2011年6月26日日曜日

永禄5年(1562)1月6日~3月17日 清洲同盟なる フランス第1次宗教戦争(ユグノー戦争)開始 [信長29歳]

永禄5年(1562)
この年
信長29歳、光秀35歳、秀吉27歳、家康21歳
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自由都市堺
「永禄五年堺発 日本全国当堺の町より安全なる所なく、他の諸国に於て動乱あるも、此町には嘗て無く、敗者も勝者も、此町に来往すれば皆平和に生活し、諸人相和し、他人に害を加うる者なし。
市街に於ては嘗て紛擾起ることなく、敵味方の差別なく皆大なる愛情と礼儀を以て応対せり。
市街には悉く門ありて番人を付し、紛擾あれば之を閉づることも一の理由なるべし。
紛擾を起す時は犯人其他悉く捕えて処罰す。
然れどの互いに敵視する者町壁外に出づれば、仮令一投石の距離を超へざるも遭遇する時は互いに殺傷せんとす。
町は甚だ堅固にして、西方は海を以て、又他の側の深き堀を以て囲まれ、常に水充満せり。
此町は北緯三十五度半の地にあり」(「耶蘇会士日本通信」)。
「堺の町は甚だ広大にして、大なる商人多数あり。
此の町はベニス市の如く執政官に依りて治めらる」(「耶蘇会士日本通信」)。
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・尼子晴久没後、毛利元就、石見銀山奪取。
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・北条氏政、男子(氏直)誕生。
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・明智光秀(35)、朝倉義景の領国越前に入り、称念寺門前に居住。
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・金川城主松田元賢、備前守護代浦上宗景に出仕。小田郡星田郷の三村家親が毛利氏と組んで東進してきたため。
宇喜多直家は娘を松田に嫁がせる。もう1人の娘は、美作三星城主後藤摂津守勝基に嫁がせる。
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・セバスチャン・カステリョン、「カルヴァンを駁す」。ミシェル・セルヴェの擁護。
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1月
・上杉政虎、輝虎と改名。
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・大友義鎮、将軍足利義輝に黄金50両を送る。
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1月6日
・上杉輝虎(33)、館林城攻略を小泉城(群馬県邑楽群大泉町下泉字城の内)城主富岡重朝の参陣を求める。
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1月11日
清洲同盟
三河の松平元康(21、家康)、清洲城の信長(29)を訪ね両者の軍事同盟締結。
前日14日、本多平八郎忠勝、先頭で清洲入城。
翌16日、信長は宿老の林秀貞らを岡崎城に遣わし答礼。
この同盟により信長は東方の憂いから解放され、元康にとっては駿河の今川氏から独立する画期となる。
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1月12日
・前田利長、尾張国愛知郡荒子城(名古屋市中川区)に前田利家の嫡男として誕生(母はまつ)。幼名犬千代。
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1月17日
・フランス、サン・ジェルマン王令(1月王令)。ユグノーの「信教の自由に関する勅令」公布。
カトリーヌ・ド・メディシスとミシェル・ド・ロピタル、「寛容な王が支配する寛容な社会」を目指し様々な新しい自由を認める意図。
カトリーヌ、「キリスト教徒でなくても、たとえ破門された人間でも、市民たり得る」との文章に署名。
但し、ユグノーの説教・出版・祈り・集会は「都市の外」でなければならない
(今まで、都市内でのユグノーの集会がカトリック教徒を挑発し、しばしば暴動。都市の中でのユグノーの「教会堂」は、依然として禁止)。
パリ高等法院、勅令の登記を拒否、1562年2月14日(1ヶ月後)仮登記(国王が成人後、再検討)。
新旧両派は、勅令の条項を承認。ようやく国内の平和が訪れると思われるが、空振りに終わる。
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1月18日
・道陳、病没。利休のもう一人の師。「近頃ノ名人ニテ御入候(であった)」(宗久)。
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1月26日
・北条氏康、武蔵慈眼寺を焼く。
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2月
・武田晴信(信玄)、飛騨諏訪城を攻める。
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・信長、水野範直へ、従来通り尾張国内に於いて「鐘」・「塔九輪」・「鰐口」鋳造の特権を承認、熱田の「鉄屋」が鞴を立てることを禁ず。
更に他国人の尾張内への「鍋」・「釜」移入を禁止し水野範直に専売権を承認、諸役・門次の所質など免除(「水野太郎左衛門氏所蔵文書」)。
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・阿蘇山噴火。
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2月4日
・松平元康(21、家康)、久松俊勝や酒井忠次らに命じて今川氏真に属する上ノ郷(かみのごう)城(三河西郡城?)攻撃。
城将鵜殿長照(うどのながてる)を殺す。長照の2子を捕え、今川方に人質同然の築山殿・竹千代(信康)・亀姫と交換(長照の母は義元の妹、氏真と長照は従兄弟の間柄)。
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2月9日
・上杉輝虎(33)、上州館林城(赤井照景)攻囲。
19日、陥落。館林城将に長尾当長を任ずる。城将赤井輝景、武蔵忍野へ退く。
月末、帰国。
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2月22日
・松永久秀、多聞山より南山城へ出陣、筒井氏に加担した狛・稲八妻氏と戦う。
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2月23日
・十市氏・郡山辰巳向井氏、柳本城から多聞山へ帰陣、筒井衆と戦い敗れる。
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2月26日
・毛利軍1万余、松山城を攻め、首級1千余をあげ大勝。
つづいて隆兼のいる音明城を攻撃、落とす。隆兼、出雲を経てのちに大和へ逃亡。
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3月
・今川氏真、松平方の家臣の妻子を吉田城下龍拈寺に引き出し串刺しの刑に処す。
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3月1日
・フランス、ヴァシーの虐殺(ユグノー戦争の発端)。第1次宗教戦争開始(1562~1563)
旧教徒ギーズ公フランソワ(43、1519~1563)軍、ヴァシーでユグノー(カルヴァン派新教徒)虐殺。
その後、8次に渡る両派の衝突
ユグノーは「ギーズ公が虐殺を欲し命令した」と宣伝
(ギーズ公フランソワは「ヴァシーの死刑執行人」となる)。
カトリーヌ・ド・メディシス、1月の「サン・ジェルマン王令」の流産を認識、ユグノーへ「譲歩」してきたスタンスをカトリック側に反転。パリ知事にブルボン枢機卿を任命(アントワーヌ弟、コンデ兄)。時間を稼ぎ協調路線を探る。
旧教徒軍に占領・破壊されたサントの町のベルナール・パリッシーの攻防はモンモランシー将軍の庇護のため救われる。
新教徒首領ガスパール・ド・コリニー提督も行動派に転換。


新教徒は本国を逃れ海外進出を図る。
ジャン・リボーのひきいるユグノー教徒の一団、サウスカロライナに入植。
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3月5日
・畠山高政、和泉久米田(岸和田市)の三好方篠原長房を攻撃。
三好方反撃。畠山退却。
三好方の追撃の隙に根来衆、三好本陣急襲。三好義賢(実休、長慶の弟、37)討死。雑賀勢鈴木孫九郎重宗、戦死。
三好勢総退却。高屋城に撤収。
6日、三好義興、京都防衛のため三好勢を勝竜寺城に引上げ。
足利義輝、和泉での敗戦により洛中より八幡へ移座。
六角義賢、京都勝軍山城より清水へ移陣し洛中を占拠、禁裏を警固。幕府近辺に放火、「上京・下京は焼却」(「御湯殿上日記」)。
10日、畠山高政が飯盛城(長慶居城)包囲のため、三好義興・松永久秀、摂津鳥養・柱本へ陣を移す。    
政所執事伊勢貞孝は、今回も将軍を裏切り京都に留まる。
買得地、祠堂銭、神物の安堵は義輝の手から離れる。
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3月10日
・幕府、京都西岡諸郷に徳政を約し忠節を促す(「蜷川家古文書」)。
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3月13日
・六角義賢、大徳寺領を惣安堵(「大徳寺文書」)。
18日、奉行人宮木賢祐・蒲生定秀の命じ、洛中洛外に徳政令の高札を打たせる(「蜷川家古文書」)。
21日、大覚寺へ愛宕燈明要脚を安堵(「田中光治氏所蔵文書」)。
23日、洛中に敵方隠匿内通の禁止5ヶ条布告(「鳩拙抄」)。
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3月14日
・上杉輝虎(謙信)、下野・唐沢山城を攻めるが失敗。関白近衛前嗣、前関東管領上杉憲政を伴って越後に帰る。    
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3月17日
・信長、尾張熱田座主御坊(如法院)へ「六拾六部」(六十六部廻国衆)の尾張国内通過を承認。
21日、尾張正眼寺へ寺領を安堵。
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「★織田信長インデックス」をご参照下さい。
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