1905(明治38)年
〈1905年12月モスクワ武装蜂起⑤;ゼネスト突入期(12月7~8日)②〉
12月8日
〔プレスニャ地区の状況〕
プレスニャ=ハモフニキ地区ソヴィエト(プレスニャのモスクワ川対岸ハモフニキ地区は工場も少なく、労働組織が最もおくれ、革命3党派は拠点を持たない)の議長にプロホロフ(工場)労働者(エスエル)のバウリンが、同書記にガルヴィが就き、代議員数は60~70人規模であった。
プレスニャ地区ソヴィエト拡大会議では、12月6日の全市ソヴィエトの決定は何の動揺も与えなかった。しかし、地区ソヴィエトのエスエル代表マルトゥイノブは、革命家としてこの決定は不可避だと思うが、「部隊」はまだ弱体で、武装は悪く、農民は全体として革命に登場しておらず、彼らなしには労働者も革命的インテリゲンツイヤも勝利はおぼつかないであろう、と述べた。
プロホロフ労働者(エスエル)・クラスノブの回想によれば、この日、近くの医師の所で、プレスニャとハモフニキの「協議会」(プレスニャ地区ソヴェト拡大会議と同じか?)があり、工場、鉄道、軍関係、郵便などから代表者が出席し、9日朝のスト開始を決める。
(モスクワ蜂起では最後まで孤立した闘いを継続するプレスニャ地区のスト開始は、他地区より遅れていた)。
〈プレスニャ地区〉
プレスニャ地区は、モスクワ市西部周縁に位置しその南端部をモスクワ川に接した新開拓地で、同市の工場地区の一つであるが、労働者千人以上の工場は「トリョフゴールナヤ・プロホロフスカヤ綿工場」(以下、プロホロフ(工場))のみで、最も発展が遅れていた地区の一つでもあった。
プレスニャにおける闘争で中心に位置したプロホロフ労働者の相貌については、彼らと農村の繋がりが指摘されている。良く知られるロシコーヴァはプロホロフ労働者数が夏季に減少する事実を指摘して、彼らと土地(農村)との繋がりを言う。また、チャアダーエヴァも工場宿舎は農村と大なり小なり堅固な現実的結合を保ち、農民と工場労働者を区別しえないとしている。
プロホロフ工場がエスエルの「巣窟」ないし「要塞」であったと指摘されているが、エスエルは特に織布部門労働者に強固な支持基盤を有していた。社会民主党側は1905年6月末にプレスニャ地区をメンシェヴィキが担当するという「勢力分割」をやったという指摘があり、蜂起時にボリシェヴィキ・モスクワ委員会の指令でプロホロフ工場に乗り込んだりトヴィン=セドイは、そこでは自分がおそらく初あてのボリシェヴィキであったろうと回想している。"
プロホロフ工場労働者でエスエル系とみなされる者の回想。
①ククリョーフ(グサーロブ);モスクワ県ブロンニッイ郡の無土地兵士の家に生まれ、織工としてオレホヴォ=ズエヴォのモロゾフ綿工場に入った後、1897年にプロホロフに転職した。習慣的にエスエル組織で働いたが、政党について真の理解はなかった。社会民主党系は製版部門にいたが組織は弱かった。私はテロルを気に入っていた。人間というものは戦闘的であり、このことを悪いとは思わなかった。農民には共感的に対応しようと考えていた。彼らは飢えており、労働者は彼らより良い住らしをしていた。
②モロゾフ;1877年、ヴラジーミル県ユリエフポーリスキー郡の農家に生まれたが、兄弟は工場へ出て、彼は牧夫として賃稼ぎし、14才でオレポヴォのヴィクーラ・モロゾフ綿工場に入り、更に織工としてプロホロフへ移った。当時〔1902~03年段階)、大半の労働者と同様に政党について全く理解していなかったが、我々の知識欲は巨大であった。勿論、我々労働者は理論家でなく、単に実践家=革命家であった。ストが労働者階級の生活改善に有効だと言われれば、我々はそれに同意した。我々には社会民主党が言うのかエスエルが言うのか区別がつかなかった。それら綱領の相違など理解出来ず、ただ革命を望んでいた。いつも農民の意義を高く評価し、同時にテロルに強くひかれていた。当時の労働者はその多くが強く農村と結びついていて、復活祭になるとモスクワに残る労働者は大変まれで、大半は農村へ行ってしまった。労働者は土地問題の解決に関心があり、エスエルが土地を耕す者にそれを直接渡すというのはアピールした。エスエルと社会民主党の対立が理解しえず、我々は団結を望んでいた。
③モロゾーヴァ(ブイコーヴァ);1877年、モスクワ県コロムナ郡の農民身分出身で、近隣村の繊維工場で織工をしたのち、1902年プロホロフに織工とし入る。復活祭だけでなく、夏の草刈り期に農村との往復をやっていた。1905年、どの政党といったことは考えなかった。ボリシェヴィキの言葉を最初に聞いたのは1917年のことで、1905年には党派とはなく、全ては一つのように、我々の所では「土地と自由」であった。
④バーブキン;1884年、カルーガ県ジズドリンスキー郡に生まれ、プロホロフの工学校に入学。1904年初め、エスエルの学生と会い、彼らの集会に出た。社会民主党のことは後に知ったが、綱領は私を満足させなかった。エスエルの綱領は労働者と農民の利益により近いと思われた。テロルに共感し、1906年には自分でそれに参加したいと望んだ。
⑤ディヤチコフ;1870年、モスクワ県タリン郡の生まれで、1895年プロホロフに入る。エスエルにひかれた理由は、彼らはより根気強く、土地のために彼らが好きになった。
⑥ドゥダーレフ;1870年、モスクワ県モジャイスク郡の紡績工場労働者を父に生まれ、11才で同工場に入ったが、1885年の「ズエヴォの反乱」後、解雇された。その後、スモレンスク県、モスクワ市、郊外での労働を経由して、1892年に織工としてプロホロフに入る。そして、日曜学校に通い出して、社会民主党の2人と会い、共感したが、その後、モスクワ市内でより引かれるエスエルと出会った。
これら6人のエスエルに共感したプロホロフ工場労働者の共通のプロフィールは、社会的出自がモスクワ近郊(周辺)の農村出身で、そことの関係を保っており、年少期から繊維工場労働に従事していて、すでに幾つかの争議をプロホロフ就職以前に経験していたこと、そして党派性の観念を確立させることなく(あるいはそれが出来ずに)、いわば感覚的にエスエルにひかれていたことである。
蜂起以前のプレスニャにおける闘争
蜂起以前(11月中旬か)、プロホロフでも全市ソヴェト代議員の選出された。選出をリードしたのはメンシェヴィキとエスエルであり、同工場の各作業場毎に代表を選出し、その中から13人をソヴェト代議員とした。
メンシェヴィキのガルヴィの回想;事態がソヴェトの選出まで行った時、我々(メンシェヴィキ)は「無学な田舎者」(プロホロフ労働者を意味する)の間での純粋に労働組合的な問題における巨大な影響力を行使して、同時に「工場委員会」も選出することを決めた。そうすることで「工場憲法」の根本をおこうとした。影響力がある同工場労働者の小集会で、我々は工場代議員に関する規約をモスクワの印刷工労組が作成したものを参考にしてつくった。それは労働者民主主義の精神で貫かれていた。工場大食堂に3,000人が集まり、私はまずソヴィエトの革命的役割から話した。モスクワではソヴィエトの創出がおさえられてきた。全市及び地区ソヴィエトをつくろう、と。次いで、工場では経営者の専制を「工場憲法」で取り替えるべきだといった。その機関が「工場委員会」だ。これに対して、労働者は逐一賛成した。エスエルの労働者でさえ、私に説明と支援を求めてきた。そして、選出が行なわれた。まだリベラルであった工場主プロホロフは「労働者議会」に対して場所を提供した。「工場憲法」は12月蜂起まで全く中断することなく機能した。
蜂起以前のかなり早い段階で、すでにプロホロフ労働者たちが革命的な道に歩み出していた。
つづく

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