天文22(1553)年10月
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この月
・毛利軍、旗返城(三次市)陥落。城主・江田隆連は脱出、逃走。
陶晴賢の将・江良房栄、入城。
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10月5日
・イングランド第1議会の開催。
メアリー1世母后キャサリン・オブ・アラゴンの王妃としての正当性とヘンリ8世による離婚の撤廃。
8日、第2議会の開催。
エドワード6世治世の宗教上の法律の撤廃及びスペイン王子フェリペとの結婚の打診。
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10月7日
・武田晴信、塩田平出て、17日、甲府凱陣。
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10月27日
・ミシェル・セルヴェ(42、ミゲール・セルヴェト)の火刑
血液循環など発見の天才、アラゴン人、医師、神学者、「スピノザの先駆者」。
大著「キリスト教の復元」出版でジャン・カルヴァンによりローマ教会異端審問所に逮捕、ジュネーヴのシャンペルの丘で火刑。
カルヴァンの独裁を左右する決定的事件。
1903年シャンペルに石碑建立。
セルヴェ処刑の評価:
①非道な行為(オーギュスト・ディード)、②時代の過失(エミール・ドゥメルグ)。
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11月12日
・長尾景虎、京都より高野山参詣。
13日、本願寺第10代証如へ贈物。
12月8日、紫野大徳寺より三帰五戒の法号与えられる。
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11月19日
'・武田晴信、義信の名乗りの儀式を行う。
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11月22日
・信長(20)、津島商人服部弥六郎に商業上の保護を与える。信長の財源。
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12月
・信長、津島神社神主氷室兵部少輔に天文9年以前の借銭・質物免除・社領安堵の判物を与える。
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・毛利軍、多賀山城守多賀山通続を降す。
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'・武田晴信、京都清水寺成就院宛ての書状。
去る天文13年に信濃掌握を祈願したが12郡中1郡を残すのみとなった、結願の上は諸物を進納するといい、今秋の一戦勝利の礼として黄金10両を奉納。
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12月12日
・叉は13日、アンリ・ド・ナヴァール(後、ブルボン朝始祖アンリ4世)、誕生
(1553~1610、位1589~1610)。
フランソワ1世姉ナヴァール公妃マルグリット娘ジャンヌ・ダルブレ(新教徒)とアントワーヌ・ド・ブルボンとの間の子。
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12月25日
'・山科言継の息の長松丸、元服して内蔵頭・従五位上に叙せられる。
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天文23(1554)年
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この年
・若狭守護武田信豊、細川晴元の要請により高浜の逸見昌経や和田の粟屋氏ら大飯郡の武士たちを丹後・丹波へ派遣、晴元方丹波勢に合力して京都三好党の松永長頼と戦わせる。
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・木下藤吉郎(18)、尾張に帰り、織田信長に仕える(「太閤素生記」)。
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・この年~翌1555年、
アントワープ、2つの改革派教会 (フラマン人系 と ワロン人系)成し、カルヴァンと連絡
(アントワープは、ルター派拠点。1550年代、カルヴァンの影響力が強まる)。
カルヴァン派が勢力を拡げた都市:
アントワープ、ヘント(ガン)、ヴァランシエンヌ、トゥルネー。
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・フランス、後の宰相ミシェル・ド・ロピタル、財務総監就任。
アンリ2世妹ベリー公妃(マルグリット・ド・フランス)の大執事から請願聴聞官を歴任して。
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・イングランド、メアリー1世、異端者火刑法復活。1401年ヘンリ4世の異端者火刑法を復活、新教徒を次々告発。
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天文23(1554)年1月
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1月5日
・カール5世より婚約取り決めの使節、スペインからロンドンに到着。メアリー女王とフェリペ皇太子との結婚予定発表。
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1月20日
・信長の村木攻め。
18日、斎藤道三軍(武将安藤伊賀守守就)1千、那古野城着。留守中の那古野城を守備。
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岡崎城を拠点に尾張を狙う今川義元軍が重原(知立市)に進出、水野信元の緒川城(知多郡東浦町)攻略の為に村木(知多郡東浦町)に出城を築く。
寺本城(半田市)は人質を出し今川方となる。
緒川の信長方水野信元が今川勢力に包囲される形勢。
信長は水野信元救援のため村木城攻めを企図、留守中の那古野城が清洲坂井大膳らに攻撃されるのを懸念し、斎藤道三に那古野城守備の援兵を請う。
道三は信長の要請を容れ、安藤守就と兵1千を派遣、日々情勢を注進するよう命じる。
20日、美濃衆が到着、志賀・田幡両郷に布陣し、那古野城の留守居として配置される。
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1月21日
・信長軍2,500、那古野城を出陣。信光も同行。熱田泊。前日、宿老林佐渡・美作兄弟は荒子城へ退転。
22日、悪天候をついて熱田湊出帆。知多横須賀着。
23日、緒川着。水野信元と合流。
24日早朝、信長軍、緒川発。午前8時頃、村木城攻撃開始。東の大手口を水野信元500、西の搦め手口を織田信光、南側の濠の深い難所を信長2,500が担当。
信長自ら狭間3つの攻撃を受け持ち、鉄砲を取り替えながら射撃。
9時間の激戦後、午後5時、城側から申し入れ村木城落城。
25日、那古野に帰陣。
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「若武者共我劣らじとのぼり、撞落(ツキオト)されては又はあがり、手負・死人其数を知らず」・・・
「信長御小姓衆歴々其員(カズ)を知らず手負・死人、目も当てられぬ有様なり」(「信長公記」首巻)。
若手旗本衆の命知らずが信長を支える。
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21日の出陣に際し、首席宿老林秀貞と実弟美作守が、美濃衆が那古野城留守居を任されたことに対する不満からか不服を申し立て、与力前田与十郎の荒子城に退く。
21日、信長は那古野を発ち、熱田に泊り、翌22日大風の中を知多半島西岸に渡り、直ちに緒川に着陣。
24日払暁、駿河衆が立て龍もる村木城を攻撃。信長は小姓衆に多くの犠牲者を出すが、城を落とす。
翌日は寺本城にも軍勢を送って麓に放火させ、那古野に凱旋。
この攻城戦で、信長が鉄砲を用いて城の狭間を攻略することを命じた記事が『信長公記』首巻に見える。
信長が実戦に始めて鉄砲を使用したものと思われる。
「鉄砲取りかへ放させられ」(鉄砲を交替しながら撃つ)という戦術は、当時の砲術の常識であったという。
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1月26日
・信長、斎藤道三が派遣した安藤陣を訪れ、留守居の礼を述べる。
翌日、安藤は美濃へ帰陣、強風豪雨を冒しての村木攻めの顛末を語る。
道三は、「すさまじき男、隣にはいやなる人にて候よ」と洩らす(「信長公記」)。
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「★信長インデックス」をご参照下さい
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知多郡東浦町
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