2010年12月18日土曜日

一葉日記抄 明治26年(1893)12月2日~31日(21歳) 「かゝる世にうまれ合せたる身の、する事なしに終らむやは。 なすべき道を尋ねてなすべき道を行はんのみ。」(「塵中日記」)

樋口一葉の日記に関して、前回からの続き
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竜泉寺町で雑貨・駄菓子を商う一葉一家。この時、一葉21歳。
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明治26年(1893)12月2日

「二日、晴れ。議会紛々擾(ジョウ)々。私行のあばき合ひ、隠事の摘発。さも大人げなきことよ。
半夜眼をとぢて静かに当世の有さまをおもへば、あはれいかさまに成りていかさまに成らんとすらん。
かひなき女子の何事をおもひたりとも猶蟻みゝずの天を論ずるにもにて、我れをしらざるの甚しと人しらばいはんなれど、さてもおなじ天をいたヾけば風雨雷電いづれか身の上にかゝらざらんや。
国の一隅にうまれ一端に育ちて、我大君のみ恵に浴するは彼の将相にも露おとらざるを、日々せまり来る我国の有さま、川を隔てゝ火をみる様にあるべきかは。
安きになれてはおごりくる人心の、あはれ外つ国の花やかなるをしたひ、我が国振のふるきを厭ひて、うかれうかるる仇ごころは、なりふり、住居の末なるより、詩歌政体のまことしきにまで移りて、流れゆく水の塵芥をのせてはしるが如く、何処をはてととどまる処をしらず。
かくてあらはれ来ぬるものは何ぞ。
外は対韓事件の処理むづかしく、千島艦の沈没も、我れに理ありて彼れに勝ちがたきなど、あなどらるゝ処あればぞかし。
猶、条約の改正せざるべからざるなど、かく外にはさまざまに憂ひ多かるを、内は兄弟かきにせめぎて、党派のあらそひに議場の神聖をそこなひ、自利をはかりて公益をわするゝのともがら、かぞふれば猶指もたるまじくなん。
にごれる水は一朝にして清め難し。
かくて流れゆく我が国の末、いかなるべきぞ
外にはするどきわしの爪あり、獅子の牙あり。印度、埃及(エジプト)の前例をきゝても、身うちふるひ、たましひわなゝかるゝを。
いでよしや物好きの名にたちてのちの人のあざけりをうくるとも、かゝる世にうまれ合せたる身の、する事なしに終らむやは
なすべき道を尋ねてなすべき道を行はんのみ
さても恥かしきは女子の身なれど。
  吹かへす秋のゝ風にをみなへし
      ひとりはもれぬのべにぞ有ける」(「塵中日記」)
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対韓事件」:
防穀事件のこと。大鳥公使の赴任後、朝鮮側は仁川・釜山・元山での輪川米の持出しを禁止。
「千島艦の沈没」:
軍艦「千島」の英国ラヴェンナ号との衝突沈没事件。上海裁判所で英国側の勝訴。
印度、埃及」:
両国ともイギリスの植民地。

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一葉の政治・社会への強い関心を示す。

改進党・自由党の対立を背景に、衆議院議長星亨への不信任動議に紛糾する国会を嘆き、日朝・日英間の外交にも憂慮している。
新聞の影響か、民族主義的、国家主義的な傾向も見える。
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「・・・、かゝる世にうまれ合せたる身の、する事なしに終らむやはなすべき道を尋ねてなすべき道を行はんのみ。」とは、志士のようでもある。
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以降、横山源之助や馬場孤蝶などと交際して行く中で、一葉のこの社会への関心の在り方も、変容してゆく。
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12月7日
「七日 晴れ。多丁にかひ出しながら、喜多川君に菓子箱かへす。

帰路、奥田に利金入るゝ。
此日、伊三郎より金五円かりる。高利の金にて、俗に「日なし」といふもの也。かゝる事、物覚えてはじめての事也。
此夜、山梨県に手紙出す。金子のこと後屋敷に申つかはし、雨宮のもとへも頼み文出す」
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金策、である。
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やみ金融をしている従弟の広瀬伊三郎から「日なし」という高利の金5円を借りる。
「日なし」:
貸付けた当日から利子をかけ、日済で少しずつ返済させながら、高利の利子を取る貸し方。

山梨県は、
父母の出身地。後尾敷村の芦沢卯助という者には養父五左衛門の時代に則義から借りた古い負債が残っている。
「雨宮」:
母たきの甥の雨宮源吉。

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他に、姉の久保木のところへも借金に出かけるが果たさず。
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16日には、20年ほど前(明治6,7年頃)に、父が母の弟の養子先に貸したという28円の回収の為に、母たきが山梨に出かける。結果的には交渉は失敗。
その間、一葉姉妹は、母一人を送り出したことで、
「母君のことをおもふに、くに子も我も終日むねいたくて、ともすれば涙のみなり。」(17日付け日記)、
「此日頃大方なみだ也」(21日付け「日記」)となる。
母は26日に戻る。
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結局この年末は、山梨の従弟や、父の知人からの調達、28日には『文学界』から「琴の音」の稿料1円50銭も届き、どうにか年越しができる。

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12月30日
「三十日 もちをつく。金壱円。上野君父子歳暮に来る。議会解散。」
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12月31日
「三十一日 あきなひ多し。二時まで起居る。」
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「黙翁年表」は以下の通りです。
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明治26年(1893)11月

・改進党、大日本協会を中心とする対外硬派に合流。
改進党目的である政党内閣樹立の為、政局の主導権掌握の一段階として硬派に連合。
右翼国権主義の潮流に乗ることが反政府運動の主導権掌握の近道と考えられる。
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・子規(27)、「芭蕉雑談」(25回,「日本」11月13日~翌1月22日)
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・宮崎湖処子「湖処子詩集」(石文社) 
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11月1日
 明治座の開場式
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11月3日
早川徳次、誕生。シャープ創業者。
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11月6
・(露暦10/25)チャイコフスキー(53)、ペテルブルク、弟モデスト宅で没 
11月14
 14 ・森鴎外(31)、陸軍一等軍医正、軍医学校長兼衛生会議議員となる。
12月16日、正六位に叙任。中央衛生会委員となる。 
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11月28
・第5議会、開会。
翌日、大日本協会安部井磐根から、星議長不信任決議案が緊急動議として提出され、賛成多数により可決。
星は憲法上議長不信任はあり得ないとして、翌日も平然と議長席に着く。
これに対し、衆議院は、議長不信任上奏案を可決するが効果なく、更に星の7日間登院停止を決議するが、その期限後、星は平然と議長席に着く。
この倣慢不遜な態度は自由党内にも敵を作り、12月13日、衆議院除名決議が可決され、遂に議席を失う。
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議長在任は1年7ヶ月。短期間で議長の座を失うが、その剛腹さを見せつけたことはその後の活躍の為にはむしろ役立った面がある。 
不信任の直接の理由は、①相馬事件と②取引所事件。
①相馬事件:
旧相馬藩の旧家臣が、相馬家当主を、その兄謀殺を理由に告訴、星は、告訴された相馬家当主を弁護し、無罪を勝ち取り、告発者が逆に誣告罪で有罪となる。
しかし当初は、告発が正当と思われ、その弁護人となった星は社会的非難を浴びる。
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②第4議会、星議長の下で、取引所に関する諸法令(米商会所条例、株式取引所条例、取引所条例)が統合され、会員組織取引所と株式会社組織取引所の2種類の取引所設立を認める取引所法が成立。
新法令では、商品取引所と証券取引所の設立を免許制として政府監督下に置くが、免許制の為、政府には100社近い出願が殺到。
しかし実際に免許を受けたのは18社のみ。商品取引所設置に関する監督官庁は農商務省で、大臣は星と関係が深い自由党系後藤象二郎。
後藤は清廉潔白からは程遠い人物で、出願を却下された業者は、後藤-星ラインとこれに癒着する競願業者にしてやられたとの思いが強い。
改進党機関紙「改進新聞」は、星が一部業者から賄賂を受け取ったと書き立て、他の改進党系新聞もこれに追随。
星は新聞社を告訴し、第5議会開会直前には新聞発行人に対する禁固・罰金刑、新聞社に対する謝罪広告掲載を命ずる判決を得て、法的には決着。
しかし裁判の勝利によって、逆に星にまつわるダーティなイメージを消し去る事はできず。 
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11月30日
・千島艦、英艦ラベンナ号と伊予沖で衝突し沈没。 
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12月
9日

・フランス、無政府主義者オーギュスト・ヴァイヤンが、国民議会下院にダイナマイト投擲。
議会はこれを機に暴力行為準備集会取締法を強引に可決。     
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12月16日
・ドヴォルザーク(52)、「交響曲第9番ホ短調<新世界より>」、カーネギーで初演。 
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12月19日
・外相陸奥宗光、条約改正の目的は国として受くべき権利と国として尽すべき義務を完うすることにある、「是ヲ実際ヨリ云へバ則此日本帝国ガ亜細亜州中ニアリナガラ欧米各国ヨリ特別ナル待遇ヲ受ケム云フ趣旨デアル」と議会演説。     
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12月24日
・オーストリア、第1回労働組合全国大会開催             
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12月28日
・英帰国中の英公使フレーザー、在日英公使館付ショウ牧師に対する暴行事件に関し青木周蔵公使に警告。   
対外硬派が第5議会に「条約励行建議案」を上程。
大日本協会安部井磐根は、説明にあたり在留外国人が条約違反を積重ねていると暴露すると、外国人に対する暴行やいやがらせが頻発。
イギリス公使館付牧師アルチデーコン・ショウが暴漢に襲われ際、巡査は傍観して救援せず。
この報がロンドンに達するや、イギリス外務省の「模様俄カニ一変」。
30日、青木公使の電報によりそれを知った伊藤内閣は、即座に衆議院を解散。 
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12月29日
・政府、条約励行論は開国の国是に反するとして大日本協会に解散命令。 
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12月30日
衆議院(第5議会)、解散
伊藤政権と自由党が提携すると、第5議会で国民協会と改進党が提携し、官紀振粛問題(後藤象二郎農商務相らの汚職問題)・条約励行問題で伊藤政権を追詰める。
第5議会解散により反政府熱は高まる。貴
族院では、近衛篤麿ら有志38名が対外硬派を支持し、政府の議会解散を非難し、伊藤内閣に対する国民の信任は失墜したと退陣を要求。
大日本協会は改進党と協同して排外的な「条約励行案」を上程。極秘裡に英国と条約改正交渉を進めている第2次伊藤内閣は衆議院を解散して励行案の成立を防ぎ、一方で大日本協会の結社を禁止。 
取引所事件に関して、後藤農商務相と斎藤修一郎農商務次官に対する官紀振粛上奏案も可決され、両名はその官を辞すた。
後藤象二郎はこの事件後、政治力を失い、3年余後に没す。  
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「★樋口一葉インデックス」をご参照下さい。
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