2010年12月11日土曜日

明治6年(1873)10月15日 西郷朝鮮派遣めぐり閣議 西郷は「始末書」を提出して欠席 西郷派遣を決定 大久保利通の延期論破れる  [一葉1歳]

明治6年(1873)10月15日
西郷朝鮮派遣めぐり閣議
西郷は欠席。
派遣した使節が殺害されて、必ず開戦となると唱えるのは大久保のみ。
太政大臣三条の判断にゆだねる結論。
三条は西郷派遣に決定
大久保「小子は初発より此れに決し候えば、断然辞表の決心」(大久保の日記)。
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10月15日の閣議に際し、西郷は、主張すべきことは主張したとして閣議を欠席し、代わりにこれまでの経過をまとめた「始末書」(朝鮮使節問題に関する西郷の最終的な公的意思表明)を太政大臣宛に提出。
これは三条への無言の圧力となる。
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(改行を施す)
朝鮮御交際の儀
御一新の涯(キワ)より数度に及び使節差し立てられ、百方御手を尽くされ候得ども、悉く水泡と相成り候のみならず、数々無礼を働き候儀これあり、近来は人民互いの商道を相塞ぎ、倭館詰居りの者も甚だ困難の場合に立ち至り候ゆえ、御拠(ヨンドコロ)なく護兵一大隊差し出さるべく御評議の趣承知いたし候につき、
護兵の儀は決して宜しからず
是よりして闘争に及び候ては、最初の御趣意に相反し候あいだ、此の節は公然と使節差し立てらるる相当の事にこれあるべし、
若し彼より交わりを破り、戦を以て拒絶致すべくや、其の意底慥(タシ)かに相顕れ候ところ迄は、尽くさせられず候わでは、人事においても残る処これあるべく、
自然暴挙も計られず杯(ナド)との御疑念を以て、非常の備えを設け差し遣わされ候ては、また礼を失せられ候えば、是非交誼を厚く成され候御趣意貫徹いたし候様これありたく、
其のうえ暴挙の時機に至り候て、初めて彼の曲事分明に天下に鳴らし、其の罪を問うべき訳に御座候。
いまだ十分尽くさざるものを以て、彼の非をのみ責め候ては、其の罪を真に知る所これなく
彼我とも疑惑致し候ゆえ、討つ人も怒らず、討たるるものも服さず候につき、
是非曲直判然と相定め候儀、肝要の事と見居(ミスエ)建言いたし候ところ、
御伺いのうえ使節私へ仰せ付けられ候筋、御内定相成り候次第に御座候。
此の段形行(ナリユキ)申し上げ候。
以上」


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□始末書の主旨
(「征韓」を主張していない)
当初の閣議原案は、居留民保護の為に朝鮮に1大隊を急派せよとのことだったが、派兵は「決して宜しからず」
「是よりして闘争に及」ぶと「最初の御趣意」に反することになる。
「公然と使節差し立てらるる」のが至当で、もし朝鮮側が「交わりを破り、戦を以て拒絶」したとしても、先方の「意底慥(タシ)かに相顕れ候ところ迄は」交渉を尽くさなければ、「人事においても残る処これあるべく」、
ましてや使節に対して「暴挙」をはかるのではないかとの「御疑念」をもって、あらかじめ「非常の備え」(戦争準備)をしておいて使節を派遣するのは「礼を失せられ候えば」、そうすることなく両国間の「交誼を厚く」したいという「御趣意」を貫徹したい
その上で、なお、「暴挙の時機」に至った時に、初めて先方の非を天下に訴え、「其の罪を問うべき」である。
そうすることなく、「いまだ十分尽くさざるものを以て」先方の非を責めても、双方納得できないから、「是非曲直」を明らかにすることが「肝要」だとして使節を志願し、8月の閣議で内定したのである。

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西郷は、翌々17日、この「始末書」の写しを大久保や島津久光にまで配布し、自己の意図の周知徹底をはかる
平和的・道義的交渉への決意を天下に公約)。
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大久保の日記による閣議の模様。(改行を施す)
「十字(時)より参朝、朝鮮事件御評議これあり、
昨日の議決せず、条公(三条)、岩公(岩倉)、今日まで御勘考これあるべくとの事にて、今日なおまた見込御尋ねこれあり侯につき、
小子においては断然前議を以て主張致し、外(ホカ)参議中においては西郷氏の意に御任せこれあるべく、
ことに副島氏、板垣氏断然決定の趣にて、此上はなおまた御両人(三条、岩倉)にて御治定これあるべくにつき、参議中相控え侯よう御沙汰ゆえ、一応引き取り候、
暫時にてまたまた参り候ようとの事ゆえ、一同参り侯ところ、実に西郷進退に関係候ては御大事につき、止むを得ず西郷見込通りに任せ侯ところに決定いたし侯との御談ゆえ、
小子において昨夜申し上げし通り、此のうえ両公御見込相立ち侯ところにて御治定これあるべしと申し上げ置き候につき、御異存は申し上げず候えども、
見込においては断然相変らざる旨申し上げ侯、
しかし余の参議一同異存なく、ことに副島、板垣は、断然たる決定にて、いよいよ御治定これあり候あいだ、
小子は初発より此れに決し候えば、断然辞表の決心ゆえ、そのまま引き取り候」
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使節派遣延期を主張したのは大久保のみで、他の参議は西郷を支持し、三条・岩倉は、西郷の朝鮮派遣を「治定」し、参議一同の了承を得る。
大久保も、決定には「御異存は申し上げ」ず、満場一致で西郷派遣は閣議決定。
但し、大久保は初めからの「決心」どおり「辞表」を決意する。
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閣議後、三条は岩倉に書簡を送り、
「初発、僕等の軽卒より事今日に至り候て、其の罪、僕一身に帰し申し候
・・・僕も今日に至り論を変じ侯次第申し訳けこれなく、大久保にも万々不平と存じ侯、
さりながら西郷進退については容易ならざる儀と心配つかまつり侯儀
・・・速やかに僕に海陸軍総裁職御命じ相なり侯よう懇願つかまつり候、必死尽力の決心・・・」
と伝える。
岩倉は、これを大久保に回送し、
「ただただ条公小生、断然決意以て貫通のほかこれなき覚悟に侯ところ、昨今の御評議言うべからざる次第に立ち至り、何の面目もこれなく、洪大息の仕合、皆以て愚昧の致す処、実に恐縮に堪へず」
と変節を謝罪し、
「別紙条公より到来、内覧に入れ侯、〔海陸軍〕総裁云々なお御含み置き宜敷願い度く」
と大久保の協力を依頼。
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「★一葉インデックス」をご参照下さい。
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