2021年1月26日火曜日

森まゆみ『子規の音』(明治34年以降)(メモ2)「正岡子規が根岸にいた時分、道を挟んで隣に、この八石教会があったことを忘れたくない。.....いったいに、根岸は旧幕の気分が漂っている所で.....。(略)子規はこんな町に病身を横たえ、八石教会の拍子木を聞いていた。」   

森まゆみ『子規の音』(明治34年以降)(メモ1)「.....子規のこの年九月九日の句がある。 八石ノ拍子木嶋ルヤ虫ノ声 これは面白い。八石教会というのは上根岸百二十六番地、子規庵と鶯横町で隔てられた明治の不思議な教団である。幕末の農業思想家、大原幽学の衣鉢を継ぐものという。.....幽学が幕府の弾圧で切腹したのち、同志が金を出しあい設立した。」

より続く

森まゆみ『子規の音』(明治34年以降)(メモ2)

正岡子規が根岸にいた時分、道を挟んで隣に、この八石教会があったことを忘れたくない。子規はそれ以上書いていないけれども。いったいに、根岸は旧幕の気分が漂っている所で、上野東照宮では彰義隊の幹部で、足の怪我のため上野戦争の当日、上野に入れなかった本多晋(すすむ)が宮司を務め、長く上野でなくなった同志を弔い、榎本武揚などもよく来たという。

根岸の八石教会は子規の死後、明治の末にこの石毛老人の死去により急速に勢力が衰えた。子規の隣のりっぱな石毛邸もなくなった。そこの人々は茶道をしたり、夜には拍子木を打っていたのだろうか。画家谷文晁の末裔のおけいさんという女性や、木内重四郎の父も教会員だったという。下田は慶応義塾を出て、時事新報記者、その後大阪毎日新聞社の幹部となった。昭和五年刊の『東京と大阪』では、大正期、郊外住宅地としての日暮里渡辺町の形成によって佐竹屋敷あとの信者たちは跡形もなく消えたと述べている。


子規はこんな町に病身を横たえ、八石教会の拍子木を聞いていた。

もちろん、「墨汁一滴」には病床の絶望を語る言葉もある。

「せめては一時間なりとも苦痛無く安らかに臥し得ば如何に嬉しからん、とはきのう今日の我希望なり。・・・・・希望の零となる時期、釈迦は之を涅槃(ねはん)といい耶蘇は之を救いとやいうらん」(一月三十一日)

「背痛み、臀痛み、横腹痛む」(二月三日)。

二月一日、松山中学五友のひとり、竹村鍛(きとう)(黄塔)が肺結核で死去した。神戸病院で病む子規の世話をしてくれた友が先に逝った。

二月七日の『墨汁一滴』は彼が一生の事業として字書編纂を企てていたことを語る。「されど資力無くしては此種の大事業を成就し得ざるを以て彼は字書編纂の約束を以て一時書肆冨山房に入りしかど教科書の事務に忙殺せられて志を遂ぐる能わず」「我旧師河東静渓先生に五子あり。黄塔は其第三子なり。出でて竹村氏を嗣ぐ。第四子は可全。第五子は碧梧桐。黄塔三子あり皆幼」

まるで墓石の履歴のような文、最後に万斛(ばんこく)の涙がありながら、客観を失っていない。

文体は文語も口語も駆使し自在である。二月十三日、包帯の取り替えの苦病を紛らわすため、新聞か雑誌を読む。

「昔関羽の絵を見たのに、関羽が片手に外科の手術を受けながら本を読んで居たので、手術も痛いであろうに平気で本を読んで居る処を見ると関羽は馬鹿に強い人だと小供心にひどく感心して居たのであった。ナアニ今考えて見ると関羽も矢張読書でもって痛さをごまみして居たのに違いない」

これにはあとで読書でなく、囲碁であったと訂正がはいる。

「二月廿八日 暗。朝六時半病牀眠起。家人暖炉を焚く。新聞を見る。昨日帝国議会停会を命ぜられし時の記事あり。繃帯を取りかう。粥二碗を啜る。梅の俳句を閲(けみ)す」

この日、子規宅に、左千夫が釜を運び、麓は軸を携え、子規のために初めての懐石料理を整え茶会を催した。


氷解けて水の流るゝ音すなり


毎日毎日、子規は日常と、胸に去来することを忌陣なく「墨汁一滴」に書き続けた。「元老の死にそうで死なぬ不平」もあれば、新聞雑誌の投稿句に剽窃が多いことへの批判もある。六つになる隣の女の子、陸羯南の娘の描いた絵を家の者が持ってきたので筆を加え、合作にして菓子を付けてやったりする。「うれしくてたまらぬ」(三月十四日)。すべての楽しみと自由が奪い去られ残ったのは「飲食の楽と執筆の自由」のみ。

筆は鈍らない。露伴の『二日物語』について「露伴がこんなまずい文章(趣向にあらず)を作ったかと驚いた」と断じ、落合直文の「明星」掲載の歌を批判する。


舞姫が底にうつして絵扇の影見てをるよ加茂の河水


「『見てをるよ』というも少しいかがわしき言葉にて『そうかよ』と悪洒落でもいい度くなるなり」(三月三十一日)。知人でも容赦がない。このころ蓄音機を持ってきたものがあって、初めてレコードを聞いた。一方体調が思うに任せず、左の肺の中では絶えずブツブツいう音が聞こえる。子規は体力尽きて「ホトトギス」の俳句の選者を降板した。

四月二十八日、子規は藤の花の歌十首を掲載。


瓶にさす藤の花ぶさみじかければたゝみの上にとゞかざりけり


この本の冒頭に述べたが、寝ている子規ならではの視線である。

畳といえば、横になる子規が霞返りをうてるようにと、天井からの力綱の他に、畳の縁に麻の輪を取り付けた。来客などあって、包帯の取り替えが行われないと、翌日は膿が大量に流れ出、包帯と一緒に皮膚が剥がれてきた。子規は悲鳴を上げて泣いた。


佐保神の別れかなしも来ん春にふたゝび蓬はんわれならなくに

いちはつの花咲きいでゝ我目には今年ばかりの春行水んとす


自分に再び春がめぐり来ることはあるまい。子規は花を鳥を虫を雪を季節の区切として生きていた。

五月半ば、「今日は朝から太鼓がドンドンと鳴って居る。根岸のお祭なんである」。三島神社の祭礼、また一つの行事がめぐりくるまで生きていたことの嬉しさ。

五月と六月の「ホトトギス」にはロンドンの漱石からの報告が載った。「倫敦消息」は「子規の病気を慰めんがため」に、子規に向ってのみ書かれたように見える。この頃、子規庵を訪ねれば、苦しい、痛い、の他は死ぬ話ばかりで、伊藤左千夫も閉口した。それでも寂しがりやの子規は、誰も来ない日には「ヒマナラスグコイ」という電報を左千夫や虚子宛に打たせるのであった。

いつのことかわからないが、子規庵で談論風発の後、母のいとこの三並良(みなみはじめ)が、暇乞いをして立ち上がるのを、子規は「良さん、もう少しいておくれよ。お前が帰るとそこが空っぽになるじゃないか」と言った。せっかく集まって楽しい時間を過ごしたのに、一人一人と客が帰っていくのを子規はとても怖がった。あとは八重と律の女二人しか残らない。

六月、根岸の藤寺横町に住んでいた中村不折も、横浜からヨーロッパに旅立った。


つづく



予算委員会議長バーニー。財政調整措置発動!😆 (お前昔批判したじゃないか、との共和党に) 「今日食べるものもない子供や老人を早く救うための措置を批判したいならしたらいい。あなた達が使った時は富裕層への援助でした。私も使います。一般の国民を守るために。」   


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2021年1月25日月曜日

今季ようやく出現した冠雪富士山 七里ガ浜 稲村ケ崎 鶴岡八幡宮のオオカンザクラ 2021-01-25

 1月25日(月)、はれ

今日は漸く冠雪富士山が出現とのことで、七里ガ浜~稲村ケ崎へ行った。

鎌倉で大巧寺、本覚寺、鶴岡八幡宮にも立ち寄りたかったので、往路の鎌倉~七里ガ浜、帰路の稲村ケ崎~鎌倉は江ノ電を利用した。江ノ電はガラガラ。

今日の総歩数は1万6千歩。

▼七里ガ浜



▼稲村ケ崎
それ程の強風とは思えなかったが、波は高かった。



▼鶴岡八幡宮の大寒桜



【図解】新型コロナ:世界各国のワクチン接種状況;【1月19日 AFP】AFPが日本時間18日午後7時半にまとめた統計によると、世界で接種された新型コロナウイルスのワクチンは4000万本を超えた。 ← 日本の遅れ! 「6月見込み」ではなく「6月目指す」と ← 全くアカンレベルのスガ内閣の政権担当能力  

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岡本あき子議員(衆院予算委1/25)「(小学生の言葉として)給食の時もコロナ感染症の為におしゃべりも禁止…黙って給食を…一生懸命我慢をしているのに大人はどうして楽しくご飯を食べていいのか…」 / 小6の疑問「大人はどうして楽しくご飯?」に首相の一言(朝日); 首相は「大変申し訳ない思いでいっぱいだ。安心して過ごせるそうした日常を取り戻すことができるように頑張っていきたい」と応じた。(またいつものように、答えずにはぐらかした)     

「Go Toトラベル」感染者増加に影響か 京都大学のグループ発表(NHK);「政府の観光需要の喚起策「Go Toトラベル」が始まった去年7月、旅行に関連した新型コロナウイルスの感染者が増えていて、キャンペーンが当初の段階で影響した可能性があるとする研究論文を京都大学のグループが発表しました。」

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2021年1月24日日曜日

【点描・永田町】不安と不信の「緊急事態再宣言」(時事);「就任4カ月、発信力不足を指摘されてきた首相だけに、年明け以降は連続的にテレビ出演を重ねているが、「出るたびに不信を招く“自滅の刃”」(自民長老)にも見える。現状の「神頼みのような対応」(同)を続ければ、3月にも政権危機に陥りかねないのが実態だ」 ← ”自滅の刃”にザブトン10枚! / 内閣支持率33%に続落、不支持45% 無党派層で急落(朝日)      

 



 

コロナ宿泊療養者の食事について国から予算が手当てされており、一食1500円、一日4500円上限 にも関わらず、大阪では一食300円にも満たないような内容の粗末な食事しか提供されないのはどういう事だろう!? / ネットで他府県と比べて見たら、大阪の見劣りが酷かった.....      

 

森まゆみ『子規の音』(明治34年以降)(メモ1)「.....子規のこの年九月九日の句がある。 八石ノ拍子木嶋ルヤ虫ノ声 これは面白い。八石教会というのは上根岸百二十六番地、子規庵と鶯横町で隔てられた明治の不思議な教団である。幕末の農業思想家、大原幽学の衣鉢を継ぐものという。.....幽学が幕府の弾圧で切腹したのち、同志が金を出しあい設立した。」   

漱石の略年表作りをボチボチ進めているが、漱石の伴走者として漱石と同年令の子規の足跡も併せて追いかけている。

順不同になってしまうけれど、昨年末よりふとしたことで子規の晩年についてのノートを始めている。

「サナクトモ時々起ラウトスル自殺熱ハムラゝゝト起ツテ来夕、、、、、死ハ恐ロシクハナイノデアルガ苦ガ恐ロシイノダ病苦デサへ堪へキレヌニ此上死ニソコナツテハト思フノガ恐ロシイ、、、、」(明治34年10月13日付け正岡子規『仰臥漫録』)

早坂暁「子規とその妹、正岡律 - 最強にして最良の看護人」を読む(メモ4終)「何度となく、死の淵に立った私は、そのたびに『仰臥漫録』を手に取り、力をもらったと考えている。 そうです、最後の最後に私の杖になり支えてくれているのが、『仰臥漫録』なのです。」

松永昌三『中江兆民評伝』(岩波書店) 第八章 ”一年有半”の世界(メモ6終)「子規の叔父加藤恒忠(拓川、一八五九-一九二三)は、第四章第三節で述べたように仏学塾に学んだことがある。加藤は、陸羯南・原敬らと司法省法学校の同期で、同校を退学処分になった一八七九(明治一二)年二月直後から八三年フランス遊学に出発するまでの四年間、仏学塾に在塾していたようだ(『拓川集 日記』)。この加藤からの依頼で、陸が子規の面倒をみるようになったのである(司馬遼太郎『ひとびとの跫音』)。子規は、兆民に対して、多少の思い入れがあったと思われる。」

関川夏央『子規、最後の八年』「明治三十四年」以降(メモ17終)「子規遺品は一度著作権継承者正岡忠三郎のものとなったのち、まとめて国会図書館に寄贈された。ひきつづき保存会の所有となった子規庵は、昭和二十七年十二月、東京都の文化史蹟に指定され、鼠骨没後の維持が約束された。鼠骨の努力は無とならなかったのである。」

井上泰至『正岡子規-俳句あり則ち日本文学あり-』(明治34年以降)(メモ9)「.....子規の悪口を自分への叱咤激励と心得て、.....『吾輩は猫である』を子規への手紙代わりに、その心の慰めにしよう、と言う。」 「要するに、子規の絶筆の滑稽も、『吾輩は猫である』のそれも、縁つづきだと言いたいのである。.....『吾輩は猫である』は、子規との滑稽を含んだ交際の中から生まれたものだ、と言いたいらしい。俺が作家になっちまったのは、お前のせいだといった口調である。」

日下徳一『子規断章 漱石と虚子』(晩年の子規に関するメモ)(メモ13終)「紅緑は後に子規から《敏捷にして馬の如し》(「明治二十九年の俳句界」)といわれたように奔放で波瀾に満ちた人生を送ることになる。.....子親には心配のかけ通しで、よく叱られた。それでも紅緑は生涯子規を命の恩人として尊敬して、.....話が子規のことに及ぶと先ず居住まいを正して、時には涙を浮かべながら語ったという。愛子は.....父が、子規のことになると「しきせんせい、しきせんせい」というのが不思議でならなかった。」

で、今回からは、森まゆみ著『子規の音』(新潮社)の子規晩年(子規没の前年;明治34年以降)に関わる部分のノートに入る。

まず、本書の全体像を知るために目次を示す。

《目次》

はじめに   

一 松山の人 慶応三年~明治十六年  

二 東京転々 明治十六~十九年  

三 神田界隈 明治二十年  

四 向島月香楼 明治二十一年  

五 本郷常盤会寄宿舎 明治二十二年  

六 ベースボールとつくし採り 明治二十三年  

七 菅笠の旅 明治二十四年  

八 谷中天王寺町二十一番地 明治二十五年

九 下谷区上根岸八十八番地 明治二十五年

十 神田雉子町・日本新聞社 明治二十六年

十一 その人の足あとふめば風薫る 明治二十六年夏 

十二 はて知らずの記 宮城編 明治二十六年夏  

十三 はて知らずの記 仙台・山形編 明治二十六年夏 

十四 はて知らずの記 最上川・秋田編 明治二十六年夏 

十五 「小日本」と中村不折 明治二十七年

十六 根岸農村風景 明治二十七年後半 

十七 日清戦争従軍 明治二十八年  

十八 神戸病院から須磨保養院 明治二十八年夏 

十九 虚子と碧梧桐そして紅緑 明治二十九年 

二十 海嘯 三陸大津波 明治二十九年 

二十一 「ほととぎす」創刊 明治三十年 

二十二 短歌革新 明治三十一年

二十三 隣の女の子 明治三十二年 

二十四 和歌に痩せ俳句に痩せぬ夏男 明治三十三年 

二十五 八石教会 明治三十四年 

二十六 へちま咲く 明治三十五年 

あとがき 

参考文献 


二十五 八石教会 明治三十四年

・・・・・慶応三(一八六七)年生れの子規は明治三十四(一九〇一)年の春を、根岸で数え三十五歳で迎えた。・・・・・明治三十四年は一九〇一年、二十世紀の幕開けの年である。
(略)

元旦には物理学徒寺田寅彦が来た。二日には俳句の弟子、河東碧梧桐が来た。
七日、歌の弟子、岡麓(ふもと)が子規を慰めようと、春の七草を竹の籠に植えてもってきた。この間、年賀状を貰ったり害いたりして子規の時間は過ぎる。
十三日、横腹に疼痛を覚え、長いものが書けないので、一日二十行以内に文言短文を書いて、日本新聞社に送ることにする。これを「墨汁一滴」と題す。この日は輪飾りのことを書いてみた。
翌十四日には岡麓がくれた七草の籠について書いた。芹、薺(なずな)、五行、田平子(たひらこ)、鈴菜(小松菜のたぐいならん)、鈴白(赤蕪)、仏の座のかわりに亀の座とあるのは縁喜物をつくる植木師の心遣いであろう、とある。

あら玉の年のはじめの七くさを籠に植ゑて来し病めるわがため

「墨汁一滴」の最初の稿が思ったように一月十五日に掲載されなかったので子規はがっかりした。「何も嫌だ。新聞も読みたくない」と子規はいった。翌十六日より掲載。安堵した。七月二日まで百六十四回続くことになる。十八日の掲載は興味深い。
「此頃根岸倶楽部より出版せられたる根岸の地図は大槻博士の製作に係り、地理の細精に考証の確実なるのみならず我等根岸人に取りてはいと面白く趣ある者なり。我等の住みたる処は今鶯横町といえど昔は狸横町といえりとそ」。
(略)
さて、大槻文彦の地図の子規の家の近くに、八石教会と書いてある。四半世紀前から気になっている子規のこの年九月九日の句がある。

八石ノ拍子木嶋ルヤ虫ノ声

これは面白い。八石教会というのは上根岸百二十六番地、子規庵と鶯横町で隔てられた明治の不思議な教団である。幕末の農業思想家、大原幽学の衣鉢を継ぐものという。幽学は寛政に生まれ、諸国を流浪して、神道、仏教、儒教を一体とする「性学」を開いた。下総国香取郡長部村の農業振興を頼まれ、日本初の農業協同組合といえる先祖株組合を設立した。幽学が幕府の弾圧で切腹したのち、同志が金を出しあい設立した。
「教会の人はどこに行くにも決して汽車や人力車を用いない。どこまででも徒歩で行く。また髪を決して刈らない。どんな小さな子どもでも皆まげを結っていた。会員は主に農業についていたが、中には大工もあれば左官もあり植木屋もあって、これらの人たちは冬こそその職に忠実に働くが、その収入は全部教会に納めて一銭も私しない。魚は食うが肉は食わない。無論洋傘や外套を用いない。つまり明治になってからの文明は殆ど取り入れていない世にも変わった団体であった」(藤井浩祐「上野近辺」『大東京繁昌記・山手篇』) 
反文明開化路線、アメリカでいうとアーミッシュやシェーカーのようなものであろうか。・・・・・
藤井浩祐は東京美術学校を出た彫刻家で、帝国美術院会員になったが、今では忘れられた。若いころは日暮里に住んでいた。同じくジャーナリストの下田将美も子供の頃見た八石教会について書いている。長いので要約したい。
創始者は遠藤良左衛門(亮規)といって「二宮尊徳そのままの人格者」である。下総の長部村字八石という小さな村に慶応年間、性学八石教会として発祥し、両総(上総、下総)に信者が多かった。「働け働け」「粗衣粗食に甘んじる」「他人のために尽くす」のが主眼で、説教を聞く間も手を動かし、生産物は平等に分けた・・・・・。なんだか引力がある解説だ。
それが東京にも広まって、根岸の「笹乃雪」付近と日暮里の佐竹の下屋敷を中心として明治十四、十五(一八八一、八二)年にはすばらしい勢いになっていた。守旧であっても彼らの平和主義に明治政府は弾圧の手を伸せなかった。佐竹の原は今の道灌山の開成学園のある辺から田端にかけて(現在の荒川区西日暮里四丁目)、ここに信者の家が多く、皆黒い綿服を着、男はちょんまげを結い、女は同じ櫛を付けていた。彼らは熱心に炭団をこね、干していた。それを子どものころ下田将美は珍しいものに眺めた。
根岸には東京の八石教会の取締、石毛源左衛門という長老がいた。
彼が東海道石部の椿の教会支部に出かけるとき、東海道線がすでに通っているのに、山駕籠でいったそうである。
女は髪に真鍮のかんざしに黒檀の櫛と笄(こうがい)を飾り、それは皆池之端の「川しまや」に注文していた。
そこの主人は生粋の江戸っ子で、こう述べていたという。
「何しろ昔風の山駕籠に石毛先生がのってそれをかついでいる人が皆丁髷(ちよんまげ)の黒い綿服に脚絆(きやはん)穿(ば)きなのですからずいぶん人の目にも立つ奇妙な格好なものでした。石毛先生はもういい年でして無論ちょんまげ、懐には、昔を忘れぬ懐剣が何か一本ぶち込んでいるのです。・・・・・とにかくかわっていましたな、いったいこの八石教会の人には旧幕時代を憧れた人が多かったようでしたね」(下田将美『東京と大阪』)


つづく