をなせる由、右は非常の害毒を流すべきものにつき軍人家族、ならびに遺族に面会することを厳禁すべし、なお二人は目下、豊橋地方にある如し」という親展書が各地官憲に発せられている。」(荒畑『平民社時代』)

堺利彦がの「平民日記」で、「安部磯雄君は此頃、其全力を注いでマルクスの『資本論』の翻訳に従事して居るので、暫く実際運動に遠ざかるかも知れぬとの事。今、日本に於て此翻訳に成功し得る者、恐らくは氏を措いて外に一人もあるまい」と記す。

11月27日

ロシア・バルチック艦隊独立支隊、スエズ運河通航、紅海南下。

11月27日

(露暦10/14)ロシア、獄死した学生マルイシェフ葬送デモ。

11月28日

第3次旅順総攻撃

夜明け、203高地への砲撃。

午前8時10分、後備第1旅団後備第15連隊(香月中佐)第1・2大隊が203高地西南部に突進。

午前10時30分、援軍を得て再突入。203高地頂上占領。ロシア軍の逆襲により山頂の兵士は全て死傷、山頂へ進む兵士は退却。

正午、備第15連隊は三度突進、203高地西南部一部奪回。東北部に向う第1連隊は連隊長田中中佐負傷し突撃態勢とれず。

午後1時40分、第1旅団(馬場命英少将)第1連隊長代理枝吉歌麿大佐が203高地東北部に突撃するが、先頭は40m進んだ地点で全滅。

午後4時、総攻撃(西南部を後備第15連隊が、東北部を第1連隊が)。足並み乱れ、西南部への突撃のみ。西南部山頂の一部と第2線散兵壕の維持に留まる。

午後4時30分、東北部への攻撃。一旦山頂一部を奪取するが、逆襲により中腹散兵壕に退却。第15連隊は老虎溝山に向かい、一旦山頂堡塁を占領するも、退却。

11月28日

西川光二郎、足尾金田座講演会。聴衆1千余。長岡鶴造(労働同志会組織運動)の招き。

29日、足尾いろは座で演説会。


西川はまた十一月二十八日、足尾銅山に労働同志会を作る運動をしている永岡鶴造の請を容れて、松崎源吉とともに遊説におもむいた。足尾では前夜、反対派の秘密会合で不穏の計画が議せられた風聞があり、同志会の演説会広告が被られた事実もあって、二十余名の坑夫が西川等を護衛して演説会場の金田座に乗込んだほどである。会は聴衆一千余を超ゆる盛会で、松崎の演説中、一人の壮士が演壇に登って妨害したため聴衆から袋叩きに会ったほかは、予想された騒動もなく終了した。二十九日の夜は本山のいろは座に演説会を開き、前夜と同じく満場立錐の余地もない盛況を呈した。ここでも一人の妨害者が現われ、怒った聴衆のなかから刃物を持って反対者に近づかんとする者まで出て、スンデのことに大事に至らんとする騒ぎであった。」荒畑寒村『平民社時代』)

11月28日

第21議会召集。30日開会、1905年2月27日閉会。(初めて衆議院の議員席を党派別に分ける)

11月28日

(漱石)

「十一月二十八日(月)、東京帝国大学文科大学で午前十時から十二時まで King Lear を講義する。

十一月二十九日(火)、東京帝国大学文科大学で午前十時から十二時まで King Lear を講義する。(講義終了)午後一時から三時まで「英文学概説」を講義する。英文学科学生に「読書心得」を話す。」

「「今日夏目先生は私達英文科の或るグループに対して『讀書心得』といふ事で次の箇條を掲げて諄々とお諭しになった。

一、西洋人の書いた書物を讀む時に必ず心得べき事は批評家の言を初めから聴かざる事

一、西洋人の書いた文學書を讀んで自分自身が興味を持った點があつたならば、その感じをどこ迄も尊重する事

一、讀書人は動もすれば多く讀めば読む程自己の貴きものを失つて著作家の奴隷になつてゆく虞れが多分に在るから、讀書を好む人は常にこの事を忘れないで堅く自分自身の心の品位を守つてゆく事」(金子健二『人間漱石』)

このなかで、「或るグループに対して」と述べているのは、具体的にはどんな集りであるか、よく分らぬ。」(荒正人、前掲書)

11月29日

午前0時30分、ロシア軍の逆襲。203高地西南部一部占領の後備第15連隊香月中佐部隊の第1線は全滅、第2散兵壕の維持がぜいぜい。東北部中腹の第1連隊は連隊長代理枝吉少佐が戦死。

午前2時、第1師団長松村少将は203高地・老虎溝山攻撃失敗を報告。乃木大将は、第7師団(大迫尚敏中将)に第1・7師団を指揮させて203高地攻略を決める。

11月29日

午後8時、満州軍参謀総長児玉大将、「第三軍司令官に代わり指揮可」との大山元帥の一札持ち烟台の総司令部を出発。


つづく

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