2011年6月5日日曜日

中江兆民 その誕生~フランス留学から帰国まで

別途掲載中の「明治年表」の明治7年6月9日条に
中江兆民のフランス留学からの帰国
の項目があります
(コチラ)

中江兆民は土佐出身の自由民権家という枠には収まらない思想家、活動家で、幸徳秋水の師でもあります。

以下、松永昌三「評伝中江兆民」により、その誕生からフランス留学からの帰国までを纏めてみました。

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中江兆民:(松永昌三「評伝中江兆民」より)
弘化4年、土佐国高知城下に生まれる。誕生日は11月1日(1847年12月8日)、11月27日(1848年1月2日)の二説あり。
父は土佐藩足軽元助、母は同藩青木銀七の二女柳(明治25年1月没)。
曾祖父伝作は、明和3(1766)年11月、下2人扶持、切米4石の新規足軽に召しかかえられた。
祖父克次は、文政6(1823)年8月、2人扶持、切米4石で他支配組抜の足軽に召しかかえられた。


父元助は、安政6(1859)年12月、組外足軽に昇進し「御近習御目付方留書役」に、弘化3(1846)年1月、江戸方下横目役となった。
しかし、その後、嘉永3(1850)年2月、不行届の儀ありとして追込(外出禁止)の罰、翌嘉永4年11月、前年江戸表にて不心得の儀ありとして呵込(しかりこみ、譴責外出禁止)の罰を受け、下横目役を免ぜられた。不行届・不心得の内容は不明。
そして、嘉永6(1853)年3月、江戸方下横目役に復帰(9月、勤続年継続が認められてる)するが、文久元(1861)年2月21日病没(勤続23年)。

兆民は、15歳の同年5月8日、父元助と同じく他支配組抜をもっての家督相続が許されている。

幼年時代
兆民の幼年時代について伝えるところは殆どない。
ただ、女児のように温和で読書好き、弟思いでときに血気にあふれた行動をとった、という逸話が残されている。
文久2(1862)年4月5日、土佐藩藩校文武館が開校し、兆民は開校と同時に入校。この開校直後の4月8日、執政吉田東洋が暗殺されている。文武館では、「定規として第一に小学、第二に近思録、第三に四書五経を読ましむ、次に蒙求十八史略八家文、次に史記左伝等を読ましむ」(兆民「兆民居士の文学談」)という。
また同じ頃、奥宮慥斎について、『伝習録』講義を聴き、『王陽明全書』『靖乱録』などを読んで、陽明学を学び、萩原三奎・細川潤次郎から蘭学を学んでいる。

文久3年(1863)年6月9日、土佐勤王党の平井収二郎、間崎哲馬、広瀬健太が、山田町の牢舎で切腹を命じられた際には、大勢の人々と共にこれを見たという(「平井収次郎君切腹の現状」)。
(つまり、勤皇党でも勤皇党に同情を寄せるほどでもなかった)

長崎遊学
慶応元(1865)年9月、藩から英学修業のため長崎派遣を命ぜられ、10月、長崎へ出発するが、平井義十郎からフランス学を学ぶ。
兆民の回想によれば、当時の勉強法は、書籍もきわめて少なく、和訳辞書もなく、和蘭対訳字書や和英対訳字書を購入し、蘭仏または英仏対訳のものを使い重索した。文法書を読んでも分らず、日本語の分らない天主教の神父に就いて身振り手振りで学習する始末であったという。


長崎で兆民は、当時海援隊を組織し長崎にあった坂本龍馬に会い崇拝の念を抱いたという
幸徳秋水『兆民先生』によると、兆民は、「予は当時少年なりしも、彼を見て何となくエラキ人なりと信ぜるが故に、平生人に屈せざるの予も、彼が純然たる土佐訛りの言語もて、「中江のニイさん煙草を買ふて来てオーせ、」などゝ命ぜらるれば、快然として使ひせしこと屡々なりき」と、語ったという。

長崎でのフランス学修業に限界を感じたためか、兆民は江戸遊学を志し、船賃25両の調達を留学生監督岩崎弥太郎に頼むが断わられ、藩命を受け汽船購入のため長崎に滞在する後藤象二郎に直談判してこれを得る。

江戸遊学
慶応2年(1866)末、兆民は江戸に向い、深川佐賀町の真田藩邸内にある村上英俊の塾「達理堂」に入塾する。村上塾で兆民は、村上の著わした『仏語明要』を知り、江戸では辞書編纂や翻訳業が盛んで、長崎より数段進歩していることを知る。
この頃、兆民は、慶応義塾の馬場辰猪と鍛冶橋の土佐藩邸で何回か会っている。兆民は、3歳年下の馬場を深く敬愛し、馬場との交友により、兆民は慶応義塾やその師の福沢諭吉についても知るようになったと考えられる。


大坂遊学 フランス公使ロッシュの通弁官
兆民は深川の娼楼に遊ぶなど品行が悪く、村上塾を破門となり、その後は横浜のカトリック神父に就いてフランス語を学び、次には大坂に転じる。
その後の経緯は不明であるが、
慶応3(1867)年12月7日の兵庫開港(及び大坂開市)時には、兆民は、フランス公使レオン・ロッシュ、同領事レックの通弁官として働いている。また、この頃、伊藤博文、陸奥宗光、中島信行らと会っている。


伊藤博文は慶応4年1月11日、馬関から兵庫に到着、外国事務掛となり、東久世通禧外国事務取調掛の下で、陸奥宗光らと働くようになるが、1月25日、参与となり外国事務掛を兼任、2月20日には徴士参与職外国事務局判事になっている。
この間2月15日には堺事件が起り、2月30日、仏公使ロッシュは京都で天皇に会見、伊藤は外国事務局判事として通訳にあたる。
その後、伊藤は4月19日神戸開港場管轄外国事務を委任され、5月3日には大坂府判事兼外国官判事となり兵庫神戸の両所に在勤を命じられている。そして、5月23日、兵庫県知事(~翌明治2年4月10日まで)となり、6月には東京に転じる。


陸奥宗光は慶応4年1月、伊藤博文、井上馨、寺島宗則、五代友厚、中井弘蔵(弘)らと外国事務局御用掛となり、大坂・兵庫に在勤、3月17日には徴士外国事務局権判事として横浜在勤を命ぜられるが、病気のため赴任せず、京坂神戸の間に在勤している。5月4日に会計官権判事、6月22日大坂府権判事(後藤象二郎の後任)、明治2年1月22日に摂津県知事(のち豊崎県と改める)、6月20日兵庫県知事(伊藤博文の後任)となり8月まで在職。


またこの時期、後藤象二郎、中井弘蔵、五代友厚らも関西で働いている。
慶応4年2月30日、英国公使パークスが参内の途中で襲撃された事件の際、後藤、中井はその接待員であった。


兆民は中井とはその死まで交友を続けている。
兆民は、幕末期、尊王壊夷には与みせず、フランス学修学で身を立てようとしていたと考えられる。
当時フランスは横極的に幕府を援助し、幕府支持の姿勢を明確にしていたので、兆民は、幕府側からの幕末の動きを見ていたともいえる。
のちに、兆民が江戸文芸への親近感を示し、明治政府の専制を強く批判し、同じ土佐の先輩板垣退助や後藤象二郎と親交を持ちながらも、立志社にも自由党(第一次)にも参加せず、民権運動と終始一線を画し、土佐の人脈の中に埋没しなかったことなど、維新後の行動にも見てとれる。

明治元(1868)年7月、中江の苗字を正式に許され古御足軽となる。ついで翌明治2年11月11日、「五等士族上席」と改められ、翌年1月から俸禄8石2斗を支給される。
しかし維新直後の兆民の動静については不明部分が多い。


大学南校の大得業生
明治3(1870)年5月、大学南校の大得業生となるが、時期が不明ながら藩から月5円を支給され、箕作麟祥の塾に入っている。
箕作は慶応3(1867)年1月、横浜を出帆しフランスに赴き、翌慶応4年2月に帰国、同年7月から関西に滞在し、11月頃神戸に洋学校を開設したが、翌明治2年3月には東京に帰り、同年5月から神田南神保町に住みそこで家塾を開いている。
従って、兆民は、兵庫で箕作塾に入り、引き続き東京の箕作塾に入塾した可能性が高い。

大得業生は、教員としては、博士(大博士、中博士、少博士)、助教(大助教、中助教、少助教)に次ぎ、その任務は、中得業生、少得業生とともに、「掌授句読、翻訳、治療等事」となっていた(「職員令」明治2年7月8日。
大学南校は、明治2年12月17日、開成学校を改称したもので、明治4年9月25日に一時閉鎖(同年10月再開)されるまでの一時期、兆民は大得業生として勤務している。


フランス留学
明治4(1871)年11月12日、岩倉具視全権大使一行が米欧視察のため横浜港を出帆。この一行に留学生59人が同行していたが、兆民もその一員。


兆民が留学生の一員に選抜された経緯:
幸徳秋水「兆民先生」によれば、海外留学の志を抱いた兆民は、大蔵卿大久保利通の馭者と親しくなり、大久保の退庁時に車の後を追い、大久保が下車したところをとらえて面会。
兆民は大久保に、政府の留学生選抜が官立学校生徒に限定していることを難じ、自分の勉学が優等で、国内では就くべき師、読むべき書もないとし、留学生に選抜されることを乞う。
大久保は、兆民が土佐人と知り、なぜ郷里の先輩に乞わないかと尋ねると、兆民は同郷人の縁や情実を利用するのは自分の潔しとしないところだと答えたという。
大久保は、後藤象二郎、板垣退助と相談して決めようと述べ、後藤、板垣の斡旋もあって留学生に選抜されたという。
兆民は間もなく司法省九等出仕となり、10月12日、フランス留学の免状を受け、10月15日、フランス留学(法律修業)を命ぜられる。


12月6日、岩倉全権一行はサンフランシスコに上陸。
ここで兆民らは全権一行と別れ、12月10日、サンフランシスコを出発し、鉄道で東部へ向かう。
途次、豪雪のためロッキー山中あたりが鉄道不通となり、列車に閉じこめられ、腹が減り、雪中を一里ばかり離れたところへ肉を食いに行ったため、指3本と耳1箇を凍損したという。


足どりは正確には追えないが、ニューヨーク経由フランスへ向かい、明治5(1872)年1月11日にフランスに着き、2年4ヶ月の留学生生活が始まる。


フランス留学時代の兆民の行歴は不鮮明。
『兆民先生』で幸徳は、留学中のことをあまり聞いていないとしている。
幸徳によると、
兆民はまず小学校に入ったが児童のうるさいのに堪えられず去った、
リヨンの某状師(弁護士)に就いて学んだ、
もっぱら哲学・史学・文学を研鑽し、『孟子』『文章軌範』『日本外史』などをフランス語訳した、
史籍を渉猟した、
政府の留学生召還の命があり、フランスの教師が学資を支給し留学継続を勧めたが母親のことを想って帰国した、
フランス時代に西園寺公望、光妙寺三郎、今村和郎、福田(坂田)乾一、飯塚納らと交遊した、
ことなどを伝えている。


フランス時代の兆民を調査した研究は、井田進也『中江兆民のフランス』が殆ど唯一のもの。
この研究によると、以下。


明治5年1月11日、兆民はフランスに到着し、しばらくパリに滞在。
その後、リヨンに赴き、大学人学資格試験のための準備教育のためバレーなる弁護士に就き普通学(語学および一般教養)を学ぶ。
当時兵部省からフランスに派遣されていた大山巌は、ジュネーブからパリへ向かう途中、リヨンに立ち寄り、1872年6月17日、坂田乾一、小田、中江と四人で、リヨンの博覧会に遊んでいる。


ところが、1873年3月、文部省が留学生帰国指令を各国駐在の公使に送達する。
5月頃、この留学生召還の件で、兆民はリヨンからパリに移る。

リヨンの井上毅(司法省より派遣)は、6月6日付けで上司の河野敏鎌(司法大丞)・岸良兼養(少丞兼権大検事)に宛てて意見具申を行っている。
この意見具申で井上は、高知県人の今村和郎と中江兆民の留学延長が認められた。河野も高知県人であり、高知県人の縁故と疑われるかも知れないが、兆民の有能を見込んでの、司法省将来のことを考えての至願だと訴えている。
経緯は不明であるが、井上毅が兆民を高く評価していたこと、リヨンで井上と兆民はかなり親しく交際していたと推測できる。

この年夏、九鬼隆一(文部省七等出仕、東校副長心得)が留学生召還方針を伝達するためヨーロッパに派遣され、パリで兆民、井上、今村、入江文郎らに会う。
兆民は召還方針に反対し、ロンドンやベルリンに赴き、留学生を煽動したようだが、九鬼から事情を聞いて召還方針に服したと伝えられている。


しかし、結局、7月4日に兆民は、文部省の留学生改正処分による留学残留の選に入ったものの、12月25日には、太政官が留学生悉皆帰朝命令を布達し、翌年4月末日までに帰途につくことを命じる。この命令は、兆民も例外ではなかった。


帰国
明治7年(1874)4月26日、マルセイユ発。6月9日に横浜に到着。
航路は、地中海を東進し、スエズ運河を通過し、紅海を通り、アラビア海を横断し、ゴール(スリランカ)、シンガポール、サイゴンなどを経由したと考えられる。


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以下、岩倉使節団の記録『特命全権大使米欧回覧実記』より
・パリの情景。
「○巴黎(パリ)ノ市中ハ、到処ニ酒店、割烹店、茶、珈琲店アリ、樹陰ニ榻(こしかけ)楊ヲオキ、遊客案(つくえ)ヲ対シテ飲ム、盛夏ニ涼ヲ納レ、晴夕ニ月ヲミル、劇場、楽堂、処処ニアリ、所謂ル歌舞終日無威容ノ気象ヲ顕セリ、」

・リヨンの描写。
「里昂(リヨン)府ハ、仏国ノ大都会ニテ、・・・人口三十二万三千九百五十四人アリ、仏国中ニテ、巴黎ノ外ハ、此都ノ盛ニ及ブ所ナシ。
絹織ノ名所ナリ、地勢ハ山脈ノ余ヲウケテ、西北ニハ岡陵起伏シ、東南ニハ平野曠然タリ、「ソオン」河ノ「ロオン」河ニ会合スル地角ヲ占メ、両河ノ間ヲ、府中ノ尤モ稠密ナル区トス、
街上ノ家屋ミナ宏大ニテ、傑閣雄楼相連り、石造堊壁ハ、皜然(こうぜん)トシ六七層ノ高キニ及ビ、櫓(ひさし)ニハ石像ヲ建テ、窓ニハ藻欄ヲ施シ、金光爛然トシテ日二輝ク、路ニハ石ヲ甃(しゆう)セザル地ナク、処処ニ広苑ヲ存シ、樹ヲ植エテ森然蔚然(うつぜん)ナリ、
緑陰正ニ展(の)ビ、嵐翠夏ヲ遮ル、府中ノ民、夕ニハ其下ニ盤游ス、夜ハ瓦斯(がす)燈ヲ点シ、燦トシテ星ノ如シ、河西ニ岡阜アリ、上ニ寺アリ、金ノ馬利(メーリー)像ヲ建ツ、此ヨリ東南ヲ一眺スレバ、府中ノ景、ミナ睫(まつげ)ノ間ニ落ツ、
岡前ニ「ソオン」河流ル、数条ノ橋ヲツゞリテ往来ヲ利ス、北方ニハ地勢隆起シ、此ニ織戸多シ、東方ノ野ハ、河ヲ隔テゝ連リ、瑞士ノ境ニ達ス、此ヲ里昂府ノ大形トス、」


・アジア植民地の状況
「弱ノ肉ハ、強ノ食、欧洲入遠航ノ業起リシヨリ、熱帯ノ諸国、ミナ其争ヒ喰フ所トナリテ、其豊饒ノ物産ヲ、本洲ニ輸入ス」。
しかし、ヨーロッパ人で、「遠航シテ、利ヲ東南洋ニ博取シ、以テ生理トナスモノハ、大抵本国ノ猾徒ニテ、其無頼無行ナルヲ以テ、郷里ニ斥ケラレ、或ハ刑辟ニ触レテ、人ニ交際ヲ得ザルモノ、多ク出テ利ヲ外国ニ獲ンコトヲ図ル、故ニ東南洋ニ生産ヲ求メルモノハ、大抵文明国ヨリ棄テラレタル民ナリ」とみて、
植民者と本国の文明人と混同してはならぬという(文明と侵略とを切リ離している)。

・フランスからの途次、ポートサイド、サイゴンに立寄り、上陸して市内を見て廻わった兆民の印象。
「英法諸国ノ氓此土ニ来ルモノ、意気倣然トシテ絶へテ顧慮スル所無ク、其土耳古人若クハ印度人
ヲ待ツノ無礼ナルコト曾テ犬豚ニモ之レ如カズ、
一事心ニ愜ハザルコト有レバ杖ヲ揮フテ之ヲ打チ若クハ足ヲ挙ゲ一蹴シテ過ギ視ル者恬トシテ之ヲ怪マズ、
顧フニ土耳古印度ノ人民ノ如キ其頑陋鄙屈ニシテ丈夫ノ気象ニ乏ク自ラ此侮辱ヲ取ルト雖モ、抑々欧洲人ノ自ラ文明卜称シテ而シテ此行有ルハ之ヲ何卜謂ハン哉、・・・」(「論外交」明治15年8月)
ヨーロッパ的文明(自由)の限界を知りその克服を課題として認識したに違いない。
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