2011年6月13日月曜日

昭和16年(1941)6月15日 「今日以後余の思ふところは寸毫も憚り恐るゝ事なく之を筆にして後世史家の資料に供すべし。」(永井荷風「断腸亭日乗」) 

永井荷風「断腸亭日乗」を少しづづご紹介してます。
今回は、昭和16年6月15日。

今回は、「断腸亭日乗」の中でも最も知られた個所の一つだと思います。


喜多村筠庭(いんてい)という人の『筠庭雑録』を読んで、著者の筠庭が安永~天明年間の文学者である神沢杜口(とこう)の『翁草』について書いている個所を読んで感動する。


杜口はもの書きの信念として、
「・・・平生の事は随分柔和にて遠慮がちなるよし。
但し筆をとりては聊も遠慮の心を起すべからず。
遠慮して世間に憚りて実事を失うこと多し
翁が著す書は天子将軍の御事にてもいささか遠慮することなく、実事の儘に直筆に記し・・・此一事は親類朋友の諫に従いがたく強て申切て居れり」
と書いている。


荷風はこの個所を読んで、これまで自分がびくびくしながら時局批判を書いてきたことに恥じいる。


そして、
「余これを読みて心中大に慚(ハズ)るところあり。
・・・余は万々一の事を憂慮し、一夜深更に起きて日誌中不平憤惻の文字を切去りたり。又外出の際には日誌を下駄箱の中にかくしたり。
今翁草の文をよみて慚愧すること甚し。今日以後余の思うところは寸毫も憚り恐るる事なく、之を筆にして後世史家の資料に供すべし



と決心する。


闘う荷風、である。


以下、「日乗」(但し、段落を施しています)


昭和16年(1941)6月15日
六月十五日 日曜日 病床無聊のあまりたまたま喜多村筠庭が筠庭雑録を見るに、其蜩(ひぐらし)の翁草につきて言へることあり。
ある日余彼菴を尋て例の筆談に余が著作の中に遠慮なき事多く、世間へ廣くは出し難きこと有など謂ひけるに、翁色を正して、

足下はいまだ壮年なれば猶此後著書も多かるべし。
平生の事は随分柔和にて遠慮がちなるよし。
但筆をとりては聊も遠慮の心を起すべからず。
遠慮して世間に憚りて實事を失ふこと多し


翁が著す書は天子将軍の御事にてもいさゝか遠慮することなく實事の儘に直筆に記し、是まで親類朋友毎度諫めていかに寫本なればとて世間に漏出まじきにてもなし、いか成忌諱(きゝ)の事に觸れて罪を得まじきものにもあらず、高貴の御事は遠慮し給へといへど、此一事は親類朋友の諫に従ひがたく強て申切て居れり。云々

余これを讀みて心中大に慚るところあり。



今年二月のころ杏花餘香なる一編を中央公論に寄稿せし時、世上之をよみしもの余が多年日誌を録しつゝあるを知りて、余が時局について如何なる意見を抱けるや、日々如何なる事を記録しつゝあるやを窺知らむとするもの無きにあらざるべし。
余は萬々一の場合を憂慮し、一夜深更に起きて日誌中不平憶惻の文字を切去りたり。
又外出の際には日誌を下駄箱の中にかくしたり


今翁草の文をよみて慚愧すること甚し
今日以後余の思ふところは寸毫も憚り恐るゝ事なく之を筆にして後世史家の資料に供すべし


日支今回の戦争は日本軍の張作霖暗殺及ぴ満洲侵略に始まる。
日本軍は暴支膺懲と稱して支那の領土を侵畧し始めしが、長期戦争に窮し果て俄に名目を變じて聖戦と稱する無意味の語を用ひ出したり。
歐洲戦亂以後英軍振はざるに乗じ、日本政府は獨伊の旗下に随従し南洋進出を企圖するに至れるなり。
然れどもこれは無智の軍人等及猛悪なる壮士等の企るところにして一般人民のよろこぶところに非らず。


國民一般の政府の命令に服従して南京米を喰ひて不平を言はざるは恐怖の結果なり。
麻布聯隊叛亂の状を見て恐怖せし結果なり。
今日にて忠孝を看板にし新政府の氣に入るやうにして一稼(もうけ)なさむと焦慮するがためなり。
元來日本人には理想なく強きものに従ひ其日々々を気楽に送ることを第一となすなり。


今回の政治革新も戊辰の革命も一般の人民に取りては何らの差別もなし。
歐羅巴の天地に戦争歇む暁には日本の社會状態も亦自ら變転すべし
今日は将来を予言すべき時にあらず


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「★永井荷風インデックス」 をご参照下さい。
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