2010年12月18日土曜日

弘治3年(1557)2月 大内氏滅亡 島津氏の薩摩統一 第3回川中島の合戦   [信長24歳]

弘治3年(1557)
2月1日
・館林城主赤井照忠、没。嫡男の但馬守照康が相続。
*
2月13日
・フランス、ユグノー弾圧のためアンリ2世(38)、異端審問所設置。
*
2月15日
・武田晴信(信玄)、大軍で長尾景虎方の水内郡葛山城(善光寺西方1里)攻撃。城方全滅。
善光寺を手中におさめ仏像等を奪う。
第3次川中島の戦いの契機となる。
*
2月18日
・能登守護畠山義綱、七尾城に篭城。長尾景虎(上杉謙信)に救援求める。
景虎、食糧を送る。
*
*
3月
・飯山城主高梨政頼、景虎に救援を頼む。
*
・武田晴信(信玄)軍、嫡子太郎義信と左馬介信繁を先陣に総勢1万3千を率い余地峠から上州に侵入を開始。
上州側は長野業政(68)を主将に小幡・白倉・藤田・安中・和田・尻高・後閑等の兵2万で瓶尻原(みかじりはら、碓氷郡松井田町人見付近)に布陣。
武田側の攻撃に、上州側は箕輪城に引き上げ。
信玄は法峯寺口に布陣、箕輪城を攻撃。
上杉謙信が上州支援のために川中島に出兵。
4月24日、信玄は信州に戻る。
*
3月2日
・毛利軍、須々万沼城を再攻撃、陥落。山崎伊豆守父子自刃。
続いて、富田若山城(都濃郡)攻略。陶長房自刃。諸城を落とす。
*
3月12日
・毛利防長遠征軍、防府松崎天満宮に本陣を移す。
*
3月中旬
・武田晴信、信濃深志城着陣。
*
3月23日
・益田藤兼(29)、吉川家(毛利)傘下になる事を申し入れ。
西石見は完全に毛利家の支配下となる
*
3月25日
・伊勢、北畠具教(30)、田丸城で山科言継にあう 。
*
*
4月
・真田幸隆(45)、小山田昌辰と共に雨飾城の在番を勤める。
*
4月2日
・大内氏滅亡
毛利軍、長門勝山城(下関市)陥落。大内氏重臣内藤隆世、自刃。翌日、大内義長、長福院に自刃。
毛利家が周防・長門平定
大内旧領地の北九州は一部を除き大友家が乗っ取る。
23日、毛利軍、吉田に凱旋。 
*
4月9日
・信長(24)、飯田弥兵衛尉宅重に同族彦太郎の跡式などを与える。
*
4月15日
島津氏の薩摩統一
島津貴久、北村城を攻略。
20日、蒲生範清、龍ケ城を捨て祁答院へと逃亡。北薩摩の名門蒲生氏滅亡。
*
4月18日
・長尾景虎(28)、北信濃出兵、武田方占領の山田の要害と福島城攻撃。
21日、善光寺に着陣。
25日、旭山城一帯の武田方砦放火。旭山城に本営。
*
*
5月12日
・長尾景虎、埴科郡香坂の武田勢攻撃。
13日、坂木・岩鼻進出の武田勢2千と交戦。武田軍逃亡。
15日付けの高梨政頼宛ての謙信書状。
「懸け動き候えば、五里より三里先に背北(敗北)候間、打ち捕えざる事、無念この事に候」と、信玄の直接対決回避の様子を述べる。
*
5月14日
・大友義鎮(28、よししげ、宗麟)、書状にて毛利元就(61)に秋月文種征伐を宣言。
毛利氏の山陽地方支配を認めるかわりに、秋月氏への肩入れをひかえるよう求める。
*
5月21日
・大友義鎮の避難所である臼杵丹生島館、出火・焼失。
*
5月26日
第3回川中島の合戦
長尾景虎(上杉謙信)と武田信玄、善光寺の東北4キロほどの上野原で戦闘
*
*
6月
・大友義鎮、豊前攻め第1陣の田原親賢(紹忍)・木付鎮秀を宇佐郡妙見岳城に入れる。
豊前諸将討伐に田原親宏を総大将にして攻め込み、この月山田城(豊前市)、7月馬岳城(行橋市)を陥落。
豊前を平定
この間に、志賀親守・戸次鑑連・田北鑑生等を使い、筑前を平定
中国で大内氏が滅び、毛利元就が勢力伸張。
豊前諸将は、毛利氏に通じたり、独立の動きも見せる。
大友義鎮(宗麟)は、豊前攻め敢行。中心になったのは国東半島の田原一族・木付氏・吉弘氏等。
*
・将軍義輝から甲越和睦(晴信・景虎)の御内書。
晴信は受諾の見返りに信濃守護職を要求。
*
6月1日
・ポルトガル、ジョアン3世、没。6日、孫のドン・セバスティアン(セバスティアン1世)、即位。王妃カタリーナ(スペイン王カルロス5世の妹)が摂政。スペインの影響強まる。
*
6月7日
・イギリス、メアリ1世、スペイン(メアリ夫フェリペ2世)と同盟しフランス(アンリ2世)に宣戦布告。スペイン海軍に15万ダカットの援助を約束。
*
6月23日
・武田晴信から北信の地侍市河藤若に宛てた書簡に、口上の使者として「山本菅助」の名が見える。
晴信の側近に仕え、使番を勤める立場であったことが確認できる。
*
6月下旬
・筑前、秋月文種、毛利氏の勧誘による反大友の反乱。
大友義鎮、総大将戸次鑑連2万を派兵。武将は高橋・臼杵・吉弘・佐伯・志賀・田北・一万田・吉岡・朽網。甘木に集結。
*
*
「★信長インデックス」をご参照下さい。
*
*

0 件のコメント: