2009年12月6日日曜日

明治17(1884)年11月3日 秩父困民軍自壊の道 困民党、大宮郷を出る 皆野村占領

明治17(1884)年11月3日 秩父困民軍自壊の道
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(これまでのあらすじ)
11月2日、困民軍は大宮郷を無血占領、一種のコミューン状況が現出。困民軍は田代栄助の指揮の下に高利貸し打毀し、軍資金・武器の調達を進める。
一方、官憲側は、三条太政大臣の通行警備の為、県警トップは不在。この間、各警察署長(警部補、山口県士族が多い)は夫々少ない巡査を率い連絡をとりつつ困民軍討伐に深い入りし、数でも装備でも劣る警察隊は手痛い敗北を喫する。
彼ら警察署長らの報告を受けた埼玉県警鎌田警部(国事担当)は、三条の警備もそこそこにして現場に走り、ついで埼玉県警トップの江夏警部長(県警本部長)も現地に入り陣頭指揮を行う。
そして遂に憲兵隊出動の決定が下る。
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11月3日
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▼困民軍崩壊の道を歩み始める
この日以降、官憲侵攻を伝える虚報に惑わされ内部に混乱が生じる。
栄助の指示を待つ事なく、誤報によって、加藤織平・新井周三郎率いる甲隊は、武の鼻の渡しを離れ下吉田村へ出発。
また、菊池貫平・飯塚森蔵指揮の乙隊は、大野原村愛宕神社を措いて皆野村に向かう。
栄助は、加藤織平・菊池貫平に不快を感じながら、乙隊の後を追って皆野へ至り角屋に入る。
栄助は、3日午後3時頃、皆野を出て、4日午前10頃、角屋へ戻るまで、20時間近く戦列を離れる。
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憲兵隊第一陣出動
午前1時40分、東京憲兵隊四ツ谷分屯署長隈元憲兵少尉の1個小隊(70名程度)、上野発。春田憲兵少佐同伴。浦和で吉田県令が乗車。午前4時、熊谷着。午前9時30分、寄居町に進出。
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・「午前四時ヨリ当店兵食ノ焚出シヲナス」(矢尾利兵衛「秩父暴動事件概略」)。
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・午前4時頃、群馬県に近い矢納村より「憲兵隊及び巡査大勢来り、矢納村ニ於テ夕飯ヲ喫シ居レリ、多分払暁迄ニ当郷へ繰込ミ相成ベシ」との伝令(憲兵隊は誤報、群馬県警偵察隊のこと)。
栄助は、甲乙丙3隊各600程度を編成(鉄砲隊も250を3分)
①甲隊(副総理加藤織平・甲大隊長新井周三郎・大野苗吉指揮)は荒川の竹の鼻渡し場を固めて小鹿野・吉田方面に備える。
②乙隊(参謀長菊池貫平・乙大隊長飯塚森蔵指揮)は大野原村に進出、愛宕神社に陣を取り皆野方面に備える。
③丙隊(落合寅市指揮)は予備隊として大宮郷に控える。
総理田代栄助は、会計長井上伝蔵・会計副長宮川津盛・軍用金集方柴岡熊吉・小荷駄方小柏常次郎・伝令使門平惣平ら幹部と大宮に。
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この時、田代栄助は、「竹槍ヲ除キ鉄砲隊及ビ抜刀隊へ手当トシテ一人ニ付金壱円」の割合で、飯塚森蔵と落合寅市に各500円、門平惣平300円、新井周三郎100円を分配(「田代栄助訊問調書」)。
また、買い集めた弾薬は大宮郷に留め置き、「何レノ口ヨリ受取リニ来ルモ、渡方ニ差支ナキ様」にする(「新井庄蔵訊問調書」)。
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「三日、午前七時頃兇徒等大概兵粮ヲ喫シ終り、追々皆野村へ進軍ス、又隊ヲ分ケ竹ノ鼻口エ固ムルアリ、或ハ入方へ人足ヲ駆リニ行アリ、或ハ名栗村ノ方吾野ノ方へ人足ヲ集ニ行アリ、兇徒等追々繰出セシニツキ市中稍々静カナリ、然レドモ秩父神社境内ヨリ市中所々ニ残徒共未ダ散在セリ、該党幹事二名帳元へ来り、皆野村ニテ官兵卜接戦ノ時ハ本店ニテ兵粮ノ焚出シヲ依頼スルトテ、金拾五円ヲ其手当トシテ預ケ置ケリ、其後二、三時間ヲ過ギテ、最早其義ニ及バズトテ、金員ヲ取戻シニ来レリ」(矢尾利兵衛「秩父暴動事件概略」)。
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大宮郷を中心とする守備体勢をとり、挙兵の長期維持を企図する消極的戦略に見える。
しかし、甲隊(加藤織平・新井周三郎)は下吉田へ、乙隊(菊池貫平・飯塚森蔵)は皆野に向う。
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・午前5時、川越警察署長岡田警部は、県庁笹田少書記官に川越士族募集申請。笹田は50名程度の士族巡査臨時募集指示。3時間程で52名が応募。この日中に飯能(45名)、小川口(7名)に向う
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・午前6時、埼玉県首脳部、内務卿に対し警視庁巡査70名の浦和派遣を要請、却下される。中央は川越を重視する。
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東京鎮台参謀高井少佐は、笹田書記官に対し、「内務卿ハ川越地方ノ事最モ懸念ナリ、一端此ニ及プトキハ害又少々ニアラズ、注意スべキ事云々 スデニ派遣スべキ(鎮台兵ノ)隊名モ定マリ居レリ」と語る。
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・午前7時、甲・乙隊、大宮郷を出る。
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・午前8時20分、埼玉県令(知事)吉田清英(44)、兵事課長二等属村田譲吉と共に寄居町に進出、現地の直接指揮に当たる。
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吉田清英:
鹿児島県士族、埼玉県令。明治元年、初め鎮撫使西園寺公望に随い山陰道を進むが、江戸進攻にあたっては北陸道を進撃、越後の長岡城攻撃での武功を認められ、「北陸道総大小荷駄方」(兵站軍需品の大荷駄(兵器・弾薬)と小荷駄(糧株・医薬品)の調達・輸送の総指揮)に任ぜられる。
その後、東京府、酒田県(山形県の一部)勤務を経て、9年埼玉県権参事、15年3月書記官、白根県令病没後、県令に就任。県令退職後は本庄町に住んで蚕糸業の発展に尽す。
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・午前9時、竹の鼻の甲隊(織平・周三郎)、憲兵隊・巡査が吉田村に入るとの情報(誤報)に、荒川を渡り前日と逆のコースで小鹿野峠を越える。
下小鹿野村で高利貸高橋金平を襲い、小鹿野には自衛組織が出来ているためこれを避け、東に向かい午後4時、下吉田村入り。ここでも高利貸須藤弥平を脅迫して400円を奪い、午後6時頃大田村入りし、高利貸富田儀一郎を襲い、野巻村~大淵村に入る(田中千弥「秩父暴動雑録」)。
午後11時頃、昼に襲った下吉田の高利貸須藤弥平を再度襲う。
東京憲兵隊70余が矢納入りとの情報で、新井周三郎は島崎嘉四郎と新井悌次郎に夫々250を与え、日野沢と石間から矢納挟撃をさせる。嘉四郎はこの地方でゲリラ的に大活躍する。
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この日、下吉田村で狩り出し、甲隊は1千人以上に膨れる。
井上耕地で「暴徒」の一手の大将とみられる竹内牧太郎(25、下吉田村)と飯塚健次が、貴布禰神社の前で呼びかけ。
「吾輩既ニ国ノ為ニ兵端ヲ開キ、戸長役場又大宮警察署及裁判所ヲ破壊シ、其書類ヲ焼キ棄タリ、官衙ヲ毀損スル既ニ政府ニ抗スルナリ、軍敗レバ必ズ厳刑ニ処セラルベシ、衆此意ヲ得テヨク力ヲ尽シ、必勝ヲ期セヨ」と呼びかけ、小旗を振って「後レテハ卑怯ナルゾ、進メヤ進メ」と号令、「エイエイヲゝ」と鯨波をつくって押し出す。
この時の竹内・飯塚について、田中千弥「秩父暴動雑録」には、「三日、竹内牧太郎・飯塚健次等井上ニ来り、父母妻子へ暇乞ヲナシ」とあり、役割表に名を連ねていない一般農民兵のこの蜂起にかける気概が窺える。
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乙隊(貫平・森蔵)は、熊谷に一揆起こり寄居・野上警察署破壊、熊谷まで遮るものなしとの誤報を信じ大野原を出発。黒谷村を経て、9時頃、皆野に侵入、県警の本部であった角屋に本陣をおく。
沿道では狩り出しを行い、裕福な家からは金銭・刀剣を強奪。午前10時、栄助一行も皆野の本陣に到着。皆野に集まった銃砲隊は70~80名で、ここから対岸に渡る3つの渡し場に抜刀隊と共に配置される。
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●皆野占領
皆野村は戸数381戸、人口1,800余。1日夜、警察本部は撤退。
戸長役場の記録による皆野村襲撃の様子。
「十一月三日午前七時頃、三人ノ暴徒、羽織袴ヲ着シ、白木綿ノ鉢巻ニテ脇差及ビ槍ヲ携帯シ釆リテ、交番所及ビ民家二戸ヲ破壊シタリ、暫時ニシテ一人ハ車ヲ雇ヒ大宮郷ニ向テ走駆セリ、蓋シ大宮郷ニ屯集セシ暴徒ヨリ斥候トシテ来りタル者ナラン、他ノ二人ハ字親鼻ニ於テ飲食セリ
午前九時頃、暴徒凡ソ四、五百人、真先ニ白旗ヲ立テ、各銃砲・槍・長刀等ヲ携帯シ、螺貝ヲ吹キ、鬨声ヲ発シ寄セ来レリ、其中ニ羽織袴ヲ着シタル者凡ソ百五、六十人アリテ、各方尺ノ白布ニ甲又ハ乙ノ字ヲ記シ、之ヲ襟ニ挿シタリ、其中巨魁卜認ムベキ者ハ手ニ之ヲ携へタリ、村内へ侵入スルヤ否、抜刀ニテ五人乃至十人位ヅツ財揮アル名ノ家宅ニ押入り、焚出シヲ命ジ、応ゼザレバ斬殺ス、或ハ火ヲ放ツベシト脅迫ヲ極メタリ、同時ニ旅人宿野口タツ方ヲ本陣トシ、総理又ハ小隊長トモ認ムベキ者此ニ居レリ、同日午後三時頃ニ至リタル時ハ暴徒等凡ソ二千余人アリ、総理指揮シテ之ヲ三分シテ、親鼻・栗谷瀬及ビ大浜ノ三波船場ヲ守ラシメタリ、
是ヨリ先キ暴徒等ハ抜刀ニテ毎戸ニ押入リ、出ザル者ハ打殺ス、或ハ焼払フト脅迫セリ、而シテ村内ノ男丁ハ既ニ逃避シ、其僅ニ家ニ在ル者ハ、炊場ニ助力スルヲ口実トシ、免ルルヲ得タリ、又戸島ノ宅ニ入り金ヲ出サシメ、其他民家ニ於ケルモ、或ハ金銭、或ハ刀槍・銃砲、或ハ衣類・雑器等ヲ強奪セリ」(「秩父暴動被害諸村概況皆野村」)。
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●11月3日の狩り出し
3日は、東方の各村に別動隊を派遣し、①芦ケ久保村~南川村~坂石村、②山田村~栃谷村~定峰村の2ルートで人足狩りだしを行う。
①は正丸峠を越え、午後5時頃、18名が坂石村に進出し聯合戸長役場に押しかける。久保新平戸長に1戸1名の差し出しを迫り、これを各村に触れさせ、戸長宅で白米5升を焚き出させて食い、残った飯を握り飯しにさせる。
また、戸長宅の合薬200匁を奪い、各戸を脅して50~60人を集める。しかし、午後7時頃、川越警察署長岡田警部率いる臨時徴募の士族巡査隊の接近を知り、正丸峠に引き返す。
②では、午前9時頃、30人ほどが抜刀・槍・銃砲を構え、山田村を襲い、聯合戸長役場に押しかける。そこには誰も居ないため、橋本又太郎戸長宅に押しかけ、表と裏を8~9人ずつが取り囲み、重立ち6人が家の中に入り人足差出を迫る。
「今回我々自由党員ニテ発起セシ旨趣、政府ノ政事甚ダ酷ニシテ、追々人民ニ労苦ノ増ル事勢見ルニ不忍、故ニ斯ル大事ヲ相醸シ、各村毎戸同盟出頭セシモ、当聯合部内村々ニ限り、今ニ同盟出頭スルモノ無之ニ付、速ニ同盟シ、刀カ銃砲等携帯シ、一同出頭致候様可成事、万一意ニ不応トキハ、己ニ昨夜大宮郷ニ於テ放火セシ如ク、戸長自宅ヲ首メトシ、全村放火ニ可及、又返答ノ次第ニヨリ直チニ伐殺スベシ」。
しかし、戸長が不在のため、諦めて三沢村方向に立ち去る。その後、午後7時頃、再び来て、「人夫督促ノタメ立越タルニ付、速ニ一同出頭スベク、万一違背スルニ於テハ伐殺シ、又ハ放火ニ及ブ」と民家を個々に触れて図り、洋銃1挺(価1円)、脇差2本(価60銭)などを奪って引き揚げる。
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「★秩父蜂起インデックス」をご参照下さい
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