2010年12月14日火曜日

治承4年(1180)9月4日 頼朝の房総再起 上総介広常の許に和田義盛を、千葉介常胤の許に安達盛長を派遣して参向を命じる。

治承4年(1180)9月4日
・頼朝、上総・下総の豪族達に自分の許へ参集するよう書状を出す。
上総介広常(関東随一の有力者)の許に和田義盛を、千葉介常胤の許に安達盛長を派遣、参向を命じる。
6日、義盛が戻り広常は常胤と相談して参上すると報告。
*
上総・下総では、上総氏・千葉氏による武士団の統合が進み、これらは、在庁官人で、数郡から一国にわたる領域を支配する豪族的領主である。
*
これら豪族的武士団の長たる両人の去就が、頼朝の命運を大きく左右する。
頼朝は、広常の弟金田頼次が三浦義明の聾であり、「上総御曹司」と称された父義朝以来の縁もあり、広常に期待をかけ、安房上陸後、直ちに広常のもとに赴く予定であったが、広常の動静定かならずとの風評もあり、まず使者派遣となる。
*
□「吾妻鏡」
「安西の三郎景益御書を給うに依って、一族並びに在廰両三輩を相具し、御旅亭に参上す。
・・・仍って路次より更に御駕を廻らされ、景益が宅に渡御す。
和田の小太郎義盛を廣常が許に遣わさる。籐九郎盛長を以て千葉の介常胤が許に遣わす。各々参上すべきの趣と。」(「吾妻鏡」同日条)。
*
「晩に及び、義盛帰参す。申し談りて云く、千葉の介常胤に談るの後参上すべきの由、廣常これを申すと。」(「吾妻鏡」9月6日条)。
*
9日、盛長は常胤帰順の報を持ち帰る。
*
□「現代語訳吾妻鏡」。
「四日、癸丑。安西三郎景益が御書を受けたので、一族と安房国の在庁官人二、三人を伴い、宿所に来た。
景益が言うに、
「すぐに広常のもとにお入りになるのはよろしくありません。
まずは使者を出して、迎えのために参るようにお命じになるのがよいでしょう」。
そこで、道中から馬を引き返し、景益の家に移る。
和田小太郎義盛を広常のところへ、藤九郎(安達)盛長を千葉介常胤のところに遣わす。
いずれも、参上するように命じた。」。
*
「六日、乙卯。夜になり、義盛が帰参して申した。千葉介常胤と相談した上で参上するつもりです、と広常が申したという。」。
*
*
○上総介広常(?~1183):
父は平(千柴)常澄。桓武平氏の一支流で、平忠常の子孫。
上総国の在庁官人として代々上総介を称し、房総地域の平氏の族長で一族を統率。
保元・平治の乱では源義朝に属すが、義朝敗北後は平氏に従う。
その後、上総が平氏の有力家人藤原忠清(治承3年11月の清盛のクーデタの際、上総国司に補任された)の知行となり平氏と対立
この年の頼朝の挙兵には、上総の武士団2万騎を率いて参降(「吾妻鏡」治承4年9月19日条)。
同年10月、富士川の戦の勝利後、西上を主張する頼朝に対し、常陸佐竹氏の征伐を主張し、11月、勝利に導く。
戦後は、常陸にも勢力を拡大するが、それ故に頼朝から警戒され、寿永2年(1183)末、頼朝に下馬の礼をとらなかったことを口実に謀反の嫌疑をかけられ、嫡子能(良)常と共に誅殺される。
翌年正月、広常が上総国一宮に頼朝の武運を祈る願文と甲を奉納していたことがわかり、嫌疑が晴れ、一族は赦される(『吾妻鏡」寿永3年正月17日条)
*
*
○千葉介常胤(1118~1201):
父は下総権介常重。母は大掾政幹の女。
長承4年(1135)相馬御厨の下司職を父より譲られるが、父が官物を未進したため、御厨は国司藤原親通と源義朝の介入をうける。
常胤は父の末進年貢を納付し、久安2年(1246)相馬郡司となり、改めて御厨を伊勢神宮に寄進する。
義朝の傘下に入り、保元の乱に参加。
平治の乱後、相馬御厨は国衙によって没収され、佐竹義宗が支配権を主張し、神宮庁の裁定の結果、常胤は敗訴する。
この年(治承4年)9月安房に逃れた頼朝は、常胤に参戦を促す。
子息胤正・胤頼が「なんぞ猶予の儀に及ぼんや」と決断を促すと、常胤は参戦を決意。
「当時の御居所は、させる要害の地にあらず、また、御嚢跡にあらず。速やかに相模国鎌倉に出でしめたまうべし。」と頼朝の鎌倉入りを進言したとされる(「吾妻鏡」治承4年9月9日条)。
同年9月17日、常胤は、子息胤正・師常・胤盛・胤信・胤道・胤頼・嫡孫成胤等300余騎相具して参戦(「吾妻鏡」)。
頼朝は、「常胤をもって父となすべき」とこれを歓迎。
同年10月、富士川の合戦にあたって、平家軍を迫って上洛しようとする頼朝を、常胤・三浦義澄らが諌め、「まず東夷を平ぐるの後、関西にいたるべし」といさめる(「吾妻鏡」治承4年10月21日条)。
寿永3年(1184)一ノ谷の軍勢に加わる。
頼朝は、華美を好む武士に対して、
「常胤・(土肥)実平がごときは、清濁を分たざるの武士なり」「おのおの衣服巳下、麁品(ソヒン)を用いて美麗を好まず。故にその家富有の聞こえありて、数輩の郎従を扶持せしめ、勲功を励まんとす」
と、常胤の実直な生活を賞賛したという(「吾妻鏡」元暦元年11月21日条)。
翌年、範頼の軍に属し、豊後国に渡る。
頼朝は、
「千葉介、ことに軍にも高名(コウミョウ)し候いけり。大事にせられ候うべし」とその軍功を称え(「吾妻鏡」元暦2年1月6日条)、
「千葉介常胤、老骨を顧みず旅泊に堪忍するの条、ことに神妙なり」「常胤の大功においては、生涯さらに報謝をつくすべからざる」と評す(『吾妻鏡』元暦2年3月11日)。
文治3年(1187)8月洛中狼籍を取り締まるため使節として上洛。
文治5年(1189)頼朝奥州征伐にあたり、旗一流を献じ、東海道の大将軍をつとめる。
建久元年(1190)頼朝入洛に随行。
建久3年(1192)所領安堵の政所下文を下されるが、別に頼朝直判のある下文を所望する(「吾妻鏡」建久3年8月5日条)。
建久5年(1194)東大寺戒壇院の営作にあたる。
建仁元年(1201)3月24日没。84歳。

*
*
千葉・上総両氏の思惑
千葉、上総氏ともに、平氏勢力や国衙と結ぶ佐竹氏に圧迫されつつあり、かつての実力者義朝の子の頼朝と連携することで、自己の勢力拡大を図ろうとする政治的選択を行う。
*
*
「★治承4年記インデックス」をご参照下さい。
*
*

0 件のコメント: