2023年2月21日火曜日

〈藤原定家の時代278〉文治6/建久元(1190)年4月8日~6月29日 建久改元 女御任子(兼実娘)が中宮となる 一国平均役の収取体制再建(財政問題の課題) 

 


〈藤原定家の時代277〉文治6/建久元(1190)年2月4日~3月20日 足利義兼を大将とする奥州追討軍、大河兼任を衣川に撃破、兼任は土民に殺される 西行(73)、河内の弘川寺にて没 出羽国置賜郡・成島荘・屋代荘・北条荘・寒河江荘の地頭職を大江広元に与える より続く

文治6/建久元(1190)年

4月8日

・慈円「一日百首」成立

4月11日

・建久改元

4月14日

・一条能保室(46、頼朝の姉妹)、没。

4月18日

「美濃の国犬丸・菊松・高田郷等の地頭乃貢を対捍する事、同国時多良山地頭玄蕃の助蔵人仲経神事に従わざる由の事、在廰の申状に就いて、院宣を下さるるの間、二品御下文を遣わさるる所なり。 下す 美濃の国犬丸・菊松・高田郷の地頭等 右犬丸・菊松の地頭(字美濃の尼上)、高田郷地頭保房等、私領の如く知行し、所当以下の勤めを致さざるの由、在廰訴え申すに依って、院より仰せ下さる。仍って勤めを致すべきの由度々下知す。猶以て対捍するの間、重ねて仰せ下さるる所なり。然れば度々の院宣その恐れ少なからず。今に於いては、件の両人の地頭職、他人に改補すべきなり。早く郷内を退出すべきの状件の如し。以て下す。 文治六年四月十八日」(「吾妻鏡」同日条)。

4月19日

・九条兼実(42)、太政大臣辞任。

4月19日

・成勝寺執行昌寛(頼朝の奉行を度々務めた後家人)、越前の鳥羽・得光・丹生北・春近4ヶ所を知行し、伊勢内宮の役夫工米(式年遷宮の費用)納入を全て済ませたとされる(「吾妻鏡」同日条所載の注文)。4ヶ所は京都白河に建立された六勝寺の一つの成勝寺領ではなく昌寛は地頭職。

「造太神宮の役夫工米地頭未済の事、頻りに職事の奉書有り。神宮使また参訴するの間、不日に沙汰を致すべきの旨下知し給う。子細有る所々に於いては、今日京都に注進せしめ給う。・・・」(「吾妻鏡」同日条)。

4月22日

・後鳥羽帝の生母藤原殖子に七条院の院号宣下

4月26日

・女御任子(九条兼実娘)が中宮となる。 

28日、立后の儀。定家、参仕。

4月29日

・大江広元、藤原俊兼・平盛時とともに造大神宮役夫工米(やくぶくまい)を地頭が納入していない所領に対する成敗の沙汰を奉行する。

この年、頼朝は、平和状態の回復だけでなく、財政問題を含めた国家秩序の再建にも力を入れた。伊勢神宮の式年遷宮等のような、国家規模で取り組まなくてはならない重要な行事のための費用を荘園公領の別なく賦課する、いわゆる一国平均役の収取体制を再建することは、国家財政問題の中で頼朝が最も力を注いだ課題の一つである。

頼朝が特に重視したのは、いかにして地頭御家人たちを一国平均役の賦課に協力させるか、という問題であった。

この時朝廷に注進された役夫工米未済所々のリストには、広元自身の所領である伊勢国小倭(こやまと)荘(小倭田荘)の名が見える。同荘を含め9ヵ所に及ぶ伊勢国の広元所領は、文治3年(1187)3月30日に作成された伊勢国在庁注進状の中でも公卿勅使駅家雑事(くぎやうちよくしうまやぞうじ)未済の所領とされている。

5月

・従三位皇太后宮権大夫の四条家の季隆、没。正三位権中納言の隆房が後継。隆房の正妻は、建礼門院徳子と最も親しい同母妹。建久初年頃、建礼門院は大原から善勝寺に移る。善勝寺は、四條家の家の寺で法勝寺西南に位置している。四條家の家長は、「善勝寺長者」と称し、善勝寺を領有・管理。女院の善勝寺止住は30年近く続いた模様。

5月3日

・藤原定家(29)、中宮任子八社奉幣の奉幣使となり稲荷社に参る(「玉葉」)

5月12日

「加賀の国井家庄の地頭都幡の小三郎隆家不義の事、仙洞より仰せ下さるるの間、今日下知を加えしめ給う。平民部の丞盛時これを奉行す。 井家庄内都幡の方、地頭と号し方々に不当を致すの間、領家の所命を用いず、京下の使者を受けず。所務を押領し、士民を冤陵す。況や自名の課役、一切その勤めを致さざるの由、院より仰せ下さるる所なり。所行の至り、奇怪極まり無し。直に地頭職を停止すべきと雖も、先ず下知し遣わす所なり。自今以後領家の命に違背せしめば、地頭職を停廃せしむべきなり。その上隆家の身も重科を遁れ難からんか。仰せの旨此の如し。仍って以て執達件の如し。 五月十三日 盛時(奉る)」(「吾妻鏡」同日条)。

5月28日

・慈円「宇治山百首」成立

6月25日

・藤原定家(29)、「一字百首」を詠む。

同26日、「一句百首」。定家の勧進で慈円等も詠む(「拾玉集」)。

6月29日

・頼朝、後白河院へ、「天下落居の後は、万事君の御定を仰ぐべく侯事なり。しかるに家人を大切と存じ候いて、御定に背き候わんとは、さらに存ぜず候事なり」(「吾妻鏡」同日条)と述べる。院に対する頼朝の忠誠心を示す。

「諸国地頭等の造太神宮役夫工米の事、多く以て対捍有るの間、造宮使頻りに子細を申すの間、重ねて仰せ下されをはんぬ。仍って日来その沙汰を経られ、且つは地頭等に触れ仰せられ、且つは請文を進せらると。・・・の中相模・武蔵は近境に候の間、能く下知を加えしめ、早速究済の勤めを致し候いをはんぬ。自余六箇国は、その程を相隔て候が故、国務沙汰人に申し付けるの間、先例を守り沙汰を致せしめ候か。・・・遠江の国の事、謹んで承り候いをはんぬ。・・・」(「吾妻鏡」同日条)。


つづく

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