天文23(1554)年9月15日
・折敷畑(廿日市)の合戦。
陶隆房(後の晴賢)、山代十三郷の監軍宮川甲斐守房長に将兵3千を与え安芸攻略に先発させるも、大敗。宮川甲斐戦死。
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9月29日
・毛利元就、安芸能美島を占領、飯田氏の水軍が付近を警護。
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10月
・毛利両川(吉川元春・小早川隆景)、兵2万で大友方門司城(城督仁保就定)を攻略。
13日、大友義鎮、毛利氏に反撃するべく、戸次・田原・臼杵・斉藤・吉弘ら兵1万5千を派兵。大友軍と毛利軍の初対決。
15日、毛利軍総崩れ。門司城は再び大友氏のものとなる。
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10月4日
・北条氏康、松田憲秀に7千騎を与え、古河公方足利晴氏の下総古河城を攻めさせる。
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10月5日
・北条氏康、真田幸隆(42)に吾妻郡在城を要請。
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10月12日
・三好長慶、堺より淡路に渡り炬ノロ城で弟3人(淡路の安宅冬康、讃岐の十河一存、阿波の三好義賢)と対面、播磨出兵など打合せ、夫々の本国での出兵準備にとりかからせる。
下旬、芥川城に戻り、28日に上洛、小泉城の今村慶満らから京洛の状勢を聴取。
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11月1日
・尼子晴久、叔父国久の率いる新宮党を全滅させる。
国久の長男誠久の四男孫四郎(2)は乳母の手で脱出。
のちの尼子勝久。山中鹿之介らが尼子家再興のために奉じる。
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11月2日
・阿波の三好義賢の家来篠原長房先手1千、播磨攻めのため撫養を出て船上(明石市)に上陸。
11日、三好長慶先手3千と合流し、明石氏の籠城する明石城包囲。持久策をとり越年。
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阿波の勝瑞城では、阿波軍先鋒に篠原長房を任命。
「昔阿波物語」によれば、長房の父祖は近江篠原(滋賀県野洲市小篠原)出身で、多賀社の神官の従者として阿波へ下り、土着したと云われる。
長房の祖父宗半は三好之長に仕え、訴訟事務に才能を現した。
長房は、この宗半の子大和守の2男。
長房が畿内で活動するのは、この天文23年冬の播磨出陣が初めてで、以後三好義賢・長治父子によく仕え、長慶没後は三好三人衆政権を1人で支え、阿波・讃岐を確保し続ける。
戦国家法「新加制式」の制定者(陪臣ながら分国法の制定者となるのは長房1人)。
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11月7日
・北条氏康、関東の実権掌握。
叛した古河公方足利晴氏・藤氏を下総国古河城に攻め自領波多野(秦野市)に幽閉。
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藤氏の異母弟の義氏(母は北条氏綱の娘)を古河公方に据えてこれを傀儡とし、その権威をかりて自らの権力を補完する体制を整える。
関東管領上杉憲政の越後亡命とあいまって、北条の勢威は関東を制圧。
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11月11日
・赤松義祐、安宅冬康の加勢を得て細川晴元の属城明石城を攻める。
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11月16日
・信長、祖父江五郎右衛門へ俵小船1艘の諸役免除を安堵。
20日、信長、安斎院(曹洞宗曹源山)へ居屋敷・寺領を先規の如く安堵。
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信長は、安斎院への安堵状に「上総介信長」と署名。この「上総守」や「上総介」は、正式に朝廷から任官したものではなく自称。
尾張の中心地である清洲城を奪取し、次いで自称とはいえ受領名を称したことは、この頃から領国支配に係わる文書が増加することとも関係して、戦国大名としての経営基盤が固まりつつあることを窺せる。
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11月28日
・信長の叔父孫三郎信光、那古野城で家臣の坂井孫八郎に殺害される。
宿老の林秀貞に那吉野城を守らせる(「定光寺年代記」「信長公記」)。
「甫庵太閤記」は、信光の近習坂井孫八郎が、信光の妻との密通が露見するのを恐れて弑逆したと伝える。
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12月
・武田晴信の娘(黄梅院)、北条新九郎氏政に嫁ぐ。
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12月5日
・北条城の戦い。
上杉謙信の重臣北条城(刈羽城、柏崎市北条)城主北条高広、武田氏に内応、挙兵。
謀反は上杉方の事前察知により失敗。
謙信の信濃出兵、第2次川中島の戦いの要因となる。
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12月12日
・千利休、今井宗久の会に始めて招かれる。
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12月17日
・フランス、アンブロワーズ・パレ、同業の外科医の懇望により外科学博士試験受験、合格。博士にするため周囲は様々な「準備」。
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12月20日
・武田晴信、知久平を下条氏に安堵する。
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「★信長インデックス」 をご参照下さい。
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