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2月
・第3次河東一乱。
北条氏康、再び駿河の河東地域に出陣。今川義元は再び甲斐の武田信玄に援軍を要請
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2月12日
・イングランド、「9日女王」ジェーン・グレイの処刑
前年7月に在位9日で廃位された前女王ジェーン・グレイ(17)と夫ギルフォード、処刑。
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メアリー1世、ジェーン・グレイにカトリックへの改宗を条件として罪を許すと伝えるが、ジェーンは拒否。
メアリーは、更に3日の猶予を与えるが、ジェーンは女王の心づかいに感謝しつつ、最後の助命提案を固辞。
仲介役を務めた司祭フェケナムは、ジェーンの気高さと勇気に強い感銘を受け、彼女の処刑の場まで付き添う。
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2月24日
・カルヴァン、「真の信仰を維持するための宣告」。
ミシェル・セルヴェ処刑への批判に対する自己弁護。
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3月
・陶晴賢、石見三本松城(島根県鹿足郡津和野町)の吉見正頼(大内義隆の姉婿)を攻撃。
陶軍傘下の益田藤兼、阿部郡北部の吉見方の出城を攻め落とす。
正頼は、元就に支援を要請。晴賢も元就へ同様の加勢を求める。
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3月
・武田・今川・北条の三国同盟成立(善徳寺(富士市)の会盟)。
駿河今川家の外交僧兼参謀長太原崇孚(雪斎)が動く。
既に、武田と今川(甲駿同盟)、武田と北条(甲相同盟)があり、今川と北条を結べば「甲相駿三国同盟」となる。
今川義元の娘が武田家嫡男勝頼の正室に、
武田信玄の娘が北条家嫡男氏政の正室に、
北条氏康の娘が今川家嫡男氏真の正室に、
この三家の婚姻関係が伴う同盟。
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・イングランド、メアリー1世、フェリペ皇太子の代理使節エグモンドを通して仮結婚。
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3月
・セバスチャン・カステリョン、「異端者について、即ち異端者は法の裁きを受くべきや、且つ異端者はいかに取り扱われるべきや」。
「異端」の権利・自由検討の権利を主張する23人の説を収録。ルター、エラスムス、若い頃のカルヴァンなど。
異端者に世俗の刑を下すことの非、寛容主義を訴える。
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3月11日
・アランソン公フランソワ、誕生(アンリ2世とカトリーヌ・ド・メディシスとの子、1554~1584)。
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3月20日
・名目上の丹波守護細川氏綱、八木城内藤国貞の跡目を嫡男千勝丸に相続させる。
松永甚介は後見人として守護代の実権掌握。
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三好長慶の支配体制:
摂津三好長慶(芥川城)、西摂津と東播磨松永久秀(滝川城)、丹波松永甚介(長頼)(八木城)、山城細川氏綱(淀城)、淡路安宅冬康(洲本炬口城)、阿波と・伊予東2郡三好義賢(勝瑞城)、讃岐十河一存(十川城)。
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4月2日
・越前南条郡妙法寺(現在は廃寺、武生市妙法寺町にあったとされる)、十刹に列せられる(「鹿苑日録」同日条)。
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五山派寺院は戦国期には一般に衰退に向かうが、妙法寺の場合は寺勢を盛り返す。
天文13年(1544)3月17日、日円寺(夢窓の兄弟弟子の元翁本元を開山とし、同じ諸山に列せられている)に比べて、より上位に列せられるよう僧録の鹿苑院へ願い出る。
翌日鹿苑院僧録は、諸山に上下の位次はなく、僧侶の席次は公文を受けた順によると返答書を送る(「鹿苑日録」同日条)。
その後も妙法寺は日円寺よりも上位の位次を求める運動を続ける。
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4月11日
・イングランド、メアリー1世の結婚に反対して反乱のトマス・ワイアット、処刑。
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4月12日
・三好長慶・松永久秀、丹波桑田郡へ出陣、三好政勝方の小城を攻め落とす。
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4月12日
・スコットランド、マリー皇太后(フランス・ギーズ家出身)、スコットランド女王メアリー・スチュアート(在フランス)の摂政就任。
①親フランス政策に基づき、フランスのスコットランド駐留部隊の強化、
フランス人の国家官吏登用等が行われたことへの反感から、国内には次第に親イングランド派勢力が増幅。
②イングランドの狂信的カトリック女王メアリ・チューダーが国内のプロテスタントへの処刑・追放政策を進めているため、皇太后マリーはカトリック教徒であるが、敵国を分裂させるために敢えてイングランドのプロテスタント達を匿う。
このプロテスタント融和政策により、1547年セント・アンドリュース城陥落以来フランスに囚われていたジョン・ノックス(49年釈放。後、スイスでカルヴァンの教えを受ける)等プロテスタント指導者もスコットランドに帰国、公然と説教を行う。
国内のプロテスタントは急増、57年にはモートン伯・アーガイル伯・グレンケアン伯等のプロテスタント貴族が「信仰盟約」を結び、スコットランド独自の新教会の創設を提議。
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4月19日
・織田信光、守山城を弟信次に預け、清洲城「南櫓」に居を構える。
清洲の家老坂井大膳、劣勢克服のため信長の叔父の守山城織田信光を呼び込み、信長・信光の離間を目論む(彦五郎と信光とで守護代を務める条件)。
信光は信長と通じた上で行動。信長が、信光を送り込み、内から清洲を攻め取るという謀略。信長は信光に下4郡中2郡の割譲を約束。
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織田信光:
信長の最年長の叔父。守山城主。
家督相続後、鳴海城主山口教継の背反・清州城の敵対などの中で、信光は信長の後見役となる。
この年11月26日、家臣坂井孫八郎に暗殺(信長の謀略と推測できる)。
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4月20日
・信長(21)の清州城乗っ取り
信長叔父織田信光、矢倉に挨拶に来た坂井大膳の兄坂井大炊助殺害。大膳は城から逃亡、駿河今川義元を頼る。
信長、信光と一手になり清州城攻撃、陥落。守護代織田彦五郎を殺害(森可成が織田彦五郎を討ち取る、又は切腹など異説あり)。
信長、信光に河東2郡(愛知郡・知多郡)と那古野城与える。
信長、清州城を居城とし海西郡・海東郡を得る。
信長は、家督を継いで2年で尾張の守護所であった清州城主となる。
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信長の清須城攻略
戦国時代の尾張国は、守護を斯波義統(武衛様)、守護代は上四郡を織田信安、下四郡は織田連勝が務め、信長の父信秀は連勝の3奉行の一人。清須城に守護斯波義続と守護代織田連勝が在城している。
信長は、「謀叛」にならぬよう慎重な配慮のもの二度の清須城の内紛に乗じてこれを乗っ取る。
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天文22年(1553)、連勝の守護代後継信友が守護義続を自害させ、その子岩竜丸(若武衛様、後の義銀)が信長を頼り、信長は大義名分「守護の敵討ち」を得た上で守護代攻めを行う。
また、この年(天文23年)の清須城乗っ取りは、信長の叔父信光が実行し、信長は信光から清須城を譲り受ける形になっている。
直後に信光が急死するが、信長が主君に直接手を掛けていないことは重要。
そして、義銀を「国主と崇め」て清須城に迎え、信長自身は「北屋蔵へ御隠居」する。
義銀が、吉良・石橋・服部友定と共に義元と結ぶと、弘治2年(1556)、信長はこれを国外追放とするにとどめ、生命を奪いことはない。
このような守護・守護代への態度は、後の足利義昭に対する態度にも共通点が窺える。
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主君による「御謀叛」:
守護斯波義銀の今川への密通を、「信長公記」は「御謀叛」と表現する。
「神皇正統記」が、承久3年(1221)の承久の乱を後鳥羽上皇の「御トガ(咎)」とし、元亨4年(1324)の後醍醐天皇による正中の変が「主上御謀叛」とするように、中世社会では主君による「御謀叛」はありうるものである。
「信長公記」では、天文22年(1553)に守護斯波義統が信長と結んで守護代織田連勝排斥を企てたことが露見し、逆に守護代方の兵に攻められて自害したことを、「主従と申しながら、筋目なき御謀叛恩食(オボシメし)たち、仏天の加護なく、か様に浅猿敷無下無下と御果候」と述べ、「御自滅と申しながら、天道恐敷次第なり」とする。
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たとえ主君でも「筋目なき御謀叛」には「仏天の加護」(=正当性)はなく、「天道恐敷次第」である。
「筋目なき御謀叛」とは、たとえ臣下が権勢を誇って「諸侍手に付け進退」するなど実権を握っていても、主君を「国主と崇め」て「守立(モリタテ)」ているにも拘わらず、その臣下を排斥しようとすることをいう。
つまり、主君はその地位を保証されている限り、実権の有無に拘わらず、臣下の排斥を企てればそれは「筋目なき御謀叛」とみなされて、「御自滅」という「天道恐敷」き結末を迎えることになるという。
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しかし、臣下も自由に振る舞える訳ではない。
守護義統を自害させた守護代連勝の家老坂井大膳・河尻左馬丞・織田三位は、義続の子岩竜丸を迎えた信長とに敗れ、河尻左馬丞・織田三位は討死する。こ
れを「信長公記」は、
「武衛様逆心思食立といヘども、譜代相伝の主君を殺し奉り、其因果忽ち歴然にて、七日目と申すに各討死、天道恐敷事共なり」、
とする。
たとえ主君が「逆心」(「筋目なき御謀叛」)を企てようとも、臣下が「譜代相伝の主君」を殺害することは、「天道」(「仏天の加護」、正当性)はなく、「其因果」はたちまち現れて自滅となってしまう。
臣下は、「譜代相伝の主君」の「筋目なき御謀叛」に対して、主君を「殺し奉」ることは「天道恐敷事共」であるからそれを避けなければならない。
従って、後に足利義輝が「筋目なき御謀叛」を企てたかどうかは不明であるが、主君を白昼堂々暗殺した三好義継・松永久通は批判される。
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「★信長インデックス」をご参照下さい
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