1905(明治38)年
〈1905年12月モスクワ武装蜂起④;ゼネスト突入期(12月7~8日)①〉
12月7日
正午を待たず、朝からモスクワ各地で自発的にスト突入。
工場は次々とスト入りし、工場労働者5万人が罷業。市電も朝から止まり、やがて全市が停電。電話は通じていたが、正午から電信・郵便は停止。ガスについては、厳寒の中、その停止を重大視した市当局がソヴィエト側とガス工場の稼動につき交渉に入る。
銀行金融機関の従業員代表者大会が開かれ、そこに出たソヴィエト代表は10日まで営業して、希望者に預金を引き出させることを主張し、それを私立銀行にとり破産行為とみる従業員たちと激しく対立した。
ソヴィエト執行委の決定。
①7日にゼネストに加わらなかった工場を8日朝、はぎとる(スト入りさせる)こと
②毎朝、工場集会のこと
③毎日、地区ソヴィエト集会でソヴィエト執行委の決定を伝えること
④毎日、全体集会のこと
⑤毎日、「イズヴェスチャ」を出すこと
⑥工場資産を労働者が管理すること
⑦喫茶店を条件付きで開けること
⑧消費組合店も同様のこと⑨スト中は労働者は部屋代を支払わぬこと
⑩工場の暖房に注意のこと。
12月7日
鉄道員たちは、この日、最大級の集会をもち、最も組織的な動きをみせた。
即日、モスクワ鉄道管理局のニコライ、リャザン=ウラル、キエフ=ヴォロネジの3線を除く全線がストに突入。最初のスト入りは、10月の時と同様に、モスクワ=カザン線で、同線のソヴィエトは官営鉄道全線、同盟全支部及び労働者ソヴィエトヘゼネストに合流すべく激を発した。但し、病院列車と極東からの帰還兵列車を通すこ、権力側の電報受け付けを拒否することを指示した。
全ロシア鉄道同盟中央ビュローと29路線協議会の名で、全国の駅、鉄道労働者職員にあてて、よびかけが出された。
12月7日
モスクワ守備隊当局は、前日6日に兵士の給料を少額上げ、酒と腸詰をふるまって、その慰撫に努め、7日朝、全守備隊に待機を命じて、歩兵1中隊余によりニコライ駅を占拠。
7日時点でモスクワ守備隊に配置されていたのは9歩兵連隊(ロストフ、キエフ、タヴリーダ、アストラハン等の連隊)、第3スムスキー竜騎兵連隊、第1ドン・カザーク連隊と第34カザーク連隊の4騎兵中隊、2工兵大隊、2擲弾兵大砲旅団とロストフ及びネスヴィージ両連隊に付属した3機関銃中隊であった(兵員総数は不詳)。守備隊当局は兵士の反乱から歩兵連隊に信をおけず、鎮圧に動員しうるとみたのは2,000名程。従って、当局は、鎮圧軍の補充を試み、早速ロストフ市から砲兵が差し向けられたが、道中、動揺が認められたため、カザークの厳しい監視の下におかれた。
12月7日
午後2時、11月24日にモスクワ総督に任命され、この4日に着任したばかりの中将ドゥバーソフはモスクワ市に非常事態宣言を出し、さらに深夜におよんで、連合ソヴィエトの主要活動家を逮捕した(「同盟」ペレヴェルゼフはそれを免れる)。
このため、全ロシア鉄道同盟中央ビュローは蜂起時にその姿を見せない。一方、29路線協議会は「中央ストライキ委員会」をつくるが、具体的動きをやはり見せない。
12月7日
協議会から戻ったペテルブルク鉄道管理局の代表たちに、ペテルブルク・ソヴィエトが工場側の準備の悪さを理由に、8日までスト突入を延期するよう依頼し、鉄道側が協議会決定を破って、それに同意。
12月7日
この夜、「情報ビュロー」の会合において、社会民主党側がエスエル側に軍事専門家の存否を訊ねたが、エスエルは彼らの軍事関係情報を述べることが出来ず、またそうしたくない様子であった。蜂起指導部の準備の悪さがみてとれる。
12月7日
夜には劇場も閉じられ、メイン・ストリートのトヴェーリ通り(現在のゴーリキー通り)の街灯は消えて警官の姿もなく、不気味な静寂が町を覆った。未明3時、バリシャーヤ・ルビャンカの武器店「ビトコフ」を10人程の一団が襲撃して、ピストル25丁を略奪した。
12月8日
ストは益々拡大。モスクワ全市が機能を停止。群集が官営施設従業員を「はぎ取り」、県出納局、各種裁判所は閉鎖。全ての私立銀行と大半の商店は閉鎖。女子学校は1月15日まで、男子学校は12月12日まで閉校、
工場では、朝に工場集会をやり、様々な政治問題を検討し、同時に可能な所では刀剣などの武器を準備し、集会終了後、自己の地区を歌と赤旗とともにデモし、商店・酒店を閉鎖して工場へ戻るパターン。
12月8日
この日、ソヴィエト執行委員会は、地区ソヴィエトを強化し、毎日召集せよ、工場集会をやり、蜂起にそなえよ、兵士と対話して公然たる衝突を避けよ、と指令を出した。
12月8日
正午、ダニーロフ・マニュファクチャア工場労働者がデモから戻ったところをカザーク・竜騎兵が襲撃して、負傷者十数名を出す。
12月8日
午後4時、ツィンデリ工場労働者、工場集会で工場側へ「全人民的な事業のたあの戦士」の解雇禁止と食糧支給を要求。その後、ギヴァルトフ発酵工場を「はぎ取る」ため代表8名を派遣したところ、カザークが襲撃。
12月8日
地区集会や一般市民も参加する集会が始まる。集会は革命党派の煽動の場でもあり、「勝利か死か」の言葉が飛び交い、「土地と自由」と染め抜かれた赤旗が振られる熱気につつまれていた。
ハモフニキ地区の集会には20工場から78代表者が出席し、ソヴィエト執行委の決定を検討する。
「一般技術教育博物館」では、終日幾つもの市民集会。政府官吏、国立銀行従業員、税関吏たちも独自な会合をもつ。
12月8日
夜、劇場「水族館」で3,000人規模の大集会。初めて本格的な軍隊出動があり、劇場は包囲されるが、ほとんどは隣接したコミサロフ技術学校等へ無事に脱出した。
12月8日
前日、兵士により占拠されたニコライ線が運行を続けていた。
12月8日
先月から先行していた郵便・電信ストはこの日に全く退潮し、中央郵便局は就業し出した。
12月8日
この日、ペテルブルクでのストが開始するが、モスクワ程の拡大を見せず、ペテルブルク鉄道管理局は動き、全てのターミナル駅は占拠した軍隊であふれており、10日にはストが下火になってしまう。
つづく

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