2010年12月11日土曜日

弘治2年(1556)9月~弘治3年1月 ハプスブルク家カール5世退位 信玄の上州蹂躙 家康結婚  [信長23~24歳]

弘治2年(1556)
9月8日
・武田晴信(信玄)、真田幸隆(44)に雨飾城の攻略を促す。
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9月12日
カール5世退位(ドイツ・スペインを40年にわたり統治)。
弟フェルディナント(位1556~1564)が神聖ローマ皇帝に、息子(長男)フェリペ(位1556~1598)がスペイン国王に即位。
ハプスブルグ家は、オーストリアとスペイン系に分離
13日、カール5世、ネーデルランドからスペインに向うため乗船。
10月、トレド西方サン・ユストに隠居。
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10月
・武田晴信(信玄)、秋山信友を高遠城代とし、坂西氏ほかの伊那衆を与力とする。   
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10月24日
・三好長慶、禁苑などの修理費用を洛中へ賦課、修理開始(「御湯殿上日記」)。
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11月8日
・千利休(35)、師の武野紹鷗(前年閏10月没)の子の新五郎(後の宗瓦)より銘松島の葉茶壷を受け取る。形見分け。
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11月21日
・津田宗達、三好実休に招かれ堺を出発。
28日、阿波に着。
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11月25日
・結城政勝、「結城氏新法渡」制定。
「結城氏新法度」の直訴の禁。
「だれ成共、其身のぢ訴ぢきそう不可叶、直ニ申出候者、道理成共なすべからず、そうじゃを以可被申候」。
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12月23日
・三好長慶、東寺と公文所の宮野浄忠との借銭相論を裁許し、東寺に年貢直務を命令。
27日、東寺に公文所の宮野浄忠父子一族の追捕を命令。
翌年12月29日、再度東寺へ公文所の宮野浄忠追捕を命令し家財田畠を没収。(「東寺百合文書」)
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弘治3年(1557)年
(信長24歳、光秀30歳、秀吉22歳、家康16歳)
この年
・武田晴信(信玄)5男(のち仁科五郎盛信)、誕生。兄は武田名跡を継ぐ四郎勝頼。
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・片倉小十郎景綱、米沢八幡の神職片倉藤左衛門景重の次男として誕生。
伊達輝宗(政宗父)の重臣遠藤元信の推挙により輝宗の侍小姓として出仕。
19歳の時、梵天丸(9、後の政宗)の傳役となる。
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・越前の朝倉義景、足羽郡木田の橘屋に酒売買座を安堵。
一乗谷では越前焼の甕を土間に埋めて据えた町屋が発掘されており、幾つかは酒屋かもしれない。都市部で酒が商品として売買されていたことが窺え、酒造の発展があったと理解される。
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1月
・北条氏康、武田晴信(信玄)に使者派遣。
管領上杉憲政が越後へ逃れてからの割り振りを提案。
「北条は太田三楽斎を討って武州を、武田家は長野業政を滅ぼして上州を」。
以降、武田晴信(信玄)・勝頼父子による上州の蹂躙が開始
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・スペイン王室、銀行に対する支払い停止(実質上の破産)。
植民地に対する収奪強化に乗り出す。
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1月5日
・柴田権六、末盛城信行(信長次弟)の再度の謀反を信長へ密告。末盛城総領に近習小姓を任ずるなど信行の行状。
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1月13日
・山科言継、今川氏真の歌会始に出席。
29日には義元主催の歌会始にも出席(「言継卿記」)。
今川家としての歌会始は毎年正月13日に開かれており、この年弘治3年正月には、既に家督は氏真に譲られていたと考えられる。
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1月15日
松平元信(16、家康)、今川義元姪・関口刑部少輔義広の娘(築山殿)と結婚。
今川氏一門格として扱われる。
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1月末
・上杉謙信、信濃の更級八幡宮に願文を捧げ信玄討伐を祈願。
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2月1日
・館林城主赤井照忠、没。嫡男の但馬守照康が相続。
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2月13日
・仏、アンリ2世(38)、ユグノー弾圧のため異端審問所設置。
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2月15日
・武田晴信、大軍で長尾景虎方の水内郡葛山城(善光寺西方1里)攻撃。城方全滅。
善光寺を手中におさめ仏像等を奪う。
第3次川中島の戦いの契機。
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2月18日
・能登守護畠山義綱、七尾城に篭城。長尾景虎(上杉謙信)に救援求める。景虎、食糧送る。
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「★信長インデックス」 をご参照下さい。
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