天文19(1550)年 [信長17歳]
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8月
・フランス、フレミング事件。モンモランシー仲介のアンリ2世の浮気発覚。
アンリ2世とレイディ・フレミングのサン・ジェルマン館での密会。現場で寵姫ディアンヌに発覚。
レイディ・フレミング:ジェーン・スチュアート、スコットランド王ジェームズ4世庶出娘。1548年メアリ・スチュアートと一緒にフランスに渡る。
アンリ2世とレイディ・フレミングの息子、アンリ・ド・ヴァロワ(アンリ・ダングレーム)はアンリ2世によって認知される。
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8月5日
・武田先手長坂虎房、出陣。19日、武田晴信、長窪に出陣。
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8月11日
・大友先発隊(小原鑑元・佐伯惟教ら)、大野城・大津山城を攻略。22日、戸次鑑連総大将の大友軍3万5千、肥後に進軍、各地で菊池勢を撃破。5万で隈本城を包囲、陥落。菊池義武は八代の相良氏をたより逃亡。
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8月14日
・足利義輝、甲賀豪士永原重興へ近江野洲郡内に知行を安堵(「保阪潤治氏所蔵文書」)。
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8月15日
・バリャドリード論争。スペイン国王カルロス1世、「インディオを国王に服従させる方法を協議する」審議会召集。ラス・カサスと神学者ファン・ヒネス・デ・セプールベダ。
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8月25日
・山科言継、鴨上下社に参詣の途次賀茂山に登り、「いくち」という菌を採取(「言継卿記」同日条)。
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9月
・ザビエル、平戸より京都に着くが、11日間の滞在のみで平戸に戻り、翌年春、山口に赴く。
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9月2日
・毛利元就、毛利・小早川・吉川の結合を強化。
吉川家の反対勢力を完全に封じ込め、元春(22)を入城させる。27日、幽閉された吉川興経主従、布川で毛利元就が派遣した熊谷信直らに殺害。
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(経緯)
天文12年、吉川興経は、大内義隆が尼子氏居城月山富田城を攻撃した際、寝返って富田城に入る。
大内義隆は、吉川氏領地を毛利元就に預けるが、元就は興経の脱出を助けて旧領に復帰させる。
天文14年、吉川興経叔母で元就の妻妙玖、没。
天文15年、興経叔父経世ら吉川氏宿老が元就に対し次男元春の養子縁組を申し入れ。
天文16年、元就は、興経を毛利氏領内に移住させるなどの条件を追加して元春の養子縁組を承諾。
同年8月、興経、毛利氏領内布川(広島市安佐北区上深川町)に幽閉の形で隠居。
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9月2日
・細川晴元・将軍義輝、中尾城補強を計画。洛中洛外の各社寺領に竹の徴発を命じる。この徴発令に困惑した東寺側は松田盛秀を通じて幕府の「御城奉行衆」へ免除を愁訴。
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「東寺境内並びに門前地下中の薮役として、竹千五百本東山御城に至りこれを持ち進(マイラ)せらるべし。若し難渋に於いては異なる沙汰有るべきものなり。仍て件の如し。
天文十九 九月二日 (松田)盛秀(花押) 東寺雑掌」(「東寺百合文書」)。
東山御城は中尾城を指すものと考えられる。
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9月9日
・武田晴信、村上義清の兵糧城戸石城攻撃。22日、村上義清、奥信濃高梨政頼と和睦、合同で武田方埴科郡寺尾城攻撃。28日、真田幸隆(幸綱)の援助で高梨連合隊を退却させる。晴信、戸石城を落とせず。
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9月15日
・陶隆房、大内義隆を襲撃しょうとして露見、周防に逃げる。
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9月21日
・[明・嘉靖29年8月11日]モンゴルのアルタン・ハーン、騎馬軍団を率いて北京を包囲。
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10月
・松永甚介長頼・今村紀伊守(慶満)、山城小栗栖で違乱する。
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10月1日
・武田晴信退却(戸石崩れ)。戸石城にて村上義清勢追撃に甚大な損耗。横田高松が討死。
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10月15日
・若狭遠敷郡稲積(今富)荘の12月・正月・2月の年貢(月充銭)、小浜の問丸が徴収し納入(「言継卿記」同日条)。
3月分以後は未進で、11月、若狭に下向している飛鳥井雅綱より書状では、3月分より5ヶ月分の150貫文を進納しようとあるが、10日余過ぎて届いた書状には、まず2ヶ月分(3・4月分60貫文)は進納するが、残りは調達しがたいと記されている(「言継卿記」11月13・26日条)。
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10月19日
・三好長慶による最初の段銭徴収。長慶被官芥川清正、桂川以西に段米賦課を行う旨、近隣農村に触れを出す。
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畿内に本貫地を持たない阿波国人が、京都周辺で長期に軍事力を維持するための財政基盤確立のため、朝廷・幕府・荘園領主とは独自に町屋から地子銭、農村から段銭を徴収。
このような臨時課役は荘園領主・町衆から抵抗を受け徴収不能となり、免除の代償として僅かの樽代・折紙銭で妥協せざるを得ず。
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10月20日
・中尾城の細川晴元の兵、鴨川辺まで進軍。三好軍の十河一存ら、中尾城付近の聖護院・北白川・鹿ケ谷・田中に放火して反撃。25日、三好長慶軍、細川晴元・六角連合軍と五条河原で交戦。(「言継卿記」)
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11月
・賀州三ヶ寺派、証如に赦免される。
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11月19日
・三好長慶勢力下の摂津・丹波・河内の軍勢4万、上洛。細川晴元勢を一掃。
長慶の中軍は、中尾城城下の北白川、吉田、岡崎の諸郷を焼掠。松永長頼(久秀の弟)ら、長慶の先鋒大将として山科から炭山・醍醐を通過して近江に進軍、志賀里・大津などに放火し、義輝軍の背後を脅かす。
21日、晴元・義輝ら、中尾城・瓜生山を焼き、坂本に戻り、急いで堅田に退却。三好方は、中尾城・北白川城の焼け残りあとを更に放火し、石垣等を破却。中尾城の城郭としての生命は僅か1年余の短命。
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「今暁(十一月二十一日)東山武家(義輝)の御城落つ。自火(ジカ)と云々。坂本へ奉公衆・細川(晴元)方各越きると云々。大樹(義輝)は堅田へ御座を移さるゝの由風聞。三好人数北白川以下に罷り向かう。一昨日の焼け残り又放火し乱妨すと云々。
(十一月二十三日)東山武家の御城、今日三好人数罷り越しわ(破)ると云々。御無念の次第なり。」(「言継卿記」)。
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12月
・上杉景虎(21、謙信)一族の長尾政景、坂戸城(南魚沼郡六日町)に立て篭り、謀反。(坂戸城の戦い)
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12月
・フランシスコ・ザビエル、堺を訪問。
面倒をみたクドー(日比野了珪の父)は京都の小西隆佐に紹介したりするが、成果なく平戸に戻る(翌年10月、豊後からインドに戻る)。
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12月7日
・武田信玄嫡男太郎、元服、義信と称す。
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12月23日
・織田信長(17)、尾張密蔵院へ笠寺別当職は織田信秀判形の通りに、知行分の賽銭・開帳については寺内の裁量とするよう命令(「密蔵院文書」)。
この頃、信長が家督相続者の地位にあることを窺わせる。
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