2010年12月20日月曜日

明治6年(1873)10月17日~20日 大久保らが辞表提出 太政大臣三条実美の精神錯乱 大久保の「一の秘策」(岩倉の太政大臣代理就任を画策) [一葉1歳]

明治6年(1873)10月17日
・朝8時、大久保利通、三条邸を訪問し辞表提出
続いて木戸孝允・大隈重信・大木喬任が、今後の責任をとれないとして辞表提出。
西郷は三条に上奏を迫る。
三条は岩倉に相談するが、岩倉はこれは留守政府が決めたこととして辞意表明
三条は、上奏予定見送る。
三条は高熱を発し倒れる
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16日は休日のため、17日朝8時、大久保は三条邸を訪問し、「奉職の目的、相立ち難く侯に付き、当務免ぜられ、位階返上仰付られ侯様」と、参議辞任・位階返上を申し出る。
ただし、「若し禍端相開き候はば、兵卒とも相成り、一死をもつて万分の一死報じ度微意」と別紙にしたためる。
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大久保日記に、「今朝八字、条公へ参上、辞表差し出し、趣意書差し上げ候、今朝の御様子よほど御周章の御様子に侯」とある。
大久保は相当の権幕で三条を攻めた模様だが、日記には冷やかに三条の狼狽ぶりを記す。
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大久保は、岩倉にも、「過日来心決の次第これあり」と、辞表の写しを添えてきびしい書簡を送る。
岩倉は、大久保の怒りを知って態度を急変、「御旨趣の通りにては天下の事は去り申すべし」と、三条の方針に追いていけない旨の辞意を表明。
三条と岩倉とは実際は陰微なライバル関係にあったが、岩倉と大久保とは幕末以来の同志、ここにその差が表面化した。
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この日、木戸も辞表を提出。
岩倉は「此の上は進退を致すのほかこれなく」と辞意漏らしつつ、ともかく今日は「持病困苦」として、不参を報告(10月17日付け三条宛て書簡)。
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この日(17日)、太政官に登庁した西郷らは、三条に、所定の手続きに従って使節派遣の閣議決定を天皇に上奏するように求めた。
しかし、岩倉の背反に自失した三条は、上奏に一日だけの猶予を請い、その夜、岩倉を訪ね協力を哀願。
岩倉はこれに応じず。
全く孤立した三条は、高熱を発して卒倒、人事不省に陥り、職務遂行不能となる。
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10月17日
・臨時裁判所第2回公判。
槇村正直、司法省地下の仮監獄に拘留される。
京都裁判所が裁可を得て申し渡したものでも、心服できないものは奉じることができないといったため。
参座多数もこれに賛成。
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18日、第3回公判。
京都府知事長谷信篤は「聞いていない」「記憶にない」と答えるのみ。
外出禁止となる(公卿・長州閥への工作封じ込めのため)。
木戸は文部大輔宍戸璣に書簡(元司法大輔、江藤に外される、兄事する佐々木高行(司法大判事)がこの裁判の筆頭判事)。
三条が人事不省となり裁判もストップ。
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この頃の木戸日記。
10月14日~16日は、来客者の名前や、「小林来て織物の事を語る」、「〔医師〕長与専斎来診」などが記されているだけ。
17日に、「槇村正直を臨時裁判所に拘留せしよし、依て参坐(陪審人)土方〔久元〕と参議江藤へ一書を投ず。司法の所致法外の事少なからず、実に歎くべし」と記され、木戸の関心は小野組転籍事件(槇村正直事件)の善後策で占められていたことを示す。
「西郷」「朝鮮」などの文字は一語も出てこない。
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10月18日
・太政大臣三条実美、大病・精神錯乱。
伊藤博文、太政大臣代理に岩倉説得するしかないと、木戸に訴える。
夜、岩倉を訪問し、三条に代って太政大臣を摂行(代行)すべしと「自説を詳陳」。
木戸=伊藤、大久保にも働きかける。
大久保は岩倉に奮起を促し、岩倉は「断然振起すべし」と約束、大久保に「是非噴発いたし候様」と申し送る。
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西郷は、三条の有様をみて、三条の胆の小ささを嘆く。
「副島の咄に、条公は前晩迄は岩倉卿へ向かい、海陸軍を率い、自ら討征致すべき旨、御返答相成り候位に御座候由。憐れむべき御小胆故か、終に病を発せられ、残念の仕合いに御座候。」(桐野利秋・別府晋介宛書簡、日付なし)
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伊藤の次の策略:
三条の急病を機会に、岩倉を太政大臣代理にして、閣議決定の上奏時に、岩倉が独自の発言して朝鮮使節派遣を阻止するという非常手段を案出。
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18日、伊藤は、木戸と相談し、岩倉を説得し、大久保にも協力を打診。
木戸も大久保に書簡を送り、伊藤に同調するよう働きかける。しかし、大久保は、伊藤の強引な策に消極的であるかに見えた。
同日、大久保は木戸に返書を送り、「今朝来一層の大変を生じますます困却つかまつる折から、伊藤君も入来、種々示論も蒙り供えども、決答も申し上げかね候事に御座候につき、なおまた御忠告を蒙り侯ては此の上深重熟慮つかまつり申すべく」と、気乗り薄の意向を示す。
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10月19日
・木戸は伊藤に手紙を送り、
「大久保よりも返辞これあり、深憂の趣に相察せられ侯えども、今一歩の処、如何やと相考え申し侯」、「今晩御面会も御座候わば、御熟談これあり度く、万禱このことに御座候」と、今夜にでも大久保を再度説得するよう勧める。
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伊藤は、木戸に返書を送り、
「岩公へも昨夜八時より十一時ごろまで充分論じ置き申し候、さりながら何分小胆、あるいは着手を誤り侯かとも恐れ申し侯えども」(策略が失敗するかもしれないと危ぶみ)、
「実に明暗期し難く、大久保も唯(タダ)その恃むべからざるを恐れ侯かと推察仕り侯」(大久保が消極的なのは、岩倉の変心しやすい性格を信頼できないからであろうと推察)、
と報告。
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・この日(19日)大久保利通は、三条を見舞った後、開拓次官黒田清隆に「一の秘策あり」と策をさずけ、更に夜、黒田に手紙。
宮内少輔吉井友実に黒田の意見として、岩倉の太政大臣代理就任を「示談」する。
木戸=伊藤ラインと同じ策略のための宮廷工作
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10月19日
・正院、京都府へ「新次郎魚代金渋事件」に関する下問への回答を「不条理な答弁である」として差戻す旨布達。
20日、参議木戸、前日の布達に対抗する「上書」を正院に提出。
参議江藤を攻撃。代言人児玉淳一郎が起草、福沢諭吉が添削。
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10月20日
 ・早朝、大久保利通、宮内少輔吉井友実と協力して宮内卿徳大寺実則を説得、直接岩倉に太政大臣代理の大命下る取り計らう。
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10月20日
 ・天皇、三条見舞い。岩倉に大政大臣代行すべしとの勅語与える。
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10月20日
・木戸、「京都府に於ける紛争に対する条陳書」十四箇条を太政官に提出し、槇村を弁護。
「槇村参事拘留一条につき今日上書一冊を出し諸参議に副啓を投ず」(木戸日記)。
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10月20日
・この日付け、木戸の岩倉宛書簡。
 「伊藤博文儀は孝允十有余年の知己にて、兼て御承知もあらせられ候通り剛凌強直の性質に御座候処、近年専ら意を沈実に用い細案精思、その力また孝允同朋には稀有の者」と、伊藤の参議就任を要請。
10月25日、伊藤は参議兼工部卿に親任される。
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「★樋口一葉インデックス」をご参照下さい。
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