天文22(1553)年8月
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8月1日
・霊山城陥落。
三好長慶と畠山高政・安見直政の河内軍計2万5千、下鳥羽~東寺から入京。
細川晴元、西院院小泉城の包囲解き霊山城へ後退。
義輝は北野~船岡山に後退し戦いを見守る。
霊山城の守兵は、松田監物、近江山中(大津市山中町)の土豪磯谷氏、醍醐三宝院衆徒、内藤彦七ら。両軍鉄砲を撃合う激戦。
松田監物が自殺すると総崩れになり、磯谷らは城に火をかけ山科方面に逃亡。
義輝・晴元、逃亡。
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8月2日、小野郷(禁裏御り御料所)泊まり。3日、山国(禁裏荘園)浄福寺泊まり。5日、近江竜華着。
三好長慶、追撃せず。
8月末、朽木谷の朽木氏を頼る。
長坂口を退く時には奉公衆109人であったが、朽木に向う時には40余に激減(朽木に向う廷臣・幕臣の知行は没収するとの情報のため)。
9日、三好長慶、将軍の官僚機構たる奉公衆・奉行人を逮捕、京都に拉致(「言継卿記」同日条)。また、逃亡した朽木の義輝の許に走った奉行人松田頼隆などの京都の家宅は没収(「言継卿記」10月21日条)。
~1558年12月迄、長慶、将軍・細川氏不在の京都で専制政治を布く。
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「早々三好筑前守(長慶)人数、其の外河内・和泉・大和・摂津・紀伊等人数二万五千計り上洛すと云々。
武家辰の下刻御出陣、舟岡の御座候。
然る処、東山霊山御城は松田監物、三宝院衆、山中の磯谷(イソガイ)等これを持つ。
今村紀伊守(慶満)人数取懸りこれを責む。
今村源七以下五六人討ち死にと云々。其の外十五六人手負これありと云々。
但し松田監物生害すと云々。御城放火し了んぬ。御無念の至なり。その外下大宮通りより其の西又二通り三手に諸家の勢上り了んぬ。
武家山中へ御座を移さると云々。
下衆蓮台野迄罷り向かう、晴元衆此の方の詞に相達し一戦に及ばず引き了んぬ。京中は陣取せざるなり。
東の衆予見物す。
十河(一存)その外河内・紀伊衆一万計りこれあり。大和衆五千未だ付かずと云々。言語道断の見事、目を驚かすものなり。
此の如きの人数御敵に捕られ、あさましき躰たらくなり。
是偏に上野民部大輔悪行の故なり。言語不可説々々々。
終夜北の山上に数百筆火これあり。」(「言継卿記」8月1日条)。
言継は、義輝軍惨敗の結果を、義輝に対し三好との手切れを勧めた奉公衆上野民部大輔の責任として指弾している。
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「竜花より昨宵奉公衆・奉行衆上洛すと云々。
此内松田対馬守(盛秀)・同子主計允(光秀)両人は岩蔵の山本(久政)人数召し籠め城へ上すと云々。
中沢備前守(光俊)・治部大蔵丞(光栄)両人は高野蓮養坊へ請け取り、今暁京都へ送る。別儀無しと云々。
松田九郎左衛門(頼隆)は逃れて竜花へ帰ると云々。・・・此外大和刑部少輔・石谷□市等坂本より上洛すと云々。」(「言継卿記」8月7日)。
長慶は、幕府の政治機構を破壊するため官僚集団の奉行人層や直属軍事力である奉公衆を逮捕、京都に拉致。
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「昨夜高倉(永家=武家執奏)新亜相上洛の由候間、罷り向かふ。見参す。
竜花に於いて祇候の者諸知行分、三好(長慶)相渡すべからざる由申し候間、此の如しと云々。
義輝に違ひ面目を失ふの由申され候い了んぬ。
奉公衆も前(サキ)の御共の時は百九人なり。只今祇候の輩四十余人これありと云々。大概上洛すと云々。大樹(義輝)一向人無しと云々。御不運の至なり。」(「言継卿記」8月14日)。
知行没収との長慶による脅迫に畏怖して従った公家・武家の殆どが離散し、幕府機能は麻痺状態に陥いる。
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長慶の全盛時代(将軍義輝が朽木に亡命している天文末~弘治年間の5年間):
摂津芥川城の長慶の号令は、城・和・摂・河・泉の五畿及び近江・丹波・播磨の一部、本拠讃岐・阿波・淡路に及び、6ヶ国以上を領する一大戦国大名の観を呈す。
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三好政権:
軍の大半は畿内に本貫地を持たない阿波国人が率いる。
京都周辺で長期に軍事力を維持するための財政基盤確立。
①朝廷・幕府・荘園領主とは独自に町屋から地子銭、農村から段銭を徴収。天文18年10月長慶による最初の段銭徴収。抵抗受け徴収不能となり僅かの免除の代償を得るのみ。
②荘園保護政策をとった茨木長隆に対し、長慶は荘園押領を黙認。天文18年以降、近郊の幕府料所・禁裏領荘園の大半が三好被官人に押領される。特に天文22年の義輝の朽木亡命・京都支配放棄はこの動きを加速。膨大な幕領・禁裏領を得た今村慶満は京都で自活可能となり、実質的な山城郡代的存在となる。
③長慶裁許状・禁制・被官人折紙に対価としての礼銭。弘治2~3年、長慶が裁許を下した東寺公文所不正事件では東寺より500貫の礼銭。
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8月5日
'・武田晴信(信玄)、小県郡に出陣、塩田城を攻略し、村上義清は越後に逃亡。
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8月10日
・武田晴信、真田幸綱に秋和(上田の近く)350貫の地を与える。幸綱3男昌幸(7)、人質として甲府に在府。
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8月13日
・ミシェル・セルヴェ、サヴォアを経てジュネーヴ着。カルヴァンにより逮捕される。
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8月15日
・清洲城将坂井大膳、坂井甚介・河尻与一・織田三位と共に尾張松葉城を攻略、織田伊賀守(松葉城将)・織田右衛門尉(深田城将)を人質として信長に「御敵の色を立て」る(「信長公記」首巻)。
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8月中旬
・武田勢1万、川中島布施に宿陣。飯富虎昌・小山田信茂・典厩信繁・真田真隆。
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8月16日
・信長、那古野を出発、愛知郡稲葉地に到着。
守山より織田孫三郎(信秀舎弟)が合流、萱津口を攻撃。
松葉・深田の両城を占領、清洲城を孤立させる。坂井甚介、信長軍の中条小一郎・柴田勝家に討取られる(「信長公記」首巻)。
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8月22日
・英、ノーサンバーランド公ジョン・ダドリー、処刑。
ジェーン・グレイらに対する審決は下されず、その後半年間ロンドン塔内に幽閉されたまま放置。
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9月1日
・第1次川中島の戦い(両陣営一部の局地戦)
長尾勢、武田方前衛拠点布施南方八幡砦攻撃。同日、長尾勢、青砥城落城。3日、青柳一帯放火。会田虚空蔵山城包囲。武田方飯富・小山田隊3千救援に向かうも、4日、落城。
14日、長尾勢退却。武田勢追撃、戦果挙げる。
17日、長尾勢反撃に転ずるが、20日、越後へ撤退。
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9月3日
・松永甚介(長頼)6千(軍監久秀)、丹波篠山波多野の八上城(京都府船井郡八木町)包囲。
18日、宇津郷の三好政勝・香西元成(細川晴元家臣)、桑田郡亀岡の八木城攻撃。城主内藤国貞(松永久秀岳父)、討死。
20日、松永勢、八上城より八木城へ急行し。21日、八木城を奪回。
松永甚介の丹波一国支配権確立。丹波の三好氏(長慶)支配は強化される。
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長頼の武名は八木城奪回で更に上がる。
「足利季世記」には、「落武者(長頼)カク計ヒケル事、武功第一ナリト沙汰シケル」と書かれ、
「細川両家記」は、「堅固なる働ども、見事なるかなと申候なり」と絶賛。
後の久秀の拾頭は、この長頼の戦功がその半ばを占めている。
三好政権の中で軍事的才幹は、松永長頼と十河一存が双壁。
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長頼の八木城奪回後、名義上の丹波守護細川氏綱は長慶の内意を受け、天文23年3月20日、丹波の主要国人に宛てて内藤国貞の跡目は遺子千勝丸が相続した旨を触れ達す。
しかし実態は、長頼が千勝丸の後見として守護代職を継承し、八木城に在城し丹波に号令。
長頼は、八上城の波多野氏も勢力下におき、永禄8年(1565)8月、氷上郡の荻野忠正に敗死するまで氷上郡を除く丹波一円を支配。
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[長慶、畿内近国9ヶ国を支配]
三好氏の勢力圏と部将配置。
山城 細川氏綱(淀城)。
本拠 三好長慶(芥川城)。
摂津 松永久秀(滝山城)。
丹波 松永長頼(八木城)。
和泉 不明(岸和田城)。
淡路 安宅冬康(炬口城)。
阿波 三好義賢(勝瑞城)。
讃岐 十河一存(十河城)。
長慶は分国7ヶ国に一族および松永氏兄弟を置き、軍政長官としての権限を与える。
なお松永久秀の摂津は、播磨三木・明石郡を勢力圏に含み、一存の讃岐には伊予新居・宇麻の東2郡が付属しており、長慶の勢力範囲は、畿内近国9ヶ国に跨ることになる。
この頃これに匹敵する版図を持つのは尼子晴久の8ヶ国だが、長慶の場合は、淡路・阿波・讃岐と海を隔てて3ヶ国に繋がり、また日本の中心地京都を押さえているという特長がある。
長慶はこの領国を、国単位にブロック化し、屈指の城郭に部将を置いて軍政を任せる方式をとる。
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9月15日
・陶晴賢部将宮川房長、兵3千を率いて廿日市の西方の折敷畑山に布陣。
毛利軍の本拠桜尾城に肉薄。宮川房長を戦死させ、首級750余をあげる毛利方の大勝利。
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9月末
・長尾景虎(24、謙信)、兵2千を率い海路上洛。
守護代ながら実質的国主と認められ参内、後奈良天皇拝謁。
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後奈良天皇、先に長尾為景・晴景に下した国内平定綸旨に応じて景虎が成果をあげたことを賞え、今後の武威を励ます綸旨を下す(「弥(いよい)よ勝を千里に決め、宜しく忠を一朝に尽す」べし)。
上杉憲政に駆け込まれ、関東管領跡目を入手した景虎は、その権益の保障を得て、関東・信濃への軍事行動を承認・正当化させる綸旨を得る。
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天皇から伝奏広橋兼秀への交付文。
「平景虎、住国ならびに隣国に於て、敵心を挿(サシハサ)むの輩(トモガラ)、治罰せらるゝ所なり。威名を子孫に伝え、勇徳を万代に施し、弥よ勝を千里に決め、宜しく忠を一朝に尽すべきの由、景虎に下知せしめ給うべし。者(テエ)れば天気に依て言上件の如し(以上の天皇の命を伝奏に言上するものである)
天文廿二年 ゝゝ(奉書官名欠) 進上広橋大納言(兼秀)殿」
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9月30日
・メアリー、異母妹エリザベスを伴いロンドン入城。
10月1日、メアリー1世(メアリ・チューダー、Bloody Mary、37、1516~1558、位~1558)、ウェストミンスター寺院で即位。ヘンリ8世とキャサリン・オブ・アラゴンとの娘。カトリック復帰政策開始。1554年(38)、スペイン王フェリペ2世と結婚。夕方5時隣接するウェストミンスター宮に移る。同日、異母弟エドワード6世の遺体をウェストミンスター寺院に葬るよう命令。
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「★信長インデックス」をご参照下さい
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