・頼朝追討の宣旨。
朝廷は、平維盛・忠度・知度を大将に源頼朝追討軍を派遣するので、東海・東山両道の武士たちはこれに加わる様にと命じる。
*
9月7日
・源義仲の挙兵
源義仲(27)、信濃で挙兵。義仲を育てた中原兼遠の子の樋口次郎兼光・今井四郎兼平兄弟・根井行親・海野幸広ら、従う。
先ず、信濃の市原で笠原頼直を破り、父義賢遺領の上野多胡荘に進出。
関東で頼朝と衝突することを避け、北陸道に進出。
*
伊那谷攻め(市原合戦)。
平家側豪族・笠原頼直(信濃守平維盛の曽孫)800余騎、義仲追討に向う。
迎え撃つのは義仲方武将・村山七郎義直と栗田寺別当大法師範覚の500余騎。
市原で合戦。
義仲側に片桐子八郎為安が援軍に駆けつけ、8日、為安が頼直の背後に回り挟撃、義仲側勝利。
義仲軍は権兵衛峠を超え、伊那郡大田切郷に進み、笠原城を焼き討ち。
頼直は越後の城助長の許へ落ちる。
*
□吾妻鏡
「源氏木曽の冠者義仲主は、帯刀先生義賢が二男なり。
義賢去る久壽二年八月、武蔵の国大倉館に於いて、鎌倉の悪源太義平主の為討ち亡ぼさる。
時に義仲三歳の嬰児たるなり。
乳母夫中三権の守兼遠これを懐き、信濃の国木曽に遁れ下り、これを養育せしむ。
成人の今、武略稟性、平氏を征し家を興すべきの由存念有り。
而るに前の武衛石橋に於いてすでに合戦を始めらるの由遠聞に達し、忽ち相加わり素意を顕わさんと欲す。
爰に平家の方人小笠原の平五頼直と云う者有り。今日軍士を相具し木曽を襲わんと擬す。
木曽の方人村山の七郎義直並びに栗田寺別当大法師範覺等この事を聞き、当国市原に相逢い、勝負を決す。
両方合戦半ばにして日すでに暮れぬ。
然るに義直箭窮まり頗る雌伏す。飛脚を木曽の陣に遣わし事の由を告ぐ。
仍って木曽大軍を率い競い到るの処、頼直その威勢に怖れ逃亡す。
城の四郎長茂に加わらんが為、越後の国に赴くと。」(「吾妻鏡」同日条)。
*
□「現代語訳吾妻鏡」。
「七日、丙辰。源氏の木曽冠者義仲主は、帯刀先生義賢の二男である。
義賢は、去る久寿二年八月、武蔵国の大倉の館(現、埼玉県比企郡嵐山町大蔵)で、鎌倉の悪源太義平主に打ち滅ぼされた。その時、義仲は三歳の幼児であった。
乳母の夫である中三権守兼遠は、義仲を抱いて信濃国の木曽に逃れ、義仲を育てた。
成人した今では、武勇の素質を受け継ぎ、平氏を討って家を興そうと考えていた。
そこで、前武衛(頼朝)が石橋で既に合戦を始めたと耳にし、すぐに挙兵に加わり念願の意志を表そうとした。
この時、平家に味方する笠原平五頼直という者がおり、今日、武士を引き連れ、木曽を襲おうとした。
木曽に味方する村山七郎義直と栗田寺の別当大法師範覚らはこのことを聞きつけ、信濃国の市原で笠原方と遭遇し、勝負を決めようとした。
双方の合戦の途中で既に日が暮れた。
ところが義直は弓矢が尽きて、敗退を覚悟し、木曽の陣に飛脚を送って事態を急報した。
そこで、木曽が大軍を率いて急ぎ到着すると、頼直は義仲の威勢を恐れて逃亡し、城四郎長茂の陣に加わるため、越後国に行ったという。」。
*
○源(木曽)義仲(1154~1184):
源義賢の次男。母は遊女という。
久寿2年(1155)8月、父義賢は、武蔵国大蔵の館において、源義平によって討たれ、二歳の義仲は、乳母の夫中原兼遠とともに信濃国木曽に遁れる。
「武略性に稟け、平氏を征して家を興すべきの由、存念あり」として再起の時を待つ(『吾妻鏡』治承4年9月7日条)。
この年(治承4年)、以仁王の令旨をうけた義仲は、同年9月4日平家方の笠原頼直が木曽谷を襲撃したことに応戦した村山義直と栗田範覚を応援して市原(長野市)に出陣。
同年10月、上野国に進軍するが、12月には、頼朝の権威を憚って信濃国に帰還。
治承5年6月、横田河原(長野市)で、城長茂(助職)と戦い勝利。
9月には、平通盛軍を水津(敦賀市)で破る。
木曽義仲を追討するために北陸道に発向していた平氏の軍兵等は、寒気を理由に京都に帰還する。この撤退は「真実の体は、義仲が武略を怖るるが故なり」と評せられた(「吾妻鏡」寿永元年9月15日条)。
寿永2年(1183)4月平維盛を総帥とする義仲追討軍が京都を出立。火打合戦(福井県今庄町)では劣勢となるも、5月9日の般若野合戦(高岡市)では勝利をおさめ、5月11日倶利伽羅峠(富山県小矢部市)で大勝利をおさめる。
その後、篠原合戦(加賀市)で勝利を決定づけ、同年7月28日、5万の兵を率いて入京。
入京後、義仲は、後白河法皇より伊予守に任じられ、京中の狼籍停止を命じられるが、義仲が以仁王の子北陸宮を皇位に推挙したことから、法皇と義仲との関係が悪化する。
法皇が、西国の平氏追討を義仲に命じ、義仲の出陣中に、頼朝に「寿永二年の宣旨」を下し東国の支配権を認めた。
同年閏10月帰京した義仲は、法住寺合戦で実権を掌握すると、法皇に頼朝追討の院宣を強要、征夷大将軍にも就任する。
しかし、すでに法皇は、頼朝に義仲追討を命じ、源範頼・源義経等が、数万騎を率いて翌年1月入洛。
義仲軍は敗北し、近江国粟津の辺において相模国住人石田次郎に殺害される(「吾妻鏡」元暦元年1月20日条)。31歳。
七条河原において義仲ならびに高梨忠直・今井兼平・根井行親等の首が獄門の前の樹に懸けられたという(「吾妻鏡」寿永3年1月26日条)。
*
○義賢(?~1155久寿2)。
源為義の次男。義仲の父。東宮付の武官である帯刀長(タヒハキノオサ)であった為、帯刀先生と呼ばれる。
上野国多胡郡に住み、武蔵方面進出を狙う義朝と対立。
義賢の妻の父は桓武平氏秩父氏流の重隆で、義賢はこれと結び勢力を拡大しようとする。
一方の義朝は両総・相模を基盤として、北関東を射程にしており、両者の衝突は不可避。
久寿2年(1155)8月、義朝の子義平と義賢は合戦に及び、義賢・義隆は武蔵国の大倉館で敗死する。
*
○義平(?~1160永暦元)。
源義朝の1男。相模国の三浦氏のもとで成長。久寿2年、叔父義賢を討つ。悪源太と称される。
*
○兼遠。
中原兼経の男。信濃国木曽の豪族で、義仲の乳母の夫。久寿2年、義賢が源義平に討たれた際、義仲と共に木曽へ逃れる。
子に樋口兼光・今井兼平・落合兼行がおり義仲に従う。また娘の巴は、義仲の愛妾。
*
義仲挙兵の衝撃。
「木曾という所は信濃にとっても南の端、美濃境なれば、都も無下に程近し。平家の人々、「東国の背くだにあるに、北国さえこはいかに」」(「平家物語」)
*
□廻文(めぐらしぶみ、「平家物語」巻6);
その頃、信濃に木曾冠者義仲という源氏がいるとの噂が伝わる。
父の帯刀先生義賢(よしかた)が鎌倉の悪源太義平に討たれたとき2歳で木曾中三兼遠(かねとお)に預けられる。
或る日、義仲は守役の兼遠に「兵衛佐頼朝は謀反を起し関東八ヶ国を従え東海道を上っている。私も東山・北陸両道を従え平家を攻め落とし、日本国で二人の将軍と言われたいものだ」と語る。
中三兼遠は喜び、直ちに謀反を企て、廻状を回し、信濃根井の小弥太、海野の幸親(ゆきちか)ら信濃国中の武士を味方にし、上野では故帯刀先生義賢の縁故で多胡郡の武士が従属した。
*
*
源氏勢力の三つの磁場
東国に土着した源氏の庶流には、
・義家の弟義光に系譜をひくもの(甲斐の武田氏、信濃の小笠原氏、常陸の佐竹氏など)、
・義家の第三子義国に系譜をひくもの(上野の新田氏、下野の足利氏)
がある。
これらは、在地豪族との婚姻関係でその地盤を形成し、かつては頼朝の父義朝とも対抗関係をはらんでいた。
この年10月、頼朝軍が平氏軍を破る富士川合戦以後でも、常陸における新羅三郎義光を祖とする佐竹秀義や頼朝の叔父志田三郎義広、上野の新田義重らはその去就は定かではない。
安田義定・武田信義ら甲斐源氏へは、9月20日、頼朝は共同作戦のための使者を派し、富士川合戦後は、武田・安田氏を駿河・遠江両国守護の派遣している。
この時の力関係においては頼朝と甲斐源氏との関係は同盟に近い形。
*
反平氏の立場で早い段階で旗色を鮮明にしたのは、
①相模・伊豆方面の頼朝傘下の勢力、
②信濃の義仲を中心とした勢力、
③これらに呼応する形で応じた甲斐の源氏、
の三つの勢力。
*
*
「★治承4年記インデックス」をご参照下さい。
*
*
○義平(?~1160永暦元)。
源義朝の1男。相模国の三浦氏のもとで成長。久寿2年、叔父義賢を討つ。悪源太と称される。
*
○兼遠。
中原兼経の男。信濃国木曽の豪族で、義仲の乳母の夫。久寿2年、義賢が源義平に討たれた際、義仲と共に木曽へ逃れる。
子に樋口兼光・今井兼平・落合兼行がおり義仲に従う。また娘の巴は、義仲の愛妾。
*
義仲挙兵の衝撃。
「木曾という所は信濃にとっても南の端、美濃境なれば、都も無下に程近し。平家の人々、「東国の背くだにあるに、北国さえこはいかに」」(「平家物語」)
*
□廻文(めぐらしぶみ、「平家物語」巻6);
その頃、信濃に木曾冠者義仲という源氏がいるとの噂が伝わる。
父の帯刀先生義賢(よしかた)が鎌倉の悪源太義平に討たれたとき2歳で木曾中三兼遠(かねとお)に預けられる。
或る日、義仲は守役の兼遠に「兵衛佐頼朝は謀反を起し関東八ヶ国を従え東海道を上っている。私も東山・北陸両道を従え平家を攻め落とし、日本国で二人の将軍と言われたいものだ」と語る。
中三兼遠は喜び、直ちに謀反を企て、廻状を回し、信濃根井の小弥太、海野の幸親(ゆきちか)ら信濃国中の武士を味方にし、上野では故帯刀先生義賢の縁故で多胡郡の武士が従属した。
*
*
源氏勢力の三つの磁場
東国に土着した源氏の庶流には、
・義家の弟義光に系譜をひくもの(甲斐の武田氏、信濃の小笠原氏、常陸の佐竹氏など)、
・義家の第三子義国に系譜をひくもの(上野の新田氏、下野の足利氏)
がある。
これらは、在地豪族との婚姻関係でその地盤を形成し、かつては頼朝の父義朝とも対抗関係をはらんでいた。
この年10月、頼朝軍が平氏軍を破る富士川合戦以後でも、常陸における新羅三郎義光を祖とする佐竹秀義や頼朝の叔父志田三郎義広、上野の新田義重らはその去就は定かではない。
安田義定・武田信義ら甲斐源氏へは、9月20日、頼朝は共同作戦のための使者を派し、富士川合戦後は、武田・安田氏を駿河・遠江両国守護の派遣している。
この時の力関係においては頼朝と甲斐源氏との関係は同盟に近い形。
*
反平氏の立場で早い段階で旗色を鮮明にしたのは、
①相模・伊豆方面の頼朝傘下の勢力、
②信濃の義仲を中心とした勢力、
③これらに呼応する形で応じた甲斐の源氏、
の三つの勢力。
*
*
「★治承4年記インデックス」をご参照下さい。
*
*
0 件のコメント:
コメントを投稿