「吾輩は猫である」(一)から(六)までの私的読書ノートを掲載してきましたが、今回は「猫」が結んだ夏目漱石と堺利彦の縁について。
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明治38年(1905)1月から漱石(39歳)は「ホトトギス」に「猫」を連載し、好評を博します。
そして、同年10月には「猫」(一)~(六)を上篇として纏めて刊行し、これもまた大好評で、20日で初版完売となります。
一方の堺利彦(35歳)は「猫」の熱心な読者であったらしく、同年10月28日付け葉書で漱石に「猫」の感想を送ります。
「新刊の書籍を面白く読んだ時、共の著者に一言を呈するは礼であると思ひます。
小生は貴下の新著「猫」を得て、家族の者を相手に、三夜続けて朗読会を開きました。
三馬の浮世風呂と同じ味を感じました。 堺利彦」
この時の葉書は、堺利彦が幸徳秋水らと創設した平民社が一周年記念に制作販売したエンゲルスの肖像入りの葉書です。
堺の文中にある「三馬」は「浮世風呂」で知られる江戸時代の式亭三馬のことで、この堺の指摘に触発されて、漱石は続く「猫」(七)で、猫の「吾輩」が銭湯を観察する場面を入れたという指摘もあります。
ちょうど堺が漱石に葉書を出した頃、堺らの平民社は、財政難や堺自身の再婚問題による同志間の感情のすれ違いなどから解散の已む無きに至り、翌月(11月)には幸徳は渡米するという事態に陥ってます。
それでも堺は孤軍奮闘し、翌年には、日本社会党を結成し、東京の電車賃値上げ反対運動に取り組みます。
ここで、漱石と堺利彦の第二の縁。
この年8月10日、日本社会党の人々が、電車賃値上げ反対のビラを配るために、隊列を組んで市内を行進しますが、翌日の「都新聞」は、このビラ配布に漱石の妻も参加したと報じます。
「電車賃値上反対の旗幟を標榜して其の絶交運動(ボイコット)を市民に促す為め、開催されたる日本社会党有志者の行列は、昨日午前九時五十分、神田区三崎町三丁目一番地の同党本部を出でたり。
行列の一行は出来得るだけ質素に且つ静粛ならん事を期したるより、総数を十人と限り、堺枯川、森近運平、野澤重吉、菊江正義氏外四名と、堺氏の妻君、夏目(漱石)氏の妻君、是れに加り、各自浴衣に尻端折、或は筒袖に草履穿といふ遠足式軽装を為し、婦人連も小褄(こつま)をキリと引上げて、頗る身軽に見受けられたり。・・・」
この記事を読んだ美学者の深田康算(やすかず、のち京都帝大教授)は、この記事の切り抜きを漱石へ郵送します。
それに対し、漱石は、8月12日に深田に返事を書きます。
「拝啓、今頃は仙台の方にでも御出の事と存候処、突然尊書飛来、都新聞のきりぬきわざわざ御送被下難有存候。
電車の値上には、行列に加らざるも賛成なれば一向差し支無之候。
小生もある点に於て社界主義故、堺枯川氏と同列に加はりと新聞に出ても、毫も驚ろく事無之候。
ことに近来は何事をも予期し居候。新聞位に何が出ても驚ろく事無之候。都下の新聞に一度に漱石が気狂になつたと出れば、小生は反つてうれしく覚え候。・・・」
小説「野分」(「ホトトギス」1907年1月号)では、漱石のこれと同様のスタンスが明確に書かれている個所があります。
主人公白井道也と妻との会話
「社のもので、此間の電車事件を煽動したと云ふ嫌疑で引っ張られたものがある。 - 所が其家族が非常な惨状に陥つて見るに忍びないから、演説会をして其収入をそちらへ廻してやる計画なんだよ」
「そんな人の家族を救ふのは結構な事に相違ないでせうが、社会主義だなんて間違へられるとあとが困りますから・・・」
「間違へたつて構はないさ。国家主義も社会主義もあるものか、只正しい道がいゝのさ」
さて、「都新聞」のデマ記事はどこから生じたかというと、実は、この年の初めに堺利彦が猫をもらいうけ、その猫に「ナツメ」と命名したことに起因するらしい。
かのビラ配布の日、ビラを配布しているメンバが、昼食をとるために堺の家(堺は由文社という出版社を経営しており、その事務所)に立ち寄ります。
メンバたちは、そこでナツメを見て、「アゝ之れがあの有名なナツメさんですか」などと言いあったそうで、それを聞き違えた記者が「漱石夫人社会党のチラシを配る」と報道してしまったということらしい。
堺は自分の飼い猫が原因で、漱石に迷惑をかけては申し訳ないと思い、すぐに新聞社に取消文を送ったという。
実際には一度も会ったことはないけれど、お互いに好感を持っていたと推測できる、「猫」が結んだ夏目漱石と堺利彦の縁である。
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