2010年10月13日水曜日

明治6年(1873)8月19日~9月2日 京都府庁の長州閥、槇村正直救済のため木戸工作に暗躍 植木枝盛(16歳)、海南私塾退学 黒田清隆開拓次官、樺太出兵を建議  [一葉1歳]

明治6年(1873)
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8月19日
・木戸孝允、内治優先の意見書を提出。
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同日
・京都府権典事木村源蔵、麹町富士見町の木戸孝允を訪問。
翌20日、京都府参事槇村正直が訪問。
木村源蔵は、拘留されている関谷生三(庶務課長兼典事(8等官)から大属(10等官)へ降格)の後任。
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8月21日
・木戸、西郷を訪問し長時間懇談。
「十一時西郷老人を訪ね談話数時」(「木戸日記」)。
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8月24日
・京都府、少監察脇田従人を20日付で免職と京都裁判所に知らせる。2月9日、窃盗容疑で捕えた商人徳兵衛を拷訊したが自白させられず、辞職願いが出たためとの理由。
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8月29日
前大蔵大輔井上馨前工部省鉄道頭井上勝前大蔵省造幣権頭益田孝ら、秋田県鹿角郡尾去沢銅山到着。
案内役は瀬川安五郎(かつて古河市兵衛とともに小野組番頭、鉱山持ち、秋田油田も開発)。
○井上勝:
長州、文久3年イギリスへ密航留学、明治元年11月帰国、鉄道技官、明治4年8月鉄道頭、この年7月辞職。
○益田孝:
文久3年幕臣の父に従いヨーロッパへ、維新後貿易商、井上馨のすすめで大蔵入り、大阪で造幣権頭となるが、井上・渋沢と進退ともにする。
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8月29日
・槇村半九郎・児玉淳一郎、木戸孝允を訪問。
○児玉淳一郎:
槇村正直と幼馴染、気鋭の代言人、三井組の石油輸入の法律顧問、陸軍会計御用掛三谷三九郎(長州)の公金使い込みのスキャンダルでは辣腕振るう。
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8月30日
・太政官正院、10日付の京都府知事・参事の長谷・槇村逮捕許諾請求に関して司法省へ指令。
両名を推問し、不都合あれば糾弾する。捕縛は見合わせる。
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8月31日
・京都府顧問山本覚馬、木戸孝允を訪問。
木戸は小野組転籍拒否事件が小野組御用達御免事件であることを知る。
木戸は、ようやく京都府参事の槇村正直のかかえる問題が、「山城屋和助事件」「三谷三九郎事件」のようにな深刻な金銭スキャンダルであることを理解する。
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9月
・川路利良、新警察制度の意見書。明治5年9月より欧州調査。
(改行を施す)
「夫れ警察は国家平常の治療なり、故に養生に於けるが如し
是を以て能く良民を保護し内国の気力を養ふものなり。
一世『ナポレオン』是なり。
方今『フロイセン』の四方従へ威武を世界に輝かせしも、警察を以て能く内外を治め、常に能く外を切り国の事情を探れり、故に『フランス』の強国も終に破られたり。
然れば国を強くし海外に接する、必ず先づ此の設けなかるべからず。・・・ 
一、西洋各国に於て其の首府の警保寮は直に内務省に属し、府下の警保を管掌せり。
其の他の府県は其の長官此の権を兼ぬ。
故に内務省内に安寧局ありて、内務卿に関する全国の警保事務を取扱ふ(警保寮に非ず)。・・・
一、若し司法・行政の両権を分明にする時は、内務省を置き、内務卿全国行政警察の長となり、首府の警察令此の権を府下に行ひ、其の他の府県は知事令に於て警察令の権を兼ね、首府の警察令をして是を奉行せしめ(司法警察に付て検事の探索・捕亡等必ず警部に依る。所に寄り警部或ひは検事の職を代理す)、司法卿は全国司法警察の長となり、各裁判所の検事是の権を奉行す(検事の探索・捕亡等、内務官下の警部に依ること前注に云へるが如し)。
是れ欧州各国の例たり。
方今吾邦内務省なし。
故に姑く警察寮を司法の管下と し、其の事務は行政警察の職を掌り、直に太政官の指令を奉し、隠密警察等正院監部の職掌を移して警保寮に委任せば、梢欧州の体裁に庶幾からん。 ・・・ 
一、邏卒の職、平常には司法地方の警察を勤むと雖も、止むを得ざれば銃器を取りて兵となる。
因て各国の警保寮には銃器を予備せり。
是れ全く事あるに臨んで、警察の権力を以て鎮静するを要し、漫りに兵を動かすを恥るなり。
故に地方の一揆・暴動には、警保寮に於て人数を操立るの権あるべし」(「警視庁史編纂資料」)。
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この月
・外国人用横浜グランドホテル開業。
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9月上旬
・マルクスとエンゲルス、ラファルグと共に小冊子「社会民主同盟と国際労働者協会」発行。
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9月1日
・司法職務定制、施工。
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9月1日
植木枝盛(16歳7ヶ月)、海南私塾退学。東京で独学。~11月14日迄。
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この年2月に東京の山内家私邸内に開設された「海南私塾」選抜される。
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「海南私塾」:
明治5年3月親兵を廃止して近衛兵を置くことになった際、土佐藩が親兵の爲に負担していた費用約3万円が余ることになった。当初、これを親兵の隊士に分与することにしたが、隊士らが別の方法で活用するよう提言したため、海南私塾が開設されることになる。
海南私塾の位置付けは、政府の兵学寮入学のための予備学校。
学科はフランス語と兵学で、教師はフランス人。生徒20名のうち10名は土佐兵学校のもと生徒で、残り10名は枝盛ら選抜きれた生徒。
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枝盛が生涯書き続ける日記は、土佐出発のこの年2月15日に書き始められる。
その日記によれば授業は3月14日から始まっている。
しかし海南私塾の授業内容は彼の素志と違っていた。
「予は只だ有用の学を修めて社会の人傑と為らんことを期す、去れど軍人と為りて志を立つることを願望せざるなり」(「自伝」)。
学校の目的が素志と違っていたので気が乗らず、関係者の忠告や制止を振り切って退学した。
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ただ、退学理由については、「あるいは外国語の学習に手を焼き、口実を他に設けて退学を敢行したのではあるまいか」(家永三郎)との推測もある。
枝盛には外国語を習得出来なかったことと、代言人試験に失敗したという二つの大きな挫折があるという。
しかし、彼は11月14日まで東京に滞在して読書に励む
(9月3日から「閲読書日記」を書き始める)。
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海南私塾退塾から年末に土佐へ帰郷し明治7年の1年間は郷里に留まり、8年には再度上京する。
「閲読書日記」に見る読書傾向
法律書が圧倒的に多い。
「性法略」(神田孝平訳)、「合衆国収税法」(立嘉度訳)、「憲法類編」(明法寮編)、「合衆国憲法」(林正明訳述)、「仏蘭西法律書」(箕作麟祥口訳)のうち憲法、民法、刑法、「和蘭政典」(神田孝平訳)、「泰西国法論」(津田真一郎訳)、「英国刑典」(鈴木唯一、後藤隷吉共訳)、「国法汎論」(加藤弘之訳)、「和蘭邑法」(神田孝平訳)、「英国商法」(福地源一郎記述)、「万国公法」(西周助訳)、「洋律約例」(大築拙蔵訳)など。
つぎに欧米の歴史地理に関するもの。
「東洋史略」(岡田輔年訳述、クッケンボス「米国史」などによる)、「魯国事情」(塚原靖訳、チャンプルの「百科辞典」などによる)、「万国新史」(箕作麟祥纂輯、チャンプル、デュリュイなどによる)、「泰西史鑑」(ウェルテル著、西村茂樹重訳)、「西洋史記」(ダニ-ル、村上義茂重訳)、福沢諭吉「世界国尽」「西洋事情」など。
政治経済に関するもの。
「致富新書」(米国ブラウン著、平田一郎校正)、「泰西新論」(林正明著)、「政治略原」(何礼之訳)、「経済原論」(緒方正訳)、福沢諭吉「英国議事院談」、加藤弘之「立憲政体略」「新政大略」、「自主新論」(高橋達郎纂輯)、「民選議院集説」(桜井忠徳編)など。
また、自然科学関係の書物としては、「博物浅解問答」(柳沢信大訳)、「登高自卑」(村松丘粛編)「物理楷梯」(片岡淳吉編)などを読んでいる。
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9月2日
黒田清隆開拓次官、樺太出兵を建議
同日、西郷、黒田に同調するかのような手紙を送る。
しかし、13日、西郷は出兵決定の可能性は低く、朝鮮問題に支障が出るのを懸念して消極的意向を示す(朝鮮問題優先)。
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2日、樺太問題担当の開拓次官黒田清隆は、樺太現地における日露間の紛争に対応して出兵するよう建言。
同日、西郷は、黒田に手紙を送り、
「樺太の条件御申し立て相成り候由、雀踊此の事に御座候。貴兄の御持場に事始まり候えは朝鮮処(ドコロ)にてはこれなく、直様振り替え侯心底に御座候」
と、朝鮮問題から樺太問題に乗りかえてもいいような口ぶりを見せる。
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この書簡を収載蔵している『西郷隆盛全集』第3巻の解説は、「西郷は朝鮮への使節派遣の牽制ともうけとれる、不審な黒田の心底を見抜いてこのような返事の書簡を書いたものと思われる」とする。
しかし13日には、黒田宛書簡で、
「御建白の一条・・・御評議に相成り候程合いも覚束なく、・・・迚(トテ)も護兵の処迄にも参り兼ね侯わん」
とし、樺太問題に深入りすれば、
「朝鮮の処迄も崩れ候ては、頓(トン)と蔵(クラ)がめあがり申すべき」
と、朝鮮問題に故障が生じては困るとの理由で黒田の樺太派兵論に消極的な意向を示し、朝鮮問題を優先させるとした。
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しかし、西郷は、朝鮮問題と樺太問題とを切り離して考えてはいなく、むしろ、両者は密接に関連すると理解していたと思われる。
明治7年1月9日付の旧庄内藩士酒井玄蕃の筆記。
西郷は、
「今日の御国情に相成り侯ては、所詮無事に相済むべき事もこれなく、畢竟は魯と戦争に相成り侯外これなく、既に戦争と御決着に相成り候日には、直ちに軍略にて取り運び申さずば相成らず、只今北海道を保護し、夫にて魯国に対峙相成るべきか、左すれば弥(イヨイヨ)以て朝鮮の事御取り運びに相成り、ホッセットの方よりニコライ迄も張り出し、此方より屹度(キツト)一歩彼の地に踏み込んで北地は護衛し、・・・
兼ねて掎角(キカク)の勢いにて、英、魯の際に近く事起こり申すべきと・・・能々(ヨクヨク)英国と申し合わせ事を挙げ候日には、魯国恐るに足らずと存じ奉り侯」と語る。
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ロシアとの対決は必至であろうが、北海道を防衛するだけではロシアと対抗できないと思われるので、朝鮮問題を解決し日本が積極的に沿海州方面に進出し、北地を防衛するのが上策である。
更に、英露対立を念頭に置いて日英提携してロシアに当たれば「魯国恐るに足らず」との世界戦略を示す。
朝鮮問題解決は、対ロシア防衛戦略の第一段階に位置づけられている。
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西郷は、樺太現地での局地的紛争にこだわるよりも、朝鮮問題を早急に片付けて、ロシアへの積極的な対抗体制を作り出すほうが、北方問題の抜本的解決に通じると見た。
朝鮮問題解決を急いだ西郷の念頭には、迫りくるロシアの脅威にいかに対抗すべきかという切実な課題があった。
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9月2日
・正院、太政大臣三条の意向により京都府と京都裁判所の権限争議について臨時裁判所を開いて裁くと閣議決定。
司法大輔福岡孝弟は詰めの甘さを悔やむ。
4月25日京都裁判所長北畠治房の司法省への伺いは臨時裁判所となっていたものを、福岡の正院への上申は司法裁判所(裁判長は司法卿、欠員のため司法大輔)としておいたもの。
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「★一葉インデックス」をご参照下さい
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