2023年2月9日木曜日

〈藤原定家の時代266〉文治5(1189)年6月6日~6月30日 朝廷、奥州征伐の準備を進める頼朝に中止を勧告 頼朝、重ねて泰衡追討の宣旨を請う 泰衡追討の動員により諸国の軍勢1千騎が鎌倉に到着 大庭景能、追討宣旨を待たず出兵すべきと献言         


〈藤原定家の時代265〉文治5(1189)年5月1日~5月22日 伊豆国に配流中の忠快に召喚宣下 「伊豆の国の流人前の律師忠快を召し返すべきの由、宣下状到着す」(「吾妻鏡」) 〈忠快のその後〉 義経死すの報、京都に届く 「天下の悦び何事かこれに如かずや。実に仏神の助けなり。抑もまた頼朝卿の運なり。言語の及ぶ所に非ざるなり。」(「玉葉」) より続く

 文治5(1189)年

6月6日

・後白河院、鶴岡宮塔供養に馬等を与える。北条時政、伊豆北条に奥州追討祈願の願成就院建立計画(「吾妻鏡」同日条)。 

6月8日

「夜に入り、・・・。師中納言の返報到来す。義顕誅罰の事、殊に悦び聞こし食すの由、院の仰せ候所なり。兼ねてまた彼の滅亡の間、国中定めて静謐せしむか。今に於いては弓箭を嚢にすべきの由内々申すべきの旨、その沙汰候と。」(「吾妻鏡」同日条)。

6月9日

・源頼朝、亡母の為に作った五重塔建立行事を行う。

「先陣の随兵 小山兵衛の尉朝政 土肥の次郎實平 下河邊庄司行平 小山田の三郎重成 三浦の介義澄 葛西の三郎清重 八田の太郎朝重 江戸の太郎重継 二宮の小太郎光忠 熊谷の小太郎直家 信濃の三郎光行 徳河の三郎義秀 新田蔵人義兼 武田兵衛の尉有義 北條の小四郎 武田の五郎信光 次いで御歩(御束帯) 御劔 佐貫四郎大夫廣綱 御調度 佐々木左衛門の尉高綱 御甲 梶原左衛門の尉景季 次いで御後の人々(各々布衣) 武蔵の守義信 遠江の守義定 駿河の守廣綱 参河の守頼範 相模の守惟義 越後の守義資 因幡の守廣元 豊後の守季光 皇后宮権の少進 安房判官代隆重 籐判官代邦通 紀伊権の守有経 千葉の介常胤 八田右衛門の尉知家 足立右馬の允遠元 橘右馬の允公長 千葉大夫胤頼 畠山の次郎重忠 岡崎の四郎義實 籐九郎盛長 後陣の随兵 小山の七郎朝光 北條の五郎時連 千葉の太郎胤政 土屋の次郎義清 里見の冠者義成 浅利の冠者遠義 三浦の十郎義連 伊藤の四郎家光 曽我の太郎祐信 伊佐の三郎行政 佐々木の三郎盛綱 新田の四郎忠常 比企の四郎能員 所の六郎朝光 和田の太郎義盛 梶原刑部の丞朝景」(「吾妻鏡」同日条)。

6月13日

・藤原泰衡の使者新田高衡、義経の首を鎌倉腰越浦に持参。和田義盛・梶原景時の侍所の所司2人が実検(「吾妻鏡」同日条)。 

6月16日

・兼実の娘任子の入内沙汰始(さたはじめ)があり、入内の日程が決まる。

6月24日

・朝廷、奥州征伐の準備を進める頼朝に中止を勧告。

「召しに依ってこれを献ると。晩に及び右武衛の消息到来す。奥州追討の事御沙汰の趣、内々これを申せらる。その趣、連々沙汰を経らる。この事、関東の欝陶黙止し難きと雖も、義顕すでに誅せられをはんぬ。今年は造太神宮の上棟、大仏寺の造営、彼是計会す。追討の儀猶予有るべしてえり。その旨すでに殿下の御教書を献られんと欲すと。」(「吾妻鏡」同日条)。

6月25日

・頼朝、重ねて泰衡追討の宣旨を請う(「吾妻鏡」同日条)。

頼朝は、2月の段階ですでに全国に泰衡迫封のための動員をかけている。

義経没の時点で、正当な理由もない為、後白河院は奥州侵攻許可を与えず。 

6月26日

・藤原泰衡、義経と通じていた弟の藤原忠衡(23、和泉三郎)を討ち、幕府に恭順の意を示す。

6月27日

・泰衡追討の動員により諸国の軍勢1千騎が鎌倉に到着。侍所の和田義盛・梶原景時が奉行となって参陣した武士の名簿(交名)を作成。

「この間奥州征伐の沙汰の外他事無し。この事、宣旨を申さるるに依って、軍士等を催せらる。鎌倉に群集するの輩すでに一千人に及ぶなり。・・・而るに武蔵・下野両国は、御下向の巡路たるの間、彼の住人等は各々用意を致し、御進発の前途に参会すべきの由触れ仰せらるる所なり。」(「吾妻鏡」同日条)。

6月28日

・頼朝は、東大寺の諸像の造立、戒壇院造営の費用を有力御家人に割り当てたが、その納入が送れているので厳しく催促し、「公事(賦課)」に従うつもりで、もし漫然と時を過ごし責任をはたさないようなら、辞退せよ命じる(6月28日条)

6月28日

・8月15日に行われる鶴岡放生会を7月1日に行うこととし、これを「泰衡征伐」の祈祷の場とする(「吾妻鏡」同日条)。

6月30日

・大庭景能、追討宣旨が得られないまま奥州出陣をひかえる頼朝に対し、既に出兵を上申した以上、返事を待たず出兵すべきと献言。頼朝、奥州征伐の意志を固める。

大庭景能は、「軍中では将軍の令を聞き、天子の詔を聞かず」「奥州藤原氏泰衡は河内源氏の累代の家人の避跡を継承するものである」と指摘し、泰衡は家人であるから勅命は必要ないとして、追討の準備が進められた。

「大庭の平太景能は武家の古老たり。兵法の故実を存ずるの間、故に以てこれを召し出され、奥州征伐の事を仰せ合わさる。曰く、この事天聴を窺うの処、今に勅許無し。なまじいに御家人を召し聚む。これをして如何。計り申すべしてえり。景能思案に及ばず、申して云く、軍中は将軍の令を聞く。天子の詔を聞かずと。すでに奏聞を経らるるの上は、強ちその左右を待たしめ給うべからず。随って泰衡は、累代御家人の遺跡を受け継ぐ者なり。綸旨を下されずと雖も、治罰を加え給うこと、何事か有らんや。就中、群参の軍士数日を費やすの條、還って人の煩いなり。早く発向せしめ給うべしてえり。申し状頗る御感有り。」(「吾妻鏡」同日条)。

幕府の軍事行動に対する朝廷の干渉を排除する論理(勅許なき戦争を遂行する論理)。

①「軍中の論理」:軍中では将軍の命令が天子の詔に優先する。

②「主従制の論理」:御家人と見なされる限りこれを討つのに朝廷の許可は不要。①の「軍中聞将軍令、不聞天子之詔」は、漢の将軍周亜夫が配下の将兵に命じた言葉として「史記」に見えるもので、その後「漢書」周勃伝や「六韜」竜韜立将篇などにも引用され、日本でも知識人層には周知の故事。


つづく


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