2011年6月12日日曜日

明治7年(1874)8月10日~9月3日 参議兼内務卿大久保利通、岩倉の変心により台湾問題交渉で清国派遣全権弁理大臣に任命される [一葉2歳]

明治7年(1874)8月
この月
・秋田県士族田崎秀親、ドイツ代弁領事ハーベルを箱根で殺害。
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・高知県士族中江篤助(兆民)、東京府知事に対し、東京の第3大区3小区中6番町45番地に仏文学の家塾を開きたいとの願書(「家塾開業願」)を提出。
この年3月、文部省は、「帰朝留学生心得箇条」を出し、「海外留学生帰朝ノ上ハ進退可為勝手事」との方針を示す(これまで官費留学生が帰国後勝手に民間に就職するのを禁止していたが、今後は官費留学生の面倒をみないと、方針を変更)。
そのため兆民は、フランス学の塾を開いて生活の資を得ようとする。
「家塾開業願」によると、学科は仏文学、教則としてはフランス語の単語・会話・文法の諸教科書のほか、ジュリー「希臘羅馬史」「仏近世史」、ジュクードレー「当代史」、ヴォルテール「査理十二世史」「路易十四世史」、モンテスキュー「羅馬興亡論」、フェネロン「的列瑪屈」、ルソー「民約論」「開化論」「教育論」、及び道学書となっている。
間もなく開業許可となり、10月、仏蘭西学舎開塾の広告を出す。
尚、「中江篤助稿 明治七年一〇月上旬」と記された「民約論巻之二」の原稿が現存しているところから、おそらく「巻之一」は既に完成していたと推測できる(「社会契約論」の翻訳は、遅くとも帰国早々か、或は帰国の船中もしくはフランス時代から始まっていたであろう)。
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8月1日
・参議兼内務卿大久保利通、岩倉の変心により台湾問題交渉で清国派遣全権弁理大臣に任命される。
6日、横浜出港。長崎(10日着、16日発)、上海経由。
顧問ボアソナアド。随員司法省7等出仕名村泰蔵・同井上毅・特例弁務使リゼンドルら21名。
9月10日北京着。
ボアソナアドの司法卿大木喬任への上申:
「各事件被仰付侯通り、日本政府におゐてハ余ニ面目ヲ表セラレ候ニ付テハ、信ヲ以テ之レニ報ジ度奉存候。・・・此度ノ事件ニ付而ハ、余忠勤ヲ表スベキ事、閣下ニ御請合申上候」(8月3日)。        5日、大久保に対し、委任状に併せて、
一、柳原公使への内勅および田辺四等出仕持参の訓令書が「不動の要旨」とはいえ「便宜取捨談判するの権」
二、「和戦を決するの権」
三、「在清の諸官員」を「指揮進退するの権」
四、必要があれは「武官」をも「指揮進退するの権」
五、特例弁務使リゼンドルを「進退使令するの権」
が付与される。
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8月1日
・マルクス(56)、内務大臣にイギリスへの帰化を請願。29日、却下。
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8月2日
・伊地知正治・黒田清隆・山県有朋、参議就任。大隈・大木・伊藤・勝・寺島・大久保入れて全9名となる。
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8月15日
・立志社総代林有造、台湾征討の義勇兵編成願を高知県権令に提出(10月28日不認可)
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8月15日~9月21日
・マルクス(56)、グンベルトの勧めに従い、カールスバートで療養。
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8月16日
・ワッパ騒動。酒田県、1万人が参加した石代上納・雑税廃止を求める農民騒動が広がりをみせる。
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9月
・朝鮮、日本公館長森山茂と釜山地方管轄東莱府使朴斉寛間で交渉開始合意。台湾出兵の影響で軟化。
10月、森山は一旦帰国。
翌明治8年2月、正式代表使節として副官広津弘信を伴い釜山着。
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・置賜県(現、山形県南部)県令関義臣、米沢藩出身左院議官宮島誠一郎の圧力で更迭。
家禄石代と騰貴した米価との乖離で、士族が騒ぎ、旧藩大参事であった千坂高雅の奔走で沈静化。
ただし、関は集権化の辣腕を振るうが、言行に過度な振舞いもあり地元士族との軋轢激しくなる。
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・官立大学として6年制の開成学校が置かれる。医学校との2つで大学を構成。
校舎は、明治6年2月起工、8月に完成。洋風2階建、総坪1,800余坪。場所は、旧榊原邸(現、学士会館辺り)。
この月の新学期には、法科9人、化学9人、工学6人の学生がいた。
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・開成学校に入るための予備校として、外国語学校が全国に8ヶ所設けられる。
この月、開成学校の向側の東京外国語学校(4年制、各半年毎に進級、上級から1~8級に分かれる)に入った生徒に、大島正健、添田寿一、佐藤昌介、土方寧、藤沢利喜太郎、高田早苗、市島謙吉、田中館愛橘、新渡戸稲造、内村鑑三がいる。
大島正健・佐藤昌介・高田早苗等は5級に、新渡戸稲造・内村鑑三は7級に編入。
佐藤昌介・新渡戸稲造は南部藩士の子。江戸詰藩邸は芝の桜川町にあり、両家はその藩邸内にあったので2人は知り合い。
新渡戸の祖父伝は十和田湖の水を東方に流して三本木の農地を開拓した著名な人物。維新後、父子は郷里へ戻るが、稲造は明治4年、東京在住の叔父のもとで教育されるため上京。
佐藤昌介もその年上京し、大学南校の後外国語学校に入学。この年、佐藤は19歳、新渡戸は13歳。佐藤の父昌蔵は南部藩花巻支城詰の武士で、政治に志を持っていた。最初の妻で、昌介の母キンが没し、後妻キヨを迎える。キヨと昌蔵との間に、明治4年6月15日、佐藤輔子が生まれる。       のち、中江篤助が東京外国語学校校長になる。
開成学校は、初めヨーロッパ諸国語による教育を行う方針であったが、間もなく英語を主とすることに方針を変え、その予科である外国語学校は、この年未、英語学校と名を変え、英語以外の諸外国語を学ぶ生徒のために、同じ一ツ橋外に、外国語学校を併存することになる。
中江はこの措置を不満とし外国語学校長を辞任。        
 この年9月17日、全国に8ヶ所設けられた外国語学校のうちの第2として愛知外国語学校が名古屋に開校。
この時、坪内勇蔵(16)が入学。勇蔵の父は美濃の太田の代官の手代役で、維新後は名古屋近くの笹島村に住んでいた。勇蔵は10十番目に生れた末子で、父母や姉たちに愛され、草双紙や読本類を愛読し、母と芝居を見に行くのが大好きな少年であった。寺小屋や私立の語学校などで学んだ後、この官立の外国語学校に入った。
坪内は入学すると寄宿舎に入った。
学校には外人教師が4人いたが、教頭はアメリカ人医師ドクタア・レーザムで、英語を教え発声法に力を入れた。シェイクスピアの「ハムレット」では、表情たっぷりに俳優のような動作を混え、「トゥー・
ピー・オア・ナット・トゥー・ピー」と暗誦し、歌舞伎を見馴れていた坪内は、外国の芝居を見るような気持がして印象に残った。
坪内は、成績がよく、1年飛び級をした。彼は江戸末期の小説類を耽読し殆ど読み尽していたので、新しい読みものを捜し、仮名垣魯文「西洋膝栗毛」「安愚楽鍋」を読んだ。坪内は、上京して開成学校へ入ったら魯文の弟子になろうと空想した。    
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・小室信夫ら、徳島に自助社創立。
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・フェノロサ、ハーバード大・大学院進学。スペンサー、ヘーゲルの哲学研究。
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9月1日
・鶴岡、致道館跡、旧士族の子弟のための苗秀学校、開校。
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9月2日
・(露暦8/21)チャイコフスキー「鍛冶屋のヴァクーラ」完成
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9月3日
・スペイン、サガスタ立憲派内閣成立
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