2011年6月28日火曜日

昭和16年(1941)4月17日~30日 野村駐米大使から「日米了解案」届く 松岡外相はこれに反対 ギリシャ占領

別途進めています永井荷風「断腸亭日乗の昭和16年と併走させる積りで始めた年表「昭和16年記」が止まっていました。
再開します。
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昭和16年(1941)4月17日
・大本営、「対南施策要綱」概定。仏印・タイとの軍事的結合を意図。
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・ユーゴスラビア、ドイツに降伏。国王ペタル2世と政府閣僚、亡命。
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・ハル米国務長官、蘭印の現状維持を声明。対日警告。
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4月18日
野村駐米大使からの「日米了解案」受信
夜、大本営政府連絡会議、「諒解案」受諾に傾く。

この諒解案は、岩畔・井川・ドラウト3人が試案を作り、ハルが手直しして出来上がったと日本に伝えられる。
この案では、「(一)日米両国ノ抱懐スル国際観念並ニ国家観念」~「(七)太平洋ノ政治的安定ニ関スル両国政府ノ方針」の7点で合意に達したといい、中心はアメリカの満州国承認、支那事変解決の仲介にあり、末尾では、日米の代表者の会談をホノルルで開き、近衛とルーズベルトが話し合ってもいいとさえ言う。

野村大使の請訓電を補足するこの日着の岩畔電は、「第二次試案即チ外務電所報ノモノハ「ルーズヴェルト」ノ同意ヲ得アリ寧ロ確実ナルモ若シ日本政府ニ於テ蹴ラレタル場合米国ハ立場ヲ失フコトトナルヲ以テ本日(四月十六日)ノ会談ニ際シ「ハル」ヨリ野村大使ニ対シ先ヅ東京政府ノ意見ヲ聴カレ度トノ提案アリタル次第・・・」とある。
これを読むと米国側提案と判断できる。

午前、軍務課長佐藤賢了は、軍務局長武藤章に呼ばれ、野村から送られた「日米諒解案」を手渡され、これを読み、「それは困惑したというよりは、若い娘が豪華なファッションでも見たような、そしてまた眉にツバでもつけたいように変に交錯した気持(だった)」を覚える。
佐藤・武藤・石井秋穂(日米交渉を担当する軍務課高級課員)も、日米諒解案の内容に興奮し東條の許に飛ぶ。
東條は、目を細め、「アメリカの提案は支那事変処理が根本第一義であり、したがってこの機会を外してはならぬ、断じて利用しなければならぬ」と言う。

午後の陸軍省軍務局での打ち合わせ。
米側の諒解案を土台にし、日米交渉の方向を3点に絞る。
①米国は援蒋政策を捨て日支和平の仲介をする、
②日米両国は欧州戦争には参戦しない、なるべくなら両国協力してその調停を行なう、
③米国は対日経済圧迫を解除する。

午後8時、大本営政府連絡会議で諒解案の取り扱いを検討。
会議の空気は和やかで、東條と武藤の笑顔が目立つ。
東條は得意気に発言を続け、「この案ではじめるのは結構だが、ドイツとの信義から三国同盟に抵触しないようにすべきだ」とか、「アメリカと対峙する軍事的余裕はいまはない」、と出席者たちに具体的に説明。
すぐに野村に「原則上同意」電報を打とうとの声もあがるが、外交責任者の署名なしにはできないということになり、欧州訪問中の松岡外相帰国を待つ事になる。

「木戸幸一日記」では:
①(近衛と木戸内府との話し合い)
「独伊に対し信義を失はず、又我国の国是たる大東亜共栄圏の新秩序建設に抵触せざる様、充分研究工夫の上、是が実現に努力するを可とすとの結論に一致す」(4月19日)。
②(天皇の木戸への発言)
「米国大統領があれ迄突込みたる路を為したるは寧ろ意外とも云ふべきが、かう云ふ風になって来たのも考へ様によれば我国が独伊と同盟を結んだからとも云へる。総ては忍耐だね、我慢だね」(4月21日)。
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4月19日
・今中次麿「政治学」発禁。
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・鈴木庫三、岩波書店に電話で安倍能成「時代と文化」を例にとって岩波書店の出版傾向を罵倒。
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・トゥブルク救援のイギリス特別攻撃部隊、撃退される。
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・アメリカ、イギリス、オランダ、マニラで軍事協定を結ぶ。
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4月20日
・南洋群島神社規則公布
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・ドイツ軍「マーキュリー」作戦(空挺部隊によるクレタ島占領作戦)。
この日、ドイツ空軍による上空制圧と爆撃に続いて落下傘部隊が降下。
落下傘部隊の損害は甚大であるが連合軍の混乱はそれ以上で、約10日間の激戦の末、ギリシア政府・国王は再び海へと退却。
ドイツ落下傘兵死者・行方不明4,500。
連合軍の半分以上が戦死・捕虜、沈没:巡洋艦3・駆逐艦7、損傷:空母1・戦艦3・巡洋艦7・駆逐艦4。


ドイツ海軍は東地中海には勢力がなく、イタリア海軍は3月28日「マタパン岬沖海戦」で敗北。
落下傘・グライダー降下兵総勢2万2,750、援護航空部隊は戦闘機180・爆撃機280・急降下爆撃機150。
対するクレタ島連合軍はイギリス軍約3万・戦車9、ギリシア軍は定数に満たない2個師団、航空機35のみ。しかも、空からの降下攻撃は想定外。

21日、ギリシャ中・北部のギリシャ軍、対ドイツ降伏。国王ゲオルギオス2世及び閣僚、一部のギリシャ軍、中東方面へ脱出。
22日、ギリシャ軍、テッサロニキでドイツ軍に降伏。イギリス軍撤退開始
23日、ギリシャ中・北部のギリシャ軍、対イタリア降伏。
24日、ドイツ軍、テルモピレーの連合軍陣地を攻撃。連合軍は奮戦、ドイツ戦車に打撃を与えるが、横から山岳師団の攻撃を受けて後退。
26日夕方、ドイツ軍、テーベの防衛線を突破。
同日、ペロポネソス半島と本土をつなぐコリント地峡に落下傘部隊が降下、これを占領。アテネにもペロポネソス半島にもドイツ兵が充満。
27日、ドイツ軍、アテネ入城。】アテネ、ドイツ軍に占領される。
イギリス軍、ギリシャ本土からクレタ島に撤収。

ギリシア全土はドイツ・イタリア・ブルガリア軍の占領下におちる。
ドイツは西トラキアのトルコ国境地帯、アテネ、テッサロニキ、クレタ島と他の島いくつか、
ブルガリアは西トラキアの大部分とマケドニアの一部、
イタリアはそれ以外の地域を占領。

ブルガリアはユーゴスラヴィアからマケドニアを奪い、前世紀以来の野心を満足させる。但し、占領軍の実効支配は都市部のみ、地方の山岳地帯では農民達がレジスタンスの準備を整える。
ドイツの指導者たちは物資・食糧収奪を容赦なく行い、1941年~42年の冬、大飢饉がギリシア人約10万人を死に至らしめる。
15世紀以来テッサロニキ居住のユダヤ人5万人ほぼ全ては強制収容所送りとなり多くは帰還せず。
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4月22日
・満州国政府と朝鮮総督府、「満鮮一体化」を宣言。
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・夕方、松岡洋右外相、帰国。
夜9時20分、大本営政府連合会議、松岡は日米諒解案に慎重な態度を表明し、11時に退席。
その後、会議は続き、交渉促進を申し合わせる。
松岡はその後2週間(26日日比谷公会堂での帰朝報告会後)、私邸に籠り、職員を呼びつけては執務。
近衛・陸海軍軍務局長(武藤・岡)は何度も松岡私邸を訪れ、諒解案検討を説得するが、松岡は応じず。陸海軍首脳からは松岡更迭案が出始める。      

この日、松岡は立川飛行場に近衛と大橋忠一次官の出迎えをうける。
東京への自動車内で、野村大使からの請訓電が自分の手配ルート(駐ソ米大使スタインハート経由)のものでないと知り、「アメリカの常套手段に乗せられて喜ぶとは馬鹿だ」と不機嫌になり、ドイツの諒解が必要、ドイツと相互理解の基盤のある松岡の工作による対米交渉以外は問題であると主張。

25日、松岡のシンガポール攻撃発言に対し、近衛首相・東條陸相・及川海相は取り合ううべきでないとの結論で一致。
「現在は支那事変処理が根本義で、アメリカの提案も日本側のこの要望に沿っている。だからこの機を逃すべきではない。ヒトラーにふり回されたら、すべて台なしになってしまう」という東條の見解に、近衛・及川は諒解。
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・シンガポール、米・英・蘭3国軍事専門家会議開催。~26日。
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4月25日
・中米、中英平衡基金協定調印。米5千万ドル、英5百万ポンドの対中国法幣安定資金借款成立
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4月30日
・ドイツ軍、トブルクを攻撃、失敗(41/ 4/30~5/4)
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・イラク軍部隊、ハバニヤの英空軍基地を包囲
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月末
・連合艦隊先任参謀黒島亀人大佐、山本司令長官命により真珠湾攻撃黒島案を軍令部に説明
第1部長福留繁少将・第1課長富岡定俊大佐・航空主任参謀三代辰吉中佐、共に反対。
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