天文22(1553)年7月
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この月
・毛利軍、高杉城(三次市)を攻略。城主祝甲斐守戦死。
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7月3日
・三好長慶、高槻芥川孫十郎の再度の謀叛のため芥川城東方の帯仕山を向城にして、これを攻略。
これ以後永禄3年(1560)、飯盛城に移るまで高槻の芥川城が長慶の居城(畿内の政治の中心)となる。
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7月6日
・イングランド、エドワード6世(15、1537~、位1547~)、肺結核で没。
ノーサンバランド公が医物に毒を盛るよう指示したとの説あり。重体の最中、ノーサンバーランド公に説得され、カトリック信者の異母姉メアリーの王位継承を否定し、従姉妹のジェーン・グレイ(16)を後継者に指名。
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7月9日
・ジョン・ダドリー、ジェーン・グレイ(息子の妻)をキングズ・リンの居館サイアン・ハウスに、エドワード6世勅命により王位継承者に指名された旨を告げる。
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7月10日
・エドワード6世没の公表。ヘンリ8世孫ジェーン・グレイ、女王に擁立。
突然のジェインの王位宣言は、政敵の反発を招く。カトリックのメアリー女王出現を恐れていた貴族さえメアリー擁立へと駆り立てる。
ジョン・ダドリーは四面楚歌に陥り、その私兵からも離反され、ジェーン・グレイの王位は9日間で終焉。
19日、ロンドン市長、ノーサンバーランド公の冊立したジェーン・グレイの王位を否定し、ヘンリー8世長女メアリー王女の正当性を宣言。
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7月12日
・尾張守護斯波義統(ヨシムネ)、清州城内で守護代織田彦五郎信友と家宰坂井大膳に暗殺。
この頃、義統と信友は守護実権をめぐり不和、義統は信長を清洲に引入れる策動(「筋目なき御謀叛思食(オボシメシ))たち」」(「信長公記」))をするが、察知した信友は先手を打って義統を襲撃。
義統の嫡子岩龍丸(後の義銀、最後の斯波氏当主)は那古野の信長を頼る。
信長は義銀に200人扶持を与え天王坊に住まわせる(「信長公記」)。
信長は清州攻撃の大義(「守護の敵討ち」)を握る。
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守護斯波義統は、守護代織田彦五郎に奉じられて清洲城内に居を構えているが、その権威は形式的なもので、実権は守護代が掌握。
この日、義続の子義銀が若武者を引き連れて川狩りに出かける。
この間に、坂井大膳ら守護代家の被官は守護館を急襲、義統を自刃させる。
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のち斯波義銀は、吉良・石橋・服部友定と共に今川義元と結び、弘治2年(1556)、信長はこれを国外追放とする。
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7月14日
・細川晴元の手兵、三好長慶牽制のため京都北郊の長坂口・船岡山進出。
山科言継の日記には、晴元軍に丹波下田氏ら土豪の名がみえ、桑田郡山間部の国人・土豪らが多く晴元側についていると推測される。
河内の安見直政らが丹波軍を追い払う。
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7月16日
・この頃より洛中洛外の訴訟の殆どが長慶の摂津芥川城に持込まれる。
この日、山科言継と中御門宣忠、松尾神社と桂川四箇所の用水相論を仲介し、長慶の奉行人鳥養(トリガイ)貞長に書状を送り長慶の裁許を仰ぐ(「言継卿記」同日条)。
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重要な訴状は伊勢貞孝に諮問され、伊勢や政所代蜷川親俊が答申案を作成して長慶に報告。
長慶か長慶被官人が裁許。
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山科言継夫人の実家葉室家の所領の洛西葉室郷(西京区山田葉室町付近)より言継の許へ人を寄越し槍を借用に来る。
桂上下・葉室・河島・郡の桂川中流域四郷と松尾社領山田郷(同区山田)との間で用水相論が勃発し、一両日中に双方で合戦に及ばんとする為という(「言継卿記」7月11日条)。
言継は叔父中御門宣忠(言継の養母は中御門宣胤女)と共に仲裁に動き、16日、葉室郷に松尾社務東相光(トウノスケミツ)を招き和談を行う。
その後、郡城の土豪中路氏らに中分の線で裁定案を打診する一方、言継・宣忠両名は飛脚を以て芥川城の三好氏奉行人鳥養貞長に宛て、書状を認める(「同」16日条)。
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「松尾社家と四ケ郷用水相論の儀、既に糺明に及ぶべきの由候。
隣郷の事に候間、中分を以て落居し候様に候わば然るべく候けつ歟。
両人の申す事如何の様に候と雖も、左右方別して存じ候子細候間、此の如く候。
此の由筑前(長慶)へ申され、無事たるべきの段、専一に候。
なは小泉山城守(秀清)・中路若狭守申さるべく候。僅言。
天文二十三年 七月十六日 言継 (中御門)宣忠 鳥養兵部丞殿」。
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言継と宣忠は中人(在地裁判権行使者)の立場にあり、仲裁案は言継らの手で作成されたが、それが郡・西院という長慶被官の居城主に申達され、最終的には長慶の権力によって保障して欲しいと願い出て、その紛争解決の最終的保証を三好長慶の権力に求め、自分らの調停案のより強力な権威付けを要請。
畿内における上級裁判権が、幕府権力に代わり、三好政権に移行していること、
また、長慶という最高権力者から支城主を通じて在地領主に順次委任されている仕組が窺える。
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7月18日
・安食の戦い(成願寺の戦い)。「柴田権六中市場合戦の事」(「信長公記」)。
守護代家の居城清洲には守護の斯波義統(ヨシムネ)が館を構えているが、7月12日に坂井大膳らに急襲されて自刃。
信長、弟勘十郎の家臣柴田勝家らに清州城(守護代織田彦五郎と家宰坂井大膳)を攻撃させる。
勝家軍は山王口で清州方を破り、清州方は安食~成願寺で応戦、ここでも破れ城内に逃げる。
清州方の河尻左馬丞・織田三位ら30騎、戦死。清洲の織田彦五郎と坂井大膳は孤立(「信長公記」首巻)。
翌年4月、清州陥落。
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「武衛様(斯波義統)逆心思食立(オボシメシタツ)といヘども、譜代相伝の主君を殺し奉り、其因果忽ち歴然にて、七日目と申すに各討死、天道恐敷事共なり」
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7月20日
・京都の風流踊の町々の趣向は次第に凝らされ、華美を競い合うようになる。
この日、山科言継は禁裏御大工の番匠の伴二郎を呼びよせ、室町衆の風流を禁裏に推参させ堂上の観覧に備えるよう指示(「言継卿記」同日条)。
翌日内裏に推参した下京町衆の風流は、能楽「紅葉狩」から趣向をとった囃子物であった(「同」同日条)。
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7月23日
'・武田晴信嫡子太郎、足利義輝より偏諱をうけて、義信と名乗る。
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7月25日
・武田晴信1万、進発。28日、佐久郡内山城。30日、望月城。8月1日、小県郡長窪城・和田城。4日、高島屋城、陥落、全滅。5日、村上義清の拠る塩田城、落城。義清、越後へ落ちのびる。
塩田の16外城全て陥落。塩田平占領。
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7月28日
・細川晴元、晴元を赦免して共に長慶を討たんとの将軍義輝の御内書に応じ、丹波の全兵力1千余で京都侵入。将軍義輝と反長慶同盟。
山門・醍醐寺等の衆徒も動員され、長慶・久秀屋敷を焼き打ち。
29日、丹波の内藤彦七・香西元成らは幕府に出仕し義輝の激励を受ける。
30日、晴元3千、洛中の有力拠点西院小泉城を包囲攻撃。
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山科言継は下御霊神社辺りで攻防戦を観望。
「今日西院小泉城責めらると云々。昨日下京中へ結橋(ユイバシ)一町より二つ宛(ズツ)これを懸けらる。各持参、城の近所へ取り寄せらる。巳の刻計り武家(足利義輝)御出陣・・・、内藤(彦七)以下人数三四千人計り城を取り巻く。但しこれを責めず・・・。切々武家として仰せ出され候と雖も、人数損ずべきの由存ずるけつ歟。終にこれを責めず。」(「言継卿記」)。
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義輝は下京町中に竹木で組んだ仮橋まで徴発して包囲網を敷くが、攻め手の武将内藤彦七らは損害を恐れて強攻せず、その間に三好軍先鋒が到着、義輝勢は戦機を失い、翌日は霊山城も落とされる。
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結橋を攻略手段に用いている事から推定して、西院小泉城もまた相当規模の環濠式の平城の形態をなしていたと思われる。
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****この西院小泉城の場所は確定されていませんが、私の実家から100~200mの辺りと比定されているようです。
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「★信長インデックスをご参照下さい
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