2010年12月5日日曜日

弘治2年(1556)9月 山科言継の駿河下向  [信長23歳]

弘治2年(1556)9月
この月
山科言継(50歳、正二位前中納言)の駿河下向
今川氏親室の姉(寿桂尼)を頼り、天文22年(1553)以来駿府に身を寄せている義母中御門氏を訪ねるため。
私用である為、権中納言・按察使を辞退して出かける。
翌弘治3年(1557)2月末まで5ヶ月余滞在。今川氏重臣らと茶の湯などで交流。
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以下、世話好きで諸方からの信頼される貴族、山科言継の日記より。
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9月11日、言継は天皇・親王・長橋局以下数十人に見送られ、沢路隼人以下数人の供を連れ京都を出立。
坂本・志那・東海道を経て、
12日、近江守護六角氏の城下町石寺(滋賀県蒲生郡安土町石寺)に投宿。
ここで六角義賢に手紙で、伊勢楠(三重県三重郡菰野町)までの送人足を所望。
義賢は快く過所(通行手形)人足など世話し、14日未の刻(午後1時)石寺から河津畒(甲津畑、滋賀県神崎郡永源寺町)に着き、ここから千草越の難路を伊勢へ抜ける。
戌刻、根代(所在未詳、三重県三重郡菰野町か)に到着。
(雨乞岳の北方標高1,042mの杉峠・同803mの根ノ平峠を経て朝明川上流に出たと推定)。
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翌15日、根代から千草(菰野町千草)に向かい、夕刻楠兵部大輔の居城泥塚(三重郡楠町)に到着。
16日、登城して兵部大輔に「城の内中門まで出て対面し了んぬ」。
楠城は、かなり大規模な平城であったと推定される(楠町本郷小字風呂屋)。
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17日、宿屋の才松九郎左衛門に船を調達させ、伊勢湾を海路三河へ向かい、同日夕刻「志々島」(所在未詳、愛知県知多郡南知多町篠島か)に着岸しここで泊。
この宿の息女が淋病を患っているというので投薬したり、亭主から「鯨のたけり(陰茎)」を馳走になる。
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19日、風波の中を出帆、三河室津(豊橋市牟呂)に着岸(18、19日条)。1里行けば吉田城下(豊橋市)だが、宿が塞がっているので悟真院に泊まる。
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翌20日、吉田城に沢路隼人を派遣するが、城主伊藤左近は西三河に出陣して留守。
この頃、今川氏は三河松平氏に尾張の織田氏を攻撃させ、8月4日には三河雨山城を陥れている。*
大岩(豊橋市大石町)~白須賀(静岡県湖西市白須賀)~遠江に入り、今切の渡し(静岡県浜名郡新居町)で浜名湖を渡り、前坂(舞坂)の旅龍に1泊(同日条)。
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翌日、引馬城(のち浜松城)主飯尾善三郎を訪ねるが、彼も三河出陣で留守のため通過し、引馬川(馬込川)・天竜川を渡河。舟賃の喧嘩で出発が遅れ、この日は見札(静岡県磐田市見付)の奈良屋次郎左衛門の宿に泊る。
この街道の伝馬は、今川氏領国だけあってよく整備されており(9月21日条ほか)、21日、飯尾善三郎に頼んだ伝馬が不調であったが、22日、宿主の奈良屋に依頼して掛川までの馬を調達させる(同日条)。
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22日、見付から掛川に到着。
掛川城の土豪朝比奈備中守(泰能)を訪ねるが留守で、家臣・女中衆に音物をことづけ、翌23日、小夜の中山を越え藤枝に1泊。
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24日、同じく歌枕の宇津の山を越え、岡部(静岡県志太郡岡部町)~丸子(静岡市丸子)~安倍川渡河し府中(静岡市)に到着。
ここで今川家の食客になっている中御門宣秀からの迎えの人馬に出会い、智恩院末新光明寺に落着く。
また、老母に随行して駿河に来ている雑掌大沢左衛門大夫や中御門宣秀自身も訪ねてくる(24日条)。
この日未下刻(午後2時過ぎ)、家臣甘利佐渡守が迎えに来て、駿河在国中の三条大納言実澄・中御門宣秀らと共に登城。
一宮・斎藤両奉行が迎え、奏者飯尾長門守の申し次ぎで謁見。
義元は上機嫌で、一座に短冊を命じ当座和歌会が催される。
巻頭を命じられた言継は幾度も辞退した後、歌を詠む。
次いで、言継・宣秀ら和歌を詠じた10人と雑掌沢路隼人佑とが入り酒宴となる。
言継は持参の太刀・勅筆百人一首・引合紙などを進上。
義元は、「太守近年の機嫌と云々」というくらい喜び、言継は面目を施して帰館。
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養母の姉、氏親室(寿桂尼)は大方殿と敬われ今川家中で重んじられているが、10月初、病気のため湯山へ湯治に出かけ、同月4日には義元、氏真父子が湯山へ見舞う。
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10月27日、年寄飯尾長門へ帰洛の為の過所と伝馬の調達を依頼するが、長門は「定日を以て過書調へ与ふべし」というのみで(12月2日条)、再三せき立てても発給される気配がない。
こんな時、末娘(2歳)が流行の疱瘡で没するとの悲報が届く(12月2日条)。
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12月4日、義元や大方殿の内意が帰京引止めにあると知り、駿河での越年を決心する(12月4日~6日条)。しかし病没した娘の冥福を祈る他は三条西大納言実澄邸を訪問するくらいの別人のような日を送りつつ越年。
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正月5日、三河の松平親乗(家康の一族)が人質家康の随身として寺内に寓居しているのを知り、音信を通じ、8日、親乗が言継を訪ねて来て盃を重ねる(正月5日~8日、12日条)。
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15日、親乗の主の元信は義元命で元康と改名、今川一族関口氏と婚礼を挙げる。
後年、子の吉経がこの亡命の客将家康によって貧窮を救われることになる。
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この頃には、傷心も和ぎ、時折城下や近辺名所も見物したり、「女房狂言」の盛況ぶりなども記すようになる。
しかし、以前の尾張での歌道伝授や授業料稼ぎはせず、投薬のみは処方に応じる。
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2月になってようやく、今川家の内諾も下り、23日、朝比奈備中守に駿・遠・三3ヶ国の伝馬過所を依頼し(同日条)、義元以下に暇乞を通じ、3月1日駿府を出発。
中御門宣秀は丸子宿まで見送り、今川氏近臣の牟礼・甘利・矢部等は藤枝まで随従。
掛川では、城主朝比奈氏の接待で引き止められ、9日出発、
見付~引馬野と往路の逆を辿り、11日、三河吉田に到着。
12日、吉田を出発。
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以降は往路と異なり東海道を尾張へ向かい、五位里(豊川市御油町)・長沢(宝飯郡音羽町長沢)・山中郷(岡崎市山中舞木付近)から、夕刻岡崎着。ここは今川被官引馬城主飯尾善四(三か)郎の配下に入っている(12、13日条)。
当地に浄土宗西山派、誓願寺末寺の大樹寺があり、言継の受戒師誓願寺の照翁上人が隠栖していたのを訪問し、翌朝矢作川の渡しに着(13、14日条)。
ここから船で矢作川(現、矢作古川)を南下し、荒川(所在未詳)~吉良(幡豆郡吉良町)~知多湾~海路鷲塚(碧南市鷲塚)~大浜(同市浜寺町)着岸し、1泊。
知多湾北部は海賊が跳梁したらしく、賊難を恐れ大浜から再び陸路を取り、知多湾を大きく迂回、成波(半田市)から山越えに知多半島を横断して「とこなべ」(常滑市)に出る。
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言継の手形は今川氏発給の伝馬過所なので、今川・織田の緊張関係の下で、尾張織田氏の領国に入れず渋滞し、岡崎以後3日間は、殆ど進まずにいる。
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16日、常滑城主水野山城守に音信を通じ、船便を得て海路伊勢湾を横切り、北伊勢の長大(ナゴ、鈴鹿市長太栄町・旭町)の浜に着岸(同日条)。
ここで伝馬を神戸の宿(鈴鹿市神戸)に頼み、参宮を目指す。
18日、浜沿いに南下、上野(三重県安芸郡河芸町上野)を通過、一身田の町に入る。
真宗道場専修寺の和尚は飛鳥井前大納言の子息とのことで音物を通じると、すぐ招待があり、ここで宿泊の便、参宮路次の調法まで手配して貰う。
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ついで、阿野之津(津市北東部)・八幡(未詳)・木森(津市小森)を過ぎ、雲津川畔に達し、更に細結(松阪市松ケ島町)・平生(松阪市平生)を経て、魚見(同市魚見町)の宏徳寺に入る(22日条)。
ここに言継の伯母西専庵が寄寓しており、久闊を叙しがてら一旦逗留。
24日出発、稲木の市(松阪市稲木町)・首掛松・田丸城(三重県度会郡玉城町)を通過、内・外両宮に巡拝し、山田郷(伊勢市宇治山田)の旅館綿屋彦三郎に投宿(24日条)。
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翌25日、多気(同県一志郡美杉村上多気)の本城から出張していた伊勢国司北畠具教と田丸城(別名岩出城、玉城町岩出字大森)において対面、金覆輪の太刀・白の段子を献上、酒宴となる。国司手ずからの酌で盃を貰い、太刀・馬の引出物を贈られる。
ここから、魚見の宏徳寺に引き返し、伯母の許で旅装を解き、1週間休んだのち4月3日乗馬で一身田の専修寺に戻る(26日~4月3日条)。
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5日辰の下刻(午前8時過ぎ)、専修寺を出発、久保田(津市大里窪田町)・といく野(津市大里睦合町)・鷹之尾(津市高野尾町)・ひるの(亀山市中之庄付近、昼生ヒルオ)と、布引山脈から派生する丘陵地を北上し亀山に到着。
ここで東海道(中世の参宮道)に合流、関氏に伝馬を頼み、鈴鹿坂の下(鈴鹿郡関町坂下)の大竹屋孫太郎旅館に1泊。
鈴鹿峠は大竹屋の案内で山賊にも襲われず無事通過し、土山・石原・前郷(甲賀郡土山町前野)に投宿。
7日払暁出発、守山~志那~琵琶湖を通過し、正午に坂本の布屋に着。
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以降、日記は欠失。
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「★信長インデックス」をご参照下さい。
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