天文19(1550)年 [信長17歳]
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この年
・佐々成政、織田信長に仕える 。
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・ロシア、イヴァン4世(雷帝)、ゼムストヴォ・ソヴォール(全国会議)召集。ツァーリの声を聞く会議。
「ツァールスキー・スジェーブニク(ツァーリ法典)」制定。
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・ポルトガル、モロッコ人の反撃を受け、海岸沿いの植民地から次々に撤退。セウタ、タンジール、マザガンのみを確保。
・この頃、リスボン人口の1割が黒人奴隷。
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・ドイツ、16世紀前半の頃より、エルベ以東でグーツヘルシャルト(農場領主制)形成。
1520年頃より上昇していた物価が急高騰(価格革命の影響が現れる)。
この頃、手工業全般、とりわけ織布業衰退が顕著。
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・フィレンツェ、ジョルジョ・ヴァザーリ(39、1511~1574)、「イタリア美術家列伝」。
画家、建築家、美術史家。アレッツォの陶工の息子。枢機卿シルヴィオ・パッセリーニの目にとまり、イッポーリト・デ・メディチ、アレッサンドロ・デ・メディチと共にフィレンツェで教育を受け、生涯、メディチ家の庇護を受ける。
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・この頃、陶工ベルナール・パリッシーの刻苦の時代。新教徒となり、サントの町の新教運動に貢献。
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・ミシェル・ド・ノートルダム(ノストラダムス)、「暦」作成。天文占星普及。
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・カルヴァン「躓きを論ず」。
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2月
・毛利元就の次男元春、福原元正ら家臣36人を率い吉川氏の居城新庄小倉山城に入る。直属の家臣団で養家を固めるやり方は、隆景の小早川氏継承と同様。
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2月10日
・大友二階崩れの変。
大友家第20代義鑑(豊後守護)、嫡子義鎮に別府湯治を勧め府内から出立させる。義鑑は重臣斎藤長実・小佐井大和守・田口蔵人佐・津久見美作守らを呼び出し、嫡子義鎮の廃嫡、側室子・3男塩市丸への家督相続を伝えるが、4人は反対。
義鑑は、この4人暗殺のため、夜、館に呼び出し、応じた斎藤・小佐井を殺害。
残りの2人(田口・津久見)は大友館を襲撃(女の被衣をかぶって潜入)。津久見が塩市丸を、田口が塩市丸の母を斬り、一団が義鑑・侍女達を斬る。
後、家臣達が駆けつけ田口・津久見ら一団は討取られる。義鎮の妻は現場に居合せるが一団から斬られず。12日、義鑑、2日前の傷により没。20日、大友義鎮が家督を継ぐ。3月、義鎮廃嫡を画策した入田親誠は、肥後の阿蘇氏を頼るが、阿蘇惟豊は大友氏への忠誠の証として親誠の首をとり豊後に送る。
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2月14日
・ロシア、イヴァン4世(雷帝)率いるロシア軍、カザン城近くに到着。兵6万が城内侵入、住民虐殺。翌日激しい雨となり退却。スヴィヤージスクに要塞構築。
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2月16日
・前将軍足利義晴、京都中尾(慈照寺裏山)に築城。松永長頼らは洛中と吉田郷辺りまでを占拠しているだけで、東山の峯一帯には三好氏の勢力が及んでいない。
3月7日、義晴は、中尾城入城のため大津に移る。
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「猶御城山の事のみ御心にかけさせ給ひて、右京兆晴元(細川)・彈正少弼定頼(六角)朝臣に御談合有て、二月十六日(天文十九年)乙亥に又御普請始ありて、ほどなうつくり出せり。
・・・つづら折なる道を廻りて登る事七八丁、南は如意が岳に続きたり。尾さきをば三重に堀切て、二重に壁を付て、其間に石を入れたり、是は鉄砲の用心也。四方には池を掘て水をたたへれば、・・・摂丹を目下に見おろして、まことに名城共云べし」(「万松院(足利義晴)殿穴太記」、天文19年5月義晴没の直後に近臣が記したと推定される)。
二重の白壁の中に石を詰め、既に鉄砲による攻撃を想定した築城がなされている。
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また、摂津では伊丹親興だけが伊丹城に龍城して長慶に降りていない。伊丹城は畿内最大の城郭といわれ、記録では、初めて天守閣が出現した城とされる。攻撃に手こずった長慶は、東側に攻略専用の対城を築き、池田氏の軍を入れ、南は富松城に淡路水軍の安宅氏を、西は御影塚に三好直系軍を、西北は昆野(コヤ)城に小川式部を置く。
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2月26日
・越後守護上杉定長、没。
越後守護家断絶によって長尾景虎(21、上杉謙信)が国主となる(上杉定実没の2日後、景虎のもとに将軍足利義輝から白傘袋・毛氈・鞍覆の使用を許される。実質的に国主大名としての待遇を与えられる)。
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3月14日
・肥前高来に亡命の菊地義武(大友義鑑の弟)、田嶋重賢・鹿子木鎮有ら肥後・筑後の国衆に守られ肥後隈本城に入城。
5月、菊池義武の反大友の謀反。
応じるのは三池親員・溝口丹後守・西牟田親毎ら。大友側につくのは上妻上総介・蒲池鑑盛・五条鑑量・田尻伯耆守。
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3月24日
・ブローニュ講和条約締結。イングランドとフランス・スコットランドの間の戦争終結。ブローニュのフランスへの返還決定。
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4月
・武田晴信方の駒井政治武と仁科盛政が諏訪高島城で談合。安曇郡の仁科氏への内応工作。7月、仁科道外が武田氏に出仕。
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・後奈良天皇、国家安穏を祈願して全国の一宮(地域で最上位に格付けされた神社)に宸筆の般若心経を奉納。甲斐の浅間神社のものは武田晴信(信玄)が取り次ぐ。信濃の諏訪大社に関してもこれに関与。信濃守護職獲得の意向が働く。
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4月1日
・北條氏康の税制改革。
諸点役諸公事による雑多な附加税を整理し、田に対する賦課税「段銭」(村々の基本年貢高の6/100)、畠に対する賦課税「懸銭」(万雑公事を貫高4/100に)、そして家屋に対する賦課税「棟別銭」の3つに統一。
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貫高制の完成。
①「田畠踏立辻」。検地に基づき郷別に貫高を確定。
田地1段500文、畠茅1段165文(秋成100文、夏成65文)を基準とし、検地により確認された面積をそれにかけて算出。
②この「踏立辻」から社寺等の給分、公事免・境免・百姓赦免分などを差引き、「定納高」を決定。
この定納高が、直轄領なら大名の手許に、給地なら給人の手許に納められる基本年貢額である。
③この貫高を基準として、直轄領・給地を問わず全領に亘り大名(小田原本城主)が収取する段銭・懸銭・棟別銭が賦課される。
段銭は本年貢の6/100、懸銭は4/100というのが天文19年改革により、荘園制以来の複雑な雑公事等を整理して確定された新賦課基準である。
例えば、相模国田名郷はこの年、貫高124貫791文、従って段銭は7貰487文で、これを6・10月の2度に分けて小田原の「御蔵」へ納入する定め。
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④こうして確定した貫高に基づき給人に知行が宛行われる。
給人知行貫高は、基本的には土地指定を受けた給地だが、直轄領からの蔵出し或いは段銭からの給付のこともある。そして無役分を差引いた知行賞高に基づき軍役が賦課される。
以上が、後北条領国の貫高制の基本的仕組み。
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以下補足。
⑤貫高決定に際し、漁村など、耕地のみによってはとらえにくい村柄では、物納させる塩・海産物などを一定の基準で貫高に換算。
⑥貫高制年貢の納入形態としては、後北条領では多くの地域で銭納が広く行われる。大名は精銭の納入を求め、撰銭規定を設けてこ強制。しかし、段銭・棟別銭等については永禄頃から農民側に対する「徳政」として「納法」とよぶ一定の換算基準(米の場合100文=1斗4升)を定め物納を認める。
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4月4日
・将軍義輝、中尾城の修復と同時に北白川の勝軍山城を再建。山梨言継がこれを見物。
「藤中納言(高倉永家)北白川城御番に、この間上洛の由緩ある間、見舞として北白川へ罷り向かう。
・・・次いで御城見物申し候い了んぬ。近比(ゴロ)見事の御山なり。御殿以下四つ立ち了んぬ。上野以下奉公衆三十人居(ス)えらる。御作事これあり。厚飯(コワメシ)にて一盞これあり。則ち罷り帰り了んぬ。」(「言継卿記」4月4日)。
「御殿」(上級武将の居宅)と、将軍親衛隊(奉公衆)30人が詰める施設があり、言継の見物中にも作事(建築)続行中。
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4月17日
・細川晴元軍、京都西院小泉城を攻撃。
「細川右京兆(晴元)人数、山中(大津市山中町)より未明出京す。西院小泉城へ取り懸かりこれを責む」(「言継卿記」4月17日条)。小泉城の初見。
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このときの戦闘は寄手が30人負傷したと伝えるが、見物に向かった公家富小路某の小者が流れ矢に命中して没し(同日条)、言継は「先づ以て無用々々」と合戦見物の危険さを指摘。
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天文18年(1549)以前成立と考証される上杉本洛中洛外図に、「さい(西院)のしろ」として小泉城が描き込まれており、その出現は晴元政権期に遡ることが確実。
また、同屏風に描かれた唯一の城郭である点から考えると、京郊屈指の大規模な城塞と推定される。
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