団子坂
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坂周辺には、かつて鷗外、漱石が住み、また高村光太郎、宮本百合子のゆかりの地もある。
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また、「青鞜」発足の地でもあるが、これに関する碑もしくは説明板は、今回見付けることができなかった。多分、工事中であったようだ。
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団子坂の由来は2説あるという。大石学「坂の町・江戸東京を歩く」(PHP新書)
①人々がよく転ぶ坂であったことから名付けられたという説。
江戸時代の坂は、砂利などで固めたでこぼこ道で。人々はよく転倒し団子のように転がったという。これと同じ理由で「団子坂」と名付けられた坂は江戸時代に3~4ヶ所あったようで、いずれも急坂であった。
②「御府内備考」に「然る處坂際に団子屋多有之候に付、いつとなく団子坂と里俗に相唱候由御座候」と記述されているように、団子坂周辺に団子屋が多くあったからという説。
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その昔、団子坂は菊人形が有名で、10月~11月には東京中から人が集まったそうだ。明治20年代が最盛期で常設小屋が10数軒あり、呼び込みの男たちが「お代は見てのお帰り」と賑やかだったという。
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「一行は左の小屋へ這入った。曾我の討人がある。五郎も十郎も頼朝もみな平等に菊の着物を着ている。但し顔や手足は悉く木彫である。その次は雪が降っている。若い女が癪を起こしている。これも人形の心に、菊を一面に這わせて、花と葉が平に隙間なく衣裳の恰好となる様に作ったものである」
「坂の上から見ると、坂は曲っている。刀の切先の棟である。幅は無論狭い」(漱石「三四郎」)
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「四辻を右へ坂を降りると右も左も菊細工の小屋である。国の芝居の木戸番のように、高い台の上に胡坐をかいた、人買か巾着切りのような男が、どの小屋の前にもいて、手に手に絵書附のようなものを持っているのを、往来の人に押し附けるようにして、うるさく見物を勧める」(鴎外「青年」)
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今回は、漱石旧宅跡「猫の家」から廻って来たので、坂上から下り、地下鉄「千駄木駅」方向に進む。
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団子坂上を下る方向の左手に入って行くと、林町の高台に200坪はあったという高村光雲の旧邸宅がある。
子の光太郎は、そこから団子坂を下り、三崎坂を上って上野の美術学校に通っていた。
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その道をほんのもう少し進むと、今度は宮本百合子のゆかりの地が。
同じく父親の旧宅跡で、百合子は幼少時代をここで過ごしたという。
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今度は、坂上まで戻って、反対方向(坂下に向って右側)へ。
そこに鷗外の観潮楼跡が。
但し、この日は休館。
以前の訪問時に中に入ったことがあるので、まあいいか。
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鷗外は、漱石が「猫の家」に住む10年前のその家の住人で、その後ここに移転。
短歌革新諸派の調停者として観潮楼歌会を主宰。
啄木はしばしばここで最高点をとる。
一葉の才能を見出したのも鷗外。
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そして、元の坂上に戻って、今度は坂を下る。
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「★東京インデックス」をご参照下さい
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