2015年1月9日金曜日

昭和18年(1943)7月5日~10日 「隣の子供の垣を破りておのれが庭の柿を盗めば不届千万と言ひながら、おのれが家の者人の家の無花果を食ふを知りても更に咎めず。日本人の正義人道呼ばゝりはまづこの辺と心得置くべし。」(永井荷風『断腸亭日乗』)              

京の街に雪が降る 2015-01-02
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昭和18年(1943)
7月5日
・米第43師団主力、ニュージョージア島ムンダ飛行場東方上陸。
佐々木南東支隊長は、コロンパンガラ島の第13連隊第1、3大隊を呼び寄せる。米軍はレンドバ島のほか、海岸に近いルビアナ、アンパアンバ両島にも砲兵を進出させ援護射撃を加えるが、米第43師団は、飛行場東に布陣する日本軍第229連隊を攻めあぐみ前進できず。ハルゼー大将は第37、25師団も投入、総兵力3万3700で1/10の日本軍と対時する形になる。
ジャングルを完全に平地化する砲爆撃にさらされ、夜襲、斬込みを繰り返すうちに、日本軍の兵力は次第に消耗、第229連隊は800人に減少。米第43師団ヘスター少将は疲れ果て、副師団長ジョン・ホッジ代将と交代。
8月3日、第43師団は、佐々木少将が撤退したムンダ飛行場に突入。
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7月5日
・永井荷風『断腸亭日乗』
「昭和十八年七月初五。晴。午後土州橋注射。

  ▼冗談剰語
 一 東京市を東京都と改称する由。何の為なるや。其意を得難し。京都の東とか西とか云ふやうに聞えて滑稽なり。
 一 日本人は忠孝及貞操の道は日本のみ在りて西洋に無しと思へるが如し。人倫五常の道は西洋にも在るなり。但し稍異るところを尋れば日本にては寒暖の挨拶の如く何事につけても忠孝々々と口うるさく聞えよがしに言ひはやす事なり。又怨みありて人を陥れんとする時には忠孝を道具につかひ其人を不忠者と呼びかけて私行を訐(あば)くことなり。忠孝呼ばはりは関所の手形の如し。これなくしては世渡りはなり難し。
 一 日本人の口にする愛国は田舎者のお国自慢に異らず。其短所欠点はゆめゆめ口外すまじきことなり。歯の浮くやうな世辞を言ふべし。腹にもない世辞を言へば見す見す嘘八百と知れても軽薄なりと謗るものはなし。此国に生れしからは嘘でかためて決して真情を吐露すべからず。富士の山は世界に二ツとない霊山。二百十日は神風の吹く日。桜の花は散るから奇妙ぢや。楠と西郷はゑらいゑらいとさへ言つて置けば間違はなし。押しも押されぬ愛国者なり。
 一 隣の子供の垣を破りておのれが庭の柿を盗めば不届千万と言ひながら、おのれが家の者人の家の無花果を食ふを知りても更に咎めず。日本人の正義人道呼ばゝりはまづこの辺と心得置くべし。
 一 近頃の流行言葉大東亜とは何のことなるや。極東の替言葉なるべし。支邦印度赤道下の群島は大の字をつけずとも広ければ小ならざること言はずと知れたはなしなり。Greatest in the world などゝ何事にも大々の大の字をつけたがるは北米人の癖なり。今時北米人の真似をするとは滑稽笑止の沙汰なるべし。」
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7月5日
・ドイツ軍、中部ロシアのクルスク地区で「ツィタデル作戦(城塞)」発動(~15日)、(クルスク突出部のソ連軍を南北から挟撃する作戦)失敗。
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7月6日
・国府側文化諸団体連名で「中共解散、辺区解消」を決議
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7月6日
・「ゴルフなどは、もう来年はやれないだろうという空気が、PGAの連中の間にも満ちてきた。
鈴木文史朗は現在の支配者階級を歌舞伎の赤ら顔にたとえる。確かにそうした感じだ。「むやみに国民を排撃して、それで総力戦が出来るだろうか」と誰かがいった。
有沢広巳は兄から金を出してもらって、浅川に三反の畑と、山を買い、百姓屋を改造して自作農をやることになったそうだ。それは来るべき混乱と革命に対する恐怖からである。
ベルリン電報によると六月中の枢軸軍の敵船舶撃沈数は三十五万トンといっている。これではすくなくて心配だ。敵は、少なくとも百万トンは造っているであろう。
僕は今日鴫中君のところである人々との話しの中でこういった。「電車の中で、宮城の前を通る時に頭を下げる。その時、僕は、神様どうぞ、皇室が御安泰であるように祈るのが常だ。それは形容ではない。かつて『サターデー・イヴニング・ポスト』のマカッソンという記者が拝謁した記事の中で、当時の摂政宮であられた陛下について ー この方は御一生の内で、種々な御経験を経られるだろう - と書いたのを覚えている。そういう言葉を想出しながら、私はほんとうに御安泰を祈るのだ」と。
この共同的訓練のない国民が、皇室という中心がなくなった時、どうなるだろうというような理屈もあるが、しかしそうした理性的な問題ではなしに感情的に「日本人的」なものを持っているからだ。」
(清沢『暗黒日記』)
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7月7日
・国民党、第3次反共攻勢で共産党勢力地に武力攻撃を発動するが失敗
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7月7日
・華北政務新委員長に王克敏が就任
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7月7日
・満鉄事件第2次検挙。
大連で発智善次郎・石堂清倫・田中九一・伊藤武雄・佐瀬六郎、奉天で武安鉄男、新京(長春)で平野蕃・守随一・代元正成が逮捕。
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7月7日
・「日華事変〔盧溝橋事件〕六周年である。朝のラジオは「支那をあやつるのは米英である。蒋介石のみが取り残され、支那民衆は日本と共にある」といったことを放送した。この考え方は日支事変六周年を経て、まだ日本国民の頭を去らないのである。米英を撃破したら、支那民衆は直ちに親日的になるのか。支那人には「自己」というものは全然ないのか。
この朝、また例によって満州国、汪精衛、比島のバルガスその他要人をして日本の政策を讃美せしめて放送した。かかる小児的自己満足をやっている以上は、世界の笑い物になるだけである。
昨夜。Books on the Far East.1934(Kobe Chronicle)の中のH・G・ウェルズの The Shape of Things to Come を読む。ウェルズは満州事変を出発点として支那と全面的な戦争になる。日本は支那に三度勝ってナポレオンの如く敗れる。それから日本は一九四〇年に米国と戦争をすることになる。東京、大阪は「危険思想家」の手に帰する。「日本の終りは始まる」、日本は亡国となるという筋書だ。
ウェルズの予言は、実によく当る。日米戦争の勃発も一ヶ年の相違である。
「将来の歴史家は日本が正気であったかどうかを疑うだろう」ともいっている。面白い書だ。」
(清沢『暗黒日記』)
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7月9日
・歩兵第13連隊をニュージョージア島に投入
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7月9日
・「八日、軽井沢から帰京。この夜、芦田均君の主催にて正木旲(ひろし)君を中心にする会があるからである。正木君は『近きより』を発行する若き弁護士である。その寸鉄的文字は、つとに有名である。集まるもの芦田、馬場、嶋中、名川侃市〔元鉄道次官〕、安藤正純、佐佐木茂索〔文芸春秋社長・作家〕の諸君である。
正木君の話しによると、今年の『近きより』は二月号と六月号とかが発禁であった由。自分が弁護士である関係からか官憲に呼び出されないとの事である。名川氏も弁護士であるが、こちらが強く出ると役人などは弱い。彼らの頭には「出世」しかないという。憲兵隊にも、かつて一回しか呼ばれないそうだ。
正木君は「日本の指導者は下士官の程度になった」という。外国を知らないのが惜しいというから僕は「その方がいいんだ。僕は十二月八日、大東亜戦争勃発の時に持った感じを忘れることはできない。私は愛国者として、これで臣節を全うしたといえるか、もっと戦争を避けるために努力しなければならなかったのではないかと一日中煩悶した。米国の戦力と、世界の情勢を知っていたからだ」といった。
鶴見祐輔君は戦争前途観を楽観す。永井や鶴見には美文があるが、思想なし。 - もっとも鶴見君は僕に厚意を持ち「必要ならば、いつでも援助するから」といっていた。
日本に革命は必須である。その革命は封建主義的コンミュニズムであろう。その結果は、他の持つ者を奪いとるのである。クリエーションでなくて、デストラクションである。特に信州が然りだ。
芦田君が「どう我らが努力しても仕方がないから、安心境に入った」というから、「それはその通りだが、この事態の齎(もたら)す結果について楽観できない。すなわち革命はそれ自体恐れないが、その齎すものは何ら文化的なものが見当らない。この点で仏国大革命の持つ目標の如きものを有していない」と僕はいった。」
(清沢『暗黒日記』)
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7月9日
・連合軍空挺部隊、シチリアに夜間降下
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7月10日
・著作物翻訳に関する日独政府取極調印
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7月10日
・「朝、下村海南氏よりゴルフの誘いあり。行く。
・昨日、富士食糧工業会社(富士アイス)の総会あり。払込み決定す。僕は勧業から借金するの外なし。
昨夜、国民学術協会評議会あり。席上、嶋中理事より、講演会(哲学)を中止した事情につき陳述す。
「陸軍報道部より学術協会の講演会の顔触れが怪しからん、といわれた。そこで中止したのだが、これには『中央公論』との関係がある。『中央公論』は正月の谷崎の「細雪」が有閑マダムを主題にしたもので時局を知らぬと批難されていた。二回でやめたが、その頃から感情を害した。そこへ京都派の哲学者の座談会があって、それが気に入らず、また清水幾太郎のアメリカニズムの研究その他が悪い、中央公論を潰すというようなところまで行った。情報局も内務省もことに海軍などが、あまり気にしないことが益々感情を害したようだった。それに編輯者が一応の弁解をしたことも結果を悪くした。七月号の目次を見ると、これでは少しも自粛していないではないかといったので、そこで思い切って休刊をしたのである。その後、直ちに国民学術協会の広告が出て、それが感情を刺激した。内容ではなしに、単に顔触れを見ての上だけである。性格が悪いというのだ。」
右が大体嶋中君の報告である。そして、もし自分の存在が迷惑であれば辞任しても差支えないと申し出た。
それから食後、田中耕太郎氏の支那訪問雑感あり。
一、治外法権撤廃には大衆は多く無関心だ。
二、重慶が取残されると日本ではいうが、民衆が和を欲すれば重慶はそうする以外はなく、反対に戦いを欲すれば戦うのだ - そう某支那有力者はいった。
三、大学教授の待遇が非常に悪い。小使室に居るというような人もある。学者を求めているが、あれでは人は集まるまい。
四、支那は自然法信者だ。国権の欠如が、そうしたことになったのだ。干渉主義は失敗し、無干渉主義が成功する所以もそこにある。支那は、デモクラッシーの国である。」
(清沢『暗黒日記』)
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7月10日
・連合軍、シチリア(シシリー)島上陸。「ハスキー(エスキモー犬)」作戦。シラクサ占領。
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