明治6年(1873)10月21日
・捕縛必至と言われている前大蔵大輔井上馨、横浜から大阪に向う。
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10月21日
・この日付け「木戸日記」に、「博文また号泣数刻」とある。
この頃の工作は、岩倉・大久保・黒田・吉井友実らが極秘に進め、伊藤のもとには正確な情報が入ってこない。
この日、伊藤は、岩倉が西郷らを支持するらしいと木戸に伝えている。
岩倉・大久保は、木戸らにも企図を秘匿している。
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10月22日
・岩倉を太政大臣代理とする閣議。
西郷・板垣・江藤・副島4参議、岩倉に15日の閣議決定の上奏迫る。
岩倉は、三条と自分は別人なので自分の思うようにする(閣議決定に拘束されない)、閣議決定の上奏とともに自説を添える、と発言。
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岩倉の露骨な違法・越権に対して、4参議は抗議辞職か天皇直訴しか道はなくなる(岩倉は宮内卿兼侍従長徳大寺実則に直訴阻止を手配)。
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大久保は岩倉に「不抜の御忠誠必ず御貫徹あらせられ候事」といい含め、
岩倉=大久保が成しとげた王政復古クーデタで「基本を開」いた政権を、それに参画していない三条・木戸・板垣・大隈・副島・江藤らに渡しておけない、と叱咤。
反対派一掃のためには、西郷の巻き添えも止む無しの決意。
黒田は、大久保に西郷を罠にかけた良心の呵責をを感じる悲痛な反省を告白。黒田は、西郷に対して「恥じ入」り「謝し候様これなく」お詫びの言葉もない、「面皮もこれなく」と悩む。
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大久保の岩倉宛て手紙
「不抜の御忠誠必ず御貫徹あらせられ侯事」といい含めら、
「つらつら往事を回憶すれば、丁卯の冬、御憤発(王政復古クーデタ)一臂(イツピ)の御力を以て基本を開かせられ、終に今日に立ち至り侯ところ、豈図らんや此の如き難を生じ、偶然〔太政大臣代理の〕御責任に帰し候も、畢竟、天賦というべし
…‥実に御太儀ながら御負担下され候様」。
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大久保の真のねらいは、征韓阻止でなく、西郷を巻添えにしてでも反対派を政府から追放すること。 *
岩倉の大久保宛て書簡。
「是非進退を致すの人々これ有り、世上物議も少からず」と辞職者が出ることを覚悟し、
動揺を防ぐために「速に政体改革有無、何とか演舌然るべく」、
「人選御登用の事も迅速の方人心大に定まり」と、
大久保に官制改革の準備を急ぐよう申し渡す。
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大久保に激励された岩倉は、
四参議の要請(「太政官職制」遵守して、閣議決定を上奏する)を断わり、
三条と自分とは別人だから自分の思いどおりにする(閣議決定に拘束されない)と主張。
江藤は、代理者(岩倉)は原任者(三条)の意思に従って事を運ぶべきであると法理論を説明するが、岩倉はこれを聞かず。
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明治7年1月9日、鹿児島で西郷に会った旧庄内藩士酒井玄蕃の談話筆記。
「岩倉が申すには、畢竟、見込み違いの事にこれあり、〔三条・岩倉〕双方〔の見解を〕共に具(ツブ)さに〔天皇に〕奏聞に及び、何分にも宸断次第に仕るべくと申す事に侯あいだ、
〔西郷が岩倉に尋ねて〕夫は如何に〔天皇に〕仰せ上げ候や、
三条が見込を個様々々、私(岩倉)の見込は個様々々、然して三条の見込は天下のため然るべからず、私の見込は天下のため然るべしと仰せ上げられ侯やと申し候ところ、
〔岩倉は〕如何にも其の通りと申され侯あいだ、
さ侯わは私(西郷)は退き申すべしと、夫で事分かれと相成り侯」
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黒田清隆の大久保宛ての手紙。
「今日に立ち至り、退いて篤と我が心事追懐つかまつり候に、
大いに西郷君へ対し恥じ入る次第、
……西君(西郷)とはかねて死は一緒と、
また従来恩義もあり、
旁(カタガタ)我が心を向えは面皮もこれなく、止むを得ざるの策とは申しながら、如何して同氏へ謝し候様これなく恐れ入るのみにて……」
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10月23日
・岩倉太政大臣代理、西郷派遣決定を上奏。
但し、もし使節に万が一のことがあれば、後事が続かないので、不可とすべきと信ずる、と代理としての個人的意見を奏陳。
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欧米歴訪によって、条約改正による国権の回復が「意料の外」困難であって、「功を-朝-夕」に奏しえないと痛感した、
したがって「成功を永遠に期し、驟進速成を求むるなく、大にこれが目的を定め、不動不撓政治これ理し、民力これ厚からしめ、以て其の実効を立て其の実力を用い以て国権を復」すことが肝要である、
維新以来日浅い今、「軽く外事を図る」べきではない、いわんや朝鮮に「使を発するの日、乃(スナア)ち戦を決するの日」であり採るべきではない。
「船艦の設け、兵食の具、銭貨の備へ及び内政百般の調理等に至る迄、予め其の順序目的を定め、而(シカ)る後に朝使を発遣するも未だ晩(オソシ)とせざるなり。
若しこれが備へをなさず、今頓(ニワカ)に一使節を発し万一の事ありて後、事継がず、而(シコウ)して更に他の忠害にかかるあらば、悔ゆといえども追うべからざるなり、
故に之が備をなさず今頓に使節を発するは、臣その不可を信ず」
と、自己の見解を提示して、
「臣その不可を信ず」と、閣議決定の不裁可を進言。
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10月23日
・西郷隆盛、勅裁を待たず参議・近衛都督・陸軍大臣辞表を提出、東京郊外に身を隠す
(「胸痛の煩いこれあり、とても奉職罷り在り候儀相叶わず」)。
この時点では未だ西郷派遣の天皇裁可は出ていない。辞表は岩倉の違法行為への抗議辞任。
この日、西郷側近陸軍少将桐野利秋、辞表提出。
陸軍少将篠原国幹はじめ、29日迄に46人辞表提出。
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反対派の一斉退陣を期待していた大久保は黒田清隆に書簡を送る。
「辞表は今日西郷一人差出し相成りたる由に御座候、実に意外」と、「一の秘策」の真の狙いを告白。
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10月24日
・岩倉太政大臣代理、大久保の献策を受けて、西郷の陸軍大臣(本官)の辞表却下。兼官の参議・近衛都督辞表は受理。
本官はそのままなので、形式的には西郷の地位に変動はない(大久保の配慮)。
板垣・江藤の辞表提出を誘い出すために、西郷の兼官の辞表受理を急ぐ。
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10月24日
・天皇、「国政を整え民力を養ひ・・・」勅語。岩倉の奏聞を「これを嘉納する」と裁可。
閣議決定は覆され、朝鮮への使節派遣は無期延期となる。
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「衆庶同心協力、漸(ヨウヤ)く全国一致の治体に至る。ここに於て国政を整へ民力を養ひ、勉めて成功を永遠に期すべし。今汝具視が奏状、これを嘉納す」
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・明治6年10月政変(大久保のクーデタ)
(土佐系)板垣退助・後藤象二郎、(肥前系)江藤新平・副島種臣、下野。25日に辞表受理。
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長州汚職閥(木戸=伊藤)の勝利(山城屋和助・三谷三九郎事件の山県有朋、尾去沢銅山事件の井上馨、小野組転籍事件の槇村正直など)。大久保は盟友西郷を失う。
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閣議で西郷を支持した板垣退助、江藤新平、後藤象二郎、副島種臣の四参議は辞表提出。
(太政大臣代理の違法行為を合法的にチェックできず、連袂辞職によって反省を求める)。
閣議で西郷使節派遣に同意しながら大隈重信、大木喬任両参議は、辞表提出せず。
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板垣以下四参議の辞表は翌25日に速やかに受理される。
この速やかさに、反対派追放という大久保の「一の秘策」の狙いが現われている。
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大久保の辞表は却下される。
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閣僚の補充にあたり、岩倉・大久保は、参議省卿兼任制を打ち出す。
(大隈は大蔵卿を、大木は司法卿を兼任。参議兼工部卿に工部大輔伊藤博文を、参議兼海軍卿に海軍大輔勝安芳を、参議兼外務卿に特命全権公使寺島宗則を任命)
24 ・「大久保政権=有司専制」。閣議、参議・各省長官(卿)兼任決議。大隈大蔵・大木司法・伊藤工部・寺島外務・勝海軍卿。
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11月21日、大久保は、堺県令税所篤の問合せに答えて、政変をめぐる事情を説明。
政変に至る対立を囲碁に譬えれば、「此の上は盤上一盃に敗を取り侯か、また勝を取り候か、投げさせるか投げるかの二つ」に一つの闘いであったとし、
「畢竟、此の災難は期したる事にて、それゆえ千思万慮、実に肝胆を砕き、容易に進退致さず候えども、止むをえざる機会と相成り、舞台懸りに出懸け候ところ、
果して一幕終らずに舞台が崩れ、勧進元の大損に相成り侯」。
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25日付け伊藤の木戸宛て手紙。
岩倉・大久保から後任参議の人事について相談されたが、
「人選論は頗る困窮……真に閉口」、
しかし「司法丈けの処は……大久保より相談に及ばれ侯につき、図らず吐露仕り候」と伝える。
伊藤らの最大の関心事は司法省人事。
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翌26日付の岩倉から木戸に宛てた書簡。
大久保・伊藤と後任参議の人事について相談したところ、
「ただ司法卿のところ三人見込相異り、小生決を取り候様との事につき、小生大木に決し」と記す。
司法卿後任問題が最も論議のまとになり、三者の意見が食い違い、岩倉の判断で大木喬任を推薦することになる。
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「★一葉インデックス」をご参照下さい。
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