天文19(1550)年 [信長17歳]
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5月
・肥後国隈本城、菊池義武(大友義鑑の弟)、反大友の謀反。応じるのは三池親員・溝口丹後守・西牟田親毎ら。大友側につくのは上妻上総介・蒲池鑑盛・五条鑑量・田尻伯耆守。
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5月4日
・前将軍義晴(40)、近江穴太(大津市)で病没。20日、葬儀。銀閣寺の常御所御座所(唐人の間)と会所嵯峨の間が用いられ(「万松院殿穴太記」)、東求堂が僧侶宿泊所に充てられる。
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閏5月2日
・「上下京宿老」、二条室町の喧嘩を中分(「言継卿記」同日条)。
個別町組の利害を超越した高次の統括機関で、複数の町組にまたがる紛争処理はこれら宿老の裁定に委ねられたのではないかと推測。尚、これらの代表は、経済的特権によって進出したものとの見方がある(林屋辰三郎「町衆の成立」)。
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閏5月14日
・大友方の阿蘇五ヶ所衆、菊地義武の隈本城に押し寄せるも撃退され、健軍村に逃げ込むが村を焼き払われる。19日、菊地義武方の合志親賢、大友方の津守城・木山城を攻撃。25日(この日以前)、大友方の豊饒美濃守ら、筑後の溝口城を攻略。28日、菊地方の大津山重経・辺春薩摩守・和仁弾状忠・東郷衆・大野上総介・田嶋宮内少輔・吉弘親守ら、大友方の筒岳城(小代実忠)を攻撃、両軍に被害。
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閏5月23日
・武田晴信、甲斐一宮浅間神社願文捧呈に小笠原長時攻撃の戦勝を祈願。
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6月2日
・今川義元夫人(武田晴信の姉)、病没。
この時期、信玄・義元双方が、甲駿同盟の意義を認め、同盟路線継続のために新たな政略結婚(義元の娘が信玄の嫡男義信に嫁ぐ)が持ち上がる。天文21年(1552)11月婚儀。
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6月6日
・宇土の名和伯耆守と八代の相良晴広、菊池義武に与する誓紙を交わす。
大友氏に与するは阿蘇惟豊ら阿蘇五ヶ所衆・小代実忠・立田兵庫頭・詫磨鑑秀・城越前守親冬・赤星筑前守・皆吉武真ら。
24日、大友方の皆吉武真、豊福城に篭城、大友軍の援軍を待つ。
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6月9日
・足利義輝、如意岳(京都・大津間、大文字山東側)の京都中尾城に入城し立籠る。
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6月9日
・勘合貿易終了。
幕府遺明使策彦周良、明より医師吉田宗桂と共に帰国。
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7月
・関白一条家の門前町(上京小川組の一つ)と誓願寺の門前町(小川組誓願寺町)の間の喧嘩。討死1人・手負「左右方数多」。翌日も片方が報復に取りかかる。上京中の百二十町が中分に入り落着(「言継卿記」7月15、16日条)。
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この百二十町は当時の上京の町組総数と考えられるが、この数は元亀3年(1572)の米寄帳面に記された町総数八十六町を三十四町上回る。その差三十四町は禁裏六町と寄町の数を含むと考えられるが、天文19年時点で上京の町総数が百二十町もの多数に上っていたことは注目される。
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7月1日
・龍造寺胤信(22、隆信)、大内義隆より加冠を乞い、偏諱を得て隆胤と呼ぶ。19日、隆信と改める。
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7月2日
・武田晴信、真田幸隆(38)に本意の上は小県郡諏訪形等千貫文の地を与えると約す。上田に300貫文の知行宛行を約束され、のちの真田氏の上田領進出の契機となる。
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7月3日
・信玄の筑摩郡侵攻。
武田晴信1万、甲府進発。10日、村井城(松本市芳川)着。15日、信濃守護小笠原長時の本拠林城の出城乾城を急襲、陥落。夜、林城攻撃態勢。城兵逃亡。小笠原長時は平瀬城(松本市)逃亡。安曇郡森城(大町市)の仁科一族の仁科道外が武田氏に出仕。
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この後、信玄は府中深志城(松本市)を拠点として、安曇郡に逃れていた小笠原長時を追って、平瀬城(松本市)・小岩岳城(安曇野市)へと兵を進め、翌天文20年(1551)10月には平瀬城を、翌21年8月には小岩岳城を攻略。平瀬城には原虎胤を城代として入れる。また、林城を破却し、代わりに深志城を修築、筑摩郡域支配拠点とし、譜代家老衆馬場信奉を城代として配置。
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小笠原長時、葛尾城村上義清を頼り、のち実弟の伊那郡鈴岡城(飯田市)城主小笠原信定を頼り、天文23年8月ここが信玄により攻略された後、伊勢を経て上洛、三好長慶の許に身を寄せる。
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7月4日
・細川晴元、本願寺宛て書状で鉄砲入手について連絡。日蓮宗僧侶が京都・種子島を往来して鉄砲を入手。贈答として贈られた鉄砲を実戦に使用できるよう鉄砲隊を編成したのは茨木長隆と推測できる。
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7月8日
・細川晴元、中尾城入城、父義晴の服喪中の将軍義輝を坂本に残し、吉田・浄土寺・北白川に兵を出す(「言継卿記」)。
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7月10日
・三好長慶、洛中洛外惣中へ掟条々を下す(「京都上京文書」)。
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7月13日
・毛利元就、家中に対する成敗権を確立。
毛利家譜代の重臣井上元兼父子及びその一族30人を誅殺粛清。20日、福原貞俊以下家中武士238名に血判誓紙を求める。
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20年前1532年の「連帯起請文」と比較すれば、前者で「相互」の問題であった用水問題が、「井手溝道は上様のなり」と変り、「共同の場」が大名の「公」の場=公儀に転換している事がわかる。
また大名毛利氏の裁判権は、「御家中の儀、有様の御成敗たるべきの由、各にいたりても本望に存じ候」となり、大名の命令が親類・縁者などの「縁」に優越するものであると誓約される。
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7月14日
・三好長慶、山崎に布陣。弟の十河一存・一族の三好長逸(ながゆき)・三好弓介らの兵1万8千が一条付近まで進軍。細川晴元軍100程が出撃、三好弓介(キュウスケ)家臣1人が晴元軍の鉄砲で撃たれて没。細川晴元軍が中尾城を、近江衆は北白川城を動かず、三好衆は山崎に退去(「言継卿記」)。
日本おける鉄砲による戦死記録の初見(長篠合戦の24年前)。
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「三好人数東へ打ち出で見物す。禁裏築地之上、九ツ過時分迄各見物す。
筑前守(長慶)は山崎に残ると云々。同名日向守・きう介(三好弓介)・十河民部(三好弟、一存)大夫以下都合一万八千と云々。
一条より五条に至り出で、細川右京兆(晴元)人数足軽百人計り出合わせ、野伏これあり。きう介の与力一人鉄-(砲)に当たり死すと云々。
東の人数吉田山の上に陣取り出合わず。江州衆は北白川山上にこれあり。終に取り出でざるの間、九ツ過時分諸勢これを引き山崎へ各打ち帰ると云々。
細川右京兆人数に見物の諸人悪口共不可説(フカセツ)々々々。仍て京中の地子は東衆競望(ケイボウ(に及ばず、去年の如しと云々。
寺社本所領先規の如く出(イダ)すべきの由、三好(長慶)下知すと云々。東方よりは寺社本所領以下これを押(オサ)うと雖も、地下承引能わずと云々。
・・・此方地子共、過半これを出すと云々。」(「言継卿記」7月14日条)。改行を施す。
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この頃、三好側が市中の地子銭を前年に引き続き徴収している。
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7月23日
・武田晴信、安曇・筑摩2郡掌握。
林城を破却し、深志城を兵站基地にすべく総普請開始、馬場信春を城代として配置する。
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「★信長インデックス」をご参照下さい。
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