2009年12月6日日曜日

治承4(1180)年5月26日 「宮御最期」(みやのごさいご)(「平家物語」巻4)

治承4(1180)年5月26日
宇治川の戦いにおいて、源頼政・以仁王は敗死し、叛乱は終結。
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今回は、「平家物語」巻4の 「宮御最期」(みやのごさいご)。
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これまでも但し書きしてますが、この宇治川の戦いの参加人数は下記ですので要注意です。
「山槐記」著者中山忠親は平維盛自身に取材して、三井寺に赴いた頼政の軍勢は50余、追討に向かい馬筏を組み宇治川渡河した「飛騨守景家・上総守忠清ら」は200余とする。
「玉葉」では、平家方は「検非違使景高・忠綱以下士卒三百余騎」となっており、対岸の宮方の軍勢も僅かに50余人。
これに反して、「平家物語」「源平盛衰記」は追討軍2万8千、頼政軍(頼政以下の渡辺党武士と三井寺僧兵)1~2千としている。
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(概要)
若武者足利又太郎忠綱の強行渡河によって、戦況は大きく転換。
劣勢な宮方は、陸続と攻めかかる平家の大軍に圧倒され、主だった人々は次々と討死し壊滅。
頼政の次男源太夫判官兼綱が上総の太郎判官の矢に射られ、続いて嫡子伊豆の守仲綱が討死。
養子の六条の蔵人仲家父子、主将の頼政は防戦につとめるが負傷。頼政は、辞世の歌「埋もれ木の花咲くこともなかりしに身のなるはてぞ悲しかりける」を残して自害、首は郎等の手で宇治川に沈められる。
盟主高倉の宮は奈良へ逃れる途中、追撃する飛騨守景家の軍勢500余に討たれる。
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①流される平家の兵。渡河した平家は平等院に進入。
宮方は防戦。高倉宮を奈良に立たせる。
「こゝに伊賀・伊勢両国の官兵等、馬筏押破られて、六百余騎こそ流れたれ。萌黄(モヨギ)・緋縅(ヒヲドシ)・赤縅、色々の鎧の浮きぬ沈みぬ揺られけるは、神南備山の紅葉葉(モミジバ)の、峯の嵐に誘はれて、龍田河の秋の暮、堰(アセキ)に懸かりて、流れもあへぬに異ならず。
其の中に緋縅の鎧着たる武者三人、網代に流れ懸りて、浮きぬ沈みぬ揺られけるを、伊豆守見給ひて、かくぞ詠じ給ひける。
伊勢武者は皆緋縅の鎧着て宇治の網代に懸りぬるかな
これ等は皆伊勢国の住人なり。黒田後平四郎・日野十郎と云ふ者なり。中にも、日野十郡は、古兵(フルツハモノ)にてありければ、弓の弭(ハズ)・岩の狭間にねぢ立てて、かき上り、二人の者どもを引上げて、助けけるとぞ聞こえし。
大勢皆渡して、平等院の門の内へ、攻入り攻入り戦ひけり。此の紛れに、宮をば南都へ先立たせ参らせ、三位入道の一類、渡辺党、三井寺の大衆、残り留って防矢射けり。」
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②源三位頼政の最期。宮方壊滅。
「源三位入道は、七十に余って軍(イクサ)して、弓手の膝口を射させ、痛手なれば、心静に自害せんとて、平等院の門の内へ引退く所に、敵(カタキ)襲ひかゝれば、次男源大夫判官兼綱は、紺地の錦の直垂に、唐綾縅の鎧着て、白月毛なる馬に、金覆輪(キンプクリン)の鞍置いて乗り給ひけるが、父を延ばさんが為に、返し合せ防ぎ戦ふ。
上総太郎判官が射ける矢に、源大夫判官、内甲(ウチカブト)を射させてひるむ処に、上総守が童、次郎丸と云ふ大力の剛の者、萌葱匂(モヨギニホヒ)の鎧着、三枚甲の緒をしめ、打物の鞘をはづいて、源大夫判官に押並べて、むずと組んで、どうど落つ。源大夫判官は、大力にておはしければ、次郎丸を取って押へて頸を掻き、立ち上らんとする処に、平家の兵ども、十四・五騎落ち重なって、終に兼綱を討ちてげり。
伊豆守仲綱も、さんざんに戦ひ、痛手あまた負うて、平等院の釣殿にて自害してげり。其の頸をば下河辺藤三郎清親取って、大床の下へぞ投入れたる。
六条蔵人仲家、其の子蔵人太郎仲光も、さんざんに戦ひ、一所で討死してげり。この仲家と申すは、故帯刀先生義賢が嫡子なり。然るを、父討たれて後、孤(ミナシゴ)にてありしを、三位入道養子にして、不便にし給ひしかば、日来(ヒゴロ)の契約を達へじとや、一所で死ににけるこそ無漸なれ。」
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兼綱の奮戦ぶりは、宗盛の使者として参院した検非違使源季貞からの戦況報告を書き留めた右大臣九条兼実「玉葉」治承4年5月28日条にも、
「敵軍僅かに五十余騎、皆以て死を顧みず、敢えて生を乞うの色無し。甚だ以て甲なりと云々。其の中に兼綱の矢前に廻る者無し。宛(サナガ)ら八幡太郎の如し云々」
とあり、兼綱のの弓勢を恐れて矢先に廻る者なく、八幡太郎義家に匹敵する者として称賛されている。
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「下河辺藤三郎清親」(兼綱の兄伊豆守仲綱の家人):
勇戦のすえ負傷して平等院釣殿で自害した仲綱の首を御堂の大床の下に投げ入れて隠す。
下河辺氏は、秀郷流藤原氏の流れを汲む小山氏の一族で、武蔵国北葛飾郡下河辺庄の住人、秀郷から7代目の小山政光の弟行義が下河辺圧を領して「下河辺庄司」を称して以来、代々その称を継ぐ。
頼政の父仲政が下総守として子の頼政と共に任地に下向した際、下河辺庄が仲政・頼政父子を介して鳥羽院あるいは美福門院に寄進され、平治の乱には下河辺行義は頼政の郎等として従軍(「平治物語」)。
「吾妻鏡」治承4年5月10日条では、行義の子の行平が伊豆の頼朝に頼政挙兵の計画を報じている。
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六条(八条の誤り)の蔵人仲家とその子蔵人の太郎仲光:
帯刀先生義賢(タテワキセンジョウヨシカタ)の嫡子、木曽義仲の異母兄。
「帯刀」は、太刀を帯びて仕える職で、皇太子の身辺警護に当たる武官で、舎人のなかから武術に優れた者を選んでこれに任じ、特に刀を帯びて護衛役に従事させた。「先生」(センジョウ)はその首長。
義賢は、源為義の次男で、皇太子の躰仁親王(のちの近衛天皇)の春宮坊に属し、帯刀先生の職にある。久寿2年(1155)8月、義賢は所領争いから甥の悪源大義平に殺害され嫡男仲家は孤児となる。同族の頼政に引きとられ、養子として養育されたので、多年にわたる養育の恩義に報いるため、養父頼政の挙兵に加わる。
4ヶ月後の9月初めには弟の義仲が木曽で挙兵するが、その日を見ずに討たれまことに無残であると「平家物語」は嘆く。
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④頼政の自害。長七唱がその首を処置する。
競と円満院源覚の奮戦。
「三位入道、渡辺長七唱(ワタナベノチヤウシチトナフ)を召して、
「我が頸討て」/と宣へば、主の生頸討たんずる事の悲しさに、
「仕つとも存知候はず。御自害候はば、其の後こそ賜り候はめ」
と申しければ、実(ゲ)にもとや思はれけん、西に向ひ手を合せ、高声に十念唱へ給ひて、最後の詞ぞあはれなる。
埋木の花さく事もなかりしに身のなる果ぞ悲しかりける
これを最後の詞にて、太刀のさきを腹に突き立て、俯様(ウツブシサマ)に貫かつてぞ失せられける。
其の時に歌詠むべうはなかりしかども、若うより強(アナガチ)に好いたる道なれば、最後の時も忘れ給はず。其の頚をば長七唱が取つて、石に括り合せ、宇治川の深き所に沈めてげり。
平家の侍ども、如何にもして、競滝口をば生捕にせばやと窺ひけれども、競も先に心得て、さんざんに戦ひ、痛手数多(アマタ)負ひ、腹掻切って死ににける。
円満院大輔源覚は、今は、宮も遥に延びさせ給ひぬらんとや思ひけん、大太刀・大長刀左右に持って、敵の中を破って出で、宇治川へ飛んで入り、物の具一つも捨てず、水の底を潜つて、向の岸にぞ着きにける。高き所に走り上り、大音声を揚げて、
「如何に平家の君達、これまでは御大事か、よう」
と云ひ捨てて、三井寺へこそ帰りけれ。」
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異説では、頼政の首は下河辺藤三郎がとり、これを御堂の板壁を突き破ってその中に隠したとされる。
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⑤高倉宮の討死。宗信は首のない屍の腰に差された笛で高倉宮討死を知る。
「飛騨守景家は、古兵にてありければ、此の紛(マギレ)に宮は定めて南都へや、落ちさせ給ふらんとて、混甲(ヒタカブト)四五百騎、鞭鐙(ムチアブミ)を合せて追つかけ奉る。案の如く、宮は三十騎ばかりで落ちさせ給ふ所を、光明山の鳥居の前にて、追つ付き奉り、雨の降る様に射奉りければ、何れが矢とは知らねども、矢一つ来つて、宮の左の御側腹に立ちければ、御馬より落ちさせ給ひて、御頸取られさせ給ひけり。御供申したる鬼佐渡・荒土佐・荒大夫・刑部俊秀も、命をば何時の為にか惜しむべきとて、散々に戦ひ、一所に討死してけり。
その中に乳母子の六条亮大夫宗信は、新野が池へ飛んで入り、浮草顔に取覆ひ、慄(フル)ひ居たれば、敵は前をぞ打通りぬ。やゝあって敵四五百騎、ざざめいて帰りける中に、浄衣着たる死人の、頸もなきを、蔀(シトミ)のもとより舁(カ)き出でたるを見れば、宮にてぞおはしましける。我れ死なば御棺に入れよと仰せられし、小枝と聞えし御笛をも、末だ御腰に差させましましける。走り出でて取付き奉らぼやと思へども、怖しければ其れも叶はず。敵皆通って後、池より上り、濡れたる物ども絞り着て、泣く泣く都へ上つたりけるを憎まぬ者こそなかりけれ。」
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この後、その首の真偽の認定を巡り平家方は苦労する。
多くの人々に検分させようとして果たせず、なじみの女房を尋問してようやくこれを確認する(「若宮御出家」)。
しかし、その後も高倉の宮の生存説は根強く残り、平家を脅かすことになる。
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⑥間に合わなか南都勢。
「さる程に、南都の大衆七千余人、甲の緒をしめ、宮の御迎に参りけるが、先陣は木津に進み、後陣は未だ興福寺の南大門にぞゆらへたる。宮は早(ハヤク)光明山の鳥居の前にて、討たれさせ給ひぬと聞えしかば、大衆、力及ばず、涙を抑へて留りぬ。今五十町ばかり待ち付けさせ給はで、討たれさせ給ひける、宮の御運の程こそうたてけれ。」
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